第37話 oriental blue
「ごめん、飲ませすぎたの。二日酔いになるだろうから、明日の朝よろしくね」
祝杯だと騒ぐ永子が四杯目のビールを空にするのを待ってタクシーに乗って羽柴家まで戻ってくると、待ち構えていた理汰が玄関先で泥酔状態の永子を引き取ってくれた。
いつもならここで後はよろしくね、と言って出ていくのだが、今日はお邪魔してもいい?と自分から切り出した。
頷いた理汰はリビング行っててと告げて、永子を寝かせに彼女の自室に向かってほどなくして戻って来た。
真っ先に智咲の顔色を伺って、相好を崩した彼の表情に早速胸がキュンとなる。
しょっぱなからこんなんでこの先心臓は大丈夫だろうか。
「智咲さんは酔ってないね?」
「うっすいハイボール一杯だけにしたからね」
「伝言守ってくれたんだ」
えらいじゃない、と眉を持ち上げた理汰に改まって向きなおる。
あそこまで介抱されておきながら、病み上がりに深酒する度胸はない。
そして、この後待ち構えている一大告白の為にも酔っぱらっている場合ではなかった。
「・・・・・・その節は色々とご迷惑をおかけしました」
「ご快癒おめでとうございます」
深々と頭を下げた智咲に理汰がおどけた様子でかしこまった返事をくれた。
穏やかな空気はまるっきり今まで通りで拍子抜けしそうなくらいだ。
「おかげさまで・・・・・・あの・・・理汰・・・・・・・・・話がある・・・・・・」
「うん。聞くよ。あ、でもその前に一個だけ良い?」
「うん?なに?」
ソファに腰掛ける智咲の隣に腰を下ろした理汰が、片手を座面について覗き込んでくる。
「こないだ智咲さんの代理で来てた松本さんって、智咲さんの家来たことあるの?」
「松本くん?ないよ、っていうか家知らないはずだけど、なんで?」
「・・・・・・あ、そう。打ち合わせの時に、智咲さんが寝込んでるから差し入れ届けようかって言ったら遠慮してたから心配だって話してて・・・・・・ちょっと気になって・・・」
「松本くんはね、同期で、先に出世した彼がいまは上司なんだけど・・・いい人だったでしょ?たぶん数年後には課長昇進するんじゃないかなぁ」
眉根を寄せた理汰が、溜息交じりでぼやいた。
「・・・・・・智咲さんの周りはいい人だらけだね。雪村さんといい、松本さんといい」
「永子さんも理汰も含めて、私周りの人に恵まれてるのよね。今回それをひしひしと感じたわ」
弱った時に受けた優しさはそのまま体と心の栄養素になる。
松本は心配して栄養ドリンクを買ってくれたし、井元は駅前のプリンを、田村はカロリーバーを差し入れしてくれて、課長まで智咲の体調を伺いに席までやって来た。
たまには寝込むのも悪くないなと思った休養期間だった。
「その中でも俺が一番心配してるって分かってくれてるんだよね?」
伸びてきた腕に手首を掴まれたと思ったら、あっさりと身体が傾いた。
庇うように後ろ頭を抱えた手のひらが、座面に置かれたクッションの上に智咲の頭を下ろす。
「あ・・・はい、それは勿論」
「・・・・・・あのさ、正直雪村さんと仲良くされるのあんまり面白くないんだけど」
「いやでも仲良くしないとシンポジウム成功しないからさ・・・」
「それはそうだろうけど・・・・・・」
それでも面白くないとわかりやすく態度と表情で示されるのは、存外悪くない。
彼の気持ちがどこにあるのか分かっているいまは尚更、こういう嫉妬が嬉しい。
「・・・・・・えっと・・・理汰、い、色々考えたんだけどね・・・・・・」
「考えすぎて寝込んだんだよね?あの高熱ってほとんど俺のせいでしょ?」
「っ!」
「松本さんが、ここ数日やたらと智咲さんがミス連発してて、凹んだり難しい顔してることが多くて心配してたって言ってた。俺が告白してからだよね?」
「私は・・・・・・もう何年も心の平穏だけはずっと守って生きて来たのよ。波風立てずに穏やかに・・・この先もずっとそれでいいって思ってたから」
「俺とのことは余計だった?」
困ったように理汰が眉を下げる。
手遊びで絡め取られた髪が視界の隅でゆらゆら揺れた。
まるで彼に揺さぶられた心のように。
「私が理汰にとっては余計だと思ってた。永子さんの次くらいの場所で幸せになるのを見届けてあげたいな、とか勝手に思ってたんだけど・・・」
「智咲さんは余計じゃないよ。俺の大事な人だし、俺のことを一番幸せにしてくれるのは智咲さんだよ。この前も言っただろ」
「それは・・・・・・こないだも言ったけど・・・ちょっと荷が重いんだけどね・・・・・」
「じゃあ、俺のことはどうでもいい?」
「・・・そんなことあるわけないでしょ。ぜんっせん良くない。良くないって・・・思い知らされた」
どうでもいいと突き放してしまえていたら、いまこうなっていない。
理汰は、自分の存在が、この数日でどれくらい大きくなっているのか、ちっともわかっていない。
あの日智咲は、ズタボロの身体だけじゃなくて心も拾って貰ったような気がしたのだ。
もういいや、と諦めてホームで佇んだままのひとりぼっちの自分を。
「俺の年齢が智咲さんに追い付くことはもう絶対にないし、たぶん見えてるものも覚悟も全然違うんだろうけど・・・・・・難しいこと考えないで。一回で良いから、気持ちだけで俺のこと見てよ」
いい歳の大人なんだから、感情論でモノを言うなとか、立場を考えろとか、小難しい言い訳ばかりして、いろんなことに目を瞑って来た。
そうやって知らず知らずのうちに手放して来た、見送って来たものがきっと沢山ある。
でも、目の前の彼だけは、絶対に逃したくない。
心が、そう、叫んだから。
「・・・・・・うん。あのね・・・・・・ごめんね、ありがとね。私、理汰が好きだよ」
智咲の言葉を受け止めた理汰が、一瞬だけ目を丸くしてから、一気に脱力して圧しかかってくる。
「・・・・・・ごめんは余計でしょ」
「お、重たいよ」
そうかこれが理汰の重みで、これをこの先彼が手を放す瞬間まで、ずっと抱えて行くのか。
「うん・・・・・・たぶん、俺は重たいと思う」
小さく笑った理汰が、許してねと囁いて耳たぶを啄む。
くすぐったさに身を捩りながら、それでも今だけはこの幸せな空気に浸っていたくていつのまにやらずいぶんと逞しく成長していた理汰の背中に腕を回した。
「大丈夫。ちゃんと抱えていけると思う。私のほうが7年も余分に生きてんだからね。だから、つ、付き合おう私たち。全力で幸せにする!」
自分を鼓舞するように口に出せば。
「智咲さん。告白してくれてありがとう。俺のほうがずっと好きだよ」
幸せそうに目を細めた理汰が、柔らかく微笑んでそっと唇にキスを落とした。
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