第36話 Nile blue

「どうよ?うちの息子役に立ったでしょう?」


「・・・・・・役に立つどころか、役に立ちすぎましたよ」


不貞腐れた表情で薄めのハイボールをチビチビ舐めるように飲む智咲の顔を見て、永子が快活に笑った。


快気祝いを兼ねて二人で飲もうと永子から誘われたのは、智咲が二日ほど療養休暇を取った後の週末のことだった。


病み上がりは一杯だけよと会うなり言われて、顔を顰めた智咲にすかさず永子が、理汰からの伝言だと付け加えてきて、ああ全部バレてるなと悟った。


本当はこちらからさし飲みのお誘いをする予定だったのに。


理汰と玄関先で揉めた直後に意識を失った智咲は、そのまま理汰によって病院に運ばれた。


近くの内科で風邪の診断を受けて点滴を入れて貰っている間にマンションに戻った理汰は放置されたままの洗濯物と食器を綺麗に片づけて、床に放置されたままのDMを選別し、布団を干してお風呂を洗ってお掃除ロボットが快適に動き出すのを見届けてから智咲を迎えに来た。


その後もテキパキと持参した食材を使ってスープと雑炊を拵えて、智咲の熱が微熱に下がるまで付き添ってから洗濯物を綺麗に畳んで帰って行った。


正直智咲よりもずっと丁寧で手際が良かった。


年下の弟のような彼を意識した途端、ひっちゃかめっちゃかの家を片付けられてあまつさえ洗濯物まで畳まれた私って・・・・・・


こみ上げて恥ずかしさと居た堪れなさは薬と共に飲み下して忘れる事にした。


理汰は自分の優秀さを思う存分発揮できて満足したようだったけれど、智咲としてはこの先が思いやられる。


これからどれだけ理汰の前でカッコつけても、素の智咲を知られているというのは、やっぱりどう考えても分が悪い気がする。


「片親だから、一通りのことは仕込んどいたしそれなりに気も利くでしょ?あんたの言う通りいま絶賛売り出し中だからお買い得よー。見た目も悪くないし、中身はもう言わなくても分かってるわよね?あんたにひたすら一途よぉ。だから浮気の心配もなし」


楽しそうな永子の言葉に、理汰の気持ちが筒抜けだったことを悟った。


「・・・・・・知ってたんですね」


「母親だからねぇ。バレバレの高校生みたいな片思い。見てて面白かったわよ。あんたが家に来る日何度も確かめて来たり、好き嫌いを尋ねて来たり、あれでバレてないと思うほうがどうかしてるわよ」


聞こえて来た初耳情報に、ああやっぱりその頃からか、と妙な納得を覚えて、一途すぎる理汰に嬉しいやら恥ずかしいやらでいっぱいいっぱいになる。


そんな智咲を横目に、あーおかしい、と涙目になった永子が二杯目のビールを煽った。


「あの・・・・・・永子さん・・・・・・永子さんは・・・・・・理汰の相手が、私でいいんですか・・・?」


こういう尋ね方はずるいと知りながらも尋ねてしまった。


どうしても、始める前に永子からの及第点を貰いたかったのだ。


「ん?私?私は、あの子が選んだ相手なら、誰でもいいのよ。ちゃんと人を見る子に育てたつもりだから、よく見つけましたと褒めてやりたいわね。ああ、でも、智咲の気持ちを蔑ろにするつもりはないから、嫌いならそう言ってやって」


そこまで押し付けるつもりはないから、と言われて智咲が思わず笑ってしまった。


「・・・・・・嫌いなわけないじゃないですか・・・理汰ですよ」


ずっと見てきた彼だから、だからこそ二の足を踏む気持ちはやっぱりある。


それでも、惹かれていないのかと訊かれれば、惹かれていると答えるよりほかにない。


だって智咲にとって一番身近で一番気安くて一番居心地が良い異性が彼なのだ。


そんな男をこの先ずっと独り占めする権利を得られるなんて、なんて贅沢だろう。


「うちの息子、男しても及第点?」


「・・・・・・・・・正直、私には勿体ないって思ってます・・・・・・ここで寄り道させていいのかなって・・・・・・責任も・・・」


どうしてもゴールではなく寄り道だと感じてしまうのは、自信のなさの表れだ。


自分が彼により良いものを差し出せないと分かっているから、向き合うのがどうしようもなく怖い。


だってここまで生きて来てもまだ自分の武器が何なのか分からないのだ。


きっとこの先何度もこれで良かったのかと自問自答を繰り返すだろう。


そして、そのたび彼と永子を好きな気持ちを思い出すんだろう。


智咲の言葉に永子がぺしりと若干薄くなった背中を叩いてきた。


高熱にうなされた身体はいい具合に脂肪が落ちて、頬はじゃっかんこけてしまった。


出勤すると同時にフロアのみんなから心配されて、あれこれ差し入れのお菓子を貰ったので、もうすでに元の体重に戻りつつあるのだけれど。


「あんたねぇ。誰かと出会うことに寄り道なんてないわよ。全部必然よ。理汰があんたがいいって言ってるんだから」


そこは胸張ってやってよ、と穏やかに目を細める永子の横顔は、どこか誇らしげに映った。


この人が背中を押してくれるなら、もう逃げてはいられない。


この気持ちがどこまでいけるか分からないけれど、どこまでも行ってやる。


「私、頑張って理汰を幸せにしますね」


「そういう気合は要らないから、二人で幸せになりますって言って欲しいわ」


「う・・・・・・それは・・・・・・もうちょっと先で・・・」


勝手に先の先まで妄想して理汰に突っ込まれたのはついこの間の話だ。


「はいはい。そうね。その辺は二人に任せるわ」


好きにしなさいよと鷹揚に永子が頷く。


理汰と居て心地よいと感じてしまうのは、彼が永子と似ているからだ。


彼の中に確実に宿る永子の気質が、智咲にとっては何より安心できるのだ。


「・・・・・・・・・永子さん」


「ん?」


「私、これからも永子さんと仲良くしていきたいです。ずっと、定年してもその後もずっと」


理汰のことがあっても、なくても。


言外に込めた意味を、永子は瞬き一つで受け止めて、目を伏せた。


「女の友情は血よりも濃く、恋より脆いらしいけど、挑んでみる?」


「それはもう全力で」


覚悟と決意を持って真剣に頷けば、永子がビールグラスを掲げて見せた。


「じゃあ、これからもよろしく、末永く」


「こちらこそ」


軽くグラスをぶつけて乾杯すれば、小気味よい音と共に最後の迷いが消えた。





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