第35話 navy blue
智咲が熱で休んだと代理出席した松本から聞かされた時点で、あ、俺のせいだなと反省した。
数年間恋愛から遠ざかっていた彼女を一気にこちら側に引っ張り込んだ自覚はあった。
そして、あの日会議室で真っ赤になった彼女は、涙目になって何度も冗談じゃないの?と尋ねて来た。
どこまでしたら本気だと信じて貰えるんだろうとどす黒い感情が浮かんでは消えた。
それから一週間ほど経ってからの体調不良だ。
この一週間、智咲の頭の中は今までで一番くらい理汰のことでいっぱいだった事だろう。
倒れた彼女を近くの内科に運んで、一旦部屋に戻って家の中を片付けて、点滴が終わる頃合いを見計らって迎えに行くと、彼女はまだベッドで休んでいた。
病院に連れて来た時よりずいぶん顔色が良くなっていてホッとする。
飲み薬よりも早く効くと言われて、点滴を頼んで正解だった。
基本的にいつも元気な人なので、こうもぐったりしている姿を見ると本気で心許ない気分になるのだ。
残り僅かの点滴をぼんやりと眺めながら、智咲がぽつりと呟いた。
「・・・・・・うちさぁ・・・・・・あんまり親と仲良くないのよね・・・・・・」
智咲から家族の話を聞いたことはほとんどない。
市内に実家があるにもかかわらず、智咲から実家に帰ったという話は聞いたことが無かった。
すでに結婚した兄夫婦と両親が二世帯同居していることだけは母親伝いに聞いたことがある。
年末年始も実家に戻ることはなくて、理汰がこっちに戻ってくるまでは羽柴家で永子と二人年越ししたこともあるくらい、家族とは疎遠だったようだ。
「・・・うん」
「だから・・・永子さんを・・・・・・母親代わりみたいに思ってるところがあって」
「うん。知ってるよ」
「だから、永子さんがお母さんなら、理汰は弟でしょ?だから、一番安全な場所から、幸せになるのを見届けたいなって・・・思ってたのよね・・・・・・・・・」
「もしも、理汰と・・・・・・そういう関係になったら・・・・・・永子さんとの関係も壊れちゃうし・・・・・・ほら、私にとって羽柴家って第二の実家みたいなもんだから・・・・・・余計、そういうの・・・困るなって思ってて・・・・・・敢えて、理汰の気持ち見ない振りしてたところは、あったと思う・・・・・・ごめんね・・・」
「そのことはもういいよ。俺もはっきり言わずにここまで来たし・・・・・・智咲さんが、母さん好きなのも知ってるし」
「うん・・・・・・そうなのよ・・・・・・私、永子さんにだけは見放されたくなくて・・・・・・だから、あの人の大事なあんたを傷つけるようなこと・・・・・・したくないの」
「俺が智咲さんを選んだら、なんで俺が傷つくのよ」
「だって私、36だよ?もう何もかも手遅れだし、永子さんに孫の顔だって見せてあげられないかもしれないし」
智咲がどこまでも年齢のことを気にしているのは知っていたが、まさか付き合ったその先の心配までしてくれていたなんて。
「・・・・・・・・・そんなことまで考えてくれたんだ?」
「考えるよそれは。だって私、理汰の子供の面倒見るつもりでいたんだもん。七五三とか一緒に行って写真とかいっぱい撮ってさぁ・・・・・・」
「え、なに。それは俺の子供が産めないかもしれないことへの罪悪感なの?夢が消えそうなことへの寂寥感なの?」
「・・・・・・・・・そんなのわかんないわよ・・・・・・」
点滴を打っていない方の手で、智咲が顔を隠した。
椅子に座ったまま近づいて、彼女の頬を覆う手を捕まえて、そっと絡ませる。
智咲は驚いたようにこちらを見たけれど、手を解こうとはしなかった。
「俺はそこまで言ってないよ。ただ、智咲さんが好きって言っただけ。俺のことを、母さん抜きでちゃんと見てって伝えただけだよ。そりゃあ、出来れば結婚して欲しいけど、それはもう今はどうでもいいよ。いや、良くは無いけど、妙な責任感じて、俺のこと要らないって言われるほうが辛いよ・・・・・・・・・智咲さんが思い描く俺の理想の未来ってさ、たぶん俺が思い描いてるのとそんなに変わらないよ。好きな人と幸せになるってことでしょ?だったら、それ一番に叶えられるのは智咲さんだけだよ」
「・・・・・・・・・責任が重たすぎるわ」
「そう?智咲さんにしか出来ないし、他の人に頼むつもりもないから。俺はもう勝手にするから、手遅れだって自分の人生に匙投げるなら、智咲さんのこと俺に頂戴」
「・・・・・・・・・は?」
「そうしたら俺は幸せになれるし、智咲さんも自分の人生を嘆かないで済む」
「・・・・・・・・・永子さんを悲しませたくない」
「母さんは悲しまないよ。むしろ俺が智咲さんを選んだって言ったら大喜びするよ」
「・・・・・・・・・もし駄目になったら?私はあんたも永子さんもいっぺんに失くすのよ」
もうすでにその未来が見えているかのように、智咲の目尻に涙が浮かんだ。
「前も駄目だった。これ以外の人生を選べなかった。私死ぬほど我儘なのよ。一人がいいの。気楽だし、好きなこと出来るし、誰の責任も背負わなくて済むし。誰にも左右されなくて済むし。寂しいよりも、自由を選んだのよ。だからそれはこれからもずっと変わらない」
「うん。だから、選ばなくていいよ」
「・・・・・・・・・」
「智咲さんの何かを変えて欲しくて言ったわけじゃないし」
「でも・・・理汰・・・・・・」
「だから勝手にするって言った。俺のこと選ばなくても、俺が勝手に智咲さんを選ぶから」
「なにそれ・・・・・・・・・屁理屈」
へにゃりと笑った智咲の目尻の涙をそっと拭う。
「今まで通り、重なる部分は楽しんで一緒に過ごそう。でも、俺が向ける気持ちを無視はしないで」
いま智咲に差し出せる一番前向きな提案をしたつもりだった。
ふうっと智咲が静かに息を吐く。
それはあきらめの溜息なのか、覚悟の吐息なのか、いまの理汰には分からない。
「・・・・・・・・・分かった」
けれど、彼女が短く答えた一言が、すべてだった。
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