第38話 peacock blue-1
「で、さきほど申し上げた抗腫瘍自己リンパ球移入療法については、子宮頸がんに対する先進医療で、海外の研究では、進行子宮頸がんに対しても有効性が示されています。この先進医療によって、従来の治療が有効でない進行・再発子宮頸がんの患者さんの延命や長期生存が期待できる可能性があるとされており・・・」
配られた資料とスクリーンに表示されるPDFを見ながら、教授が先進医療についての説明を続けている。
行政と企業が一丸となって医療都市化を目指していくために、まずは推進機構の所属メンバーの基礎知識の底上げをしようと課長がメディカルセンターに打診して、月に一度の勉強会が開かれることが決まったのは二か月近く前のこと。
スケジュール調整と、勉強会の内容について何度かの打ち合わせの後漸く実現した勉強会は蓋を開けばメディカルセンターと行政の合同勉強会になっていた。
どうせならとメディカルセンター内でも勉強会への参加希望を募ったところ結構な数になったらしく、大会議室を押さえての大掛かりなものへと発展してしまったのだ。
というのも、毎月テーマを決めて医療技術や研究開発についてのセミナーが行われることになり、一回目は理汰の研究室の教授による先進医療についての講座が開催されたのだが、翌月の勉強会の講師役であるイノベーションチーム雪村の見学参加が急遽決まったせいで、一気に女子社員の参加希望が増えたためだ。
あまり連携のない他部署の女子社員にとっては、高嶺の雪を間近で拝める滅多にないチャンスである。
智咲は、西園寺メディカルセンターにこんなに沢山の女子社員がいたことを初めて知った。
男性社員の割合のほうが多いと理汰は言っていたけれど、それにしたって若い女性も結構いる。
理汰に限って他の女によろめくなんてことは無いだろうが、相手の気持ちまではどうしようもない。
久しぶりに感じる嫌な嫉妬心に、そうだ恋愛ってこういうもんだったとずしんと重たい気持ちになった。
すっかり売れ残ってしまった自分と、今まさに売り出し中の理汰では、注目のされ方も扱いも当然ながら雲泥の差があるのだ。
勿論、理汰からの愛情にあぐらをかいているつもりもなければ、そんな余裕もない。
寄り道だと自分で言ったくせに、いつの間にか自分を寄り道だと思われたくなくなってしまって、最近の智咲のスマホの検索履歴は、アンチエイジング一色である。
老後資金だと溜め込んでいた貯金を見直して、遅まきながら永子を誘ってエステに申し込みをしてみたり、ちょっと値の張る美顔器なんかを購入してみたり、効果てきめんと口コミにあった一枚数千円の高級パックに手を出してみたりと忙しい。
だってこれで捨てられたら本当にもう今度こそ智咲の人生はお先真っ暗である。
案の定、雪村の美貌を堪能しつくした女子社員たちの視線は、教授の隣でパソコン画面を操作しつつサポートを行っている理汰の横顔に注目しているじゃないか。
なんで参加表明なんてしたのよ、雪村くん!!
配られた資料をうっかり握りしめそうになったところで、理汰が10分休憩のアナウンスを行った。
「この後15時からは、そのほかの事例についてご説明しますのでー・・・」
この視線に気づいているのかいないのか、まあ気づいてないならそれに越したことは無いけれど、と思いながらぼんやり理汰の顔を眺めていたら、ばっちり目が合った。
慌てて逸らして素知らぬ振りをする。
いや、待って、今のは笑顔を返すところで、視線を逸らすところじゃないのでは?
もはや恋愛から遠ざかり過ぎていて、こういう時の正解がさっぱり分からない。
もう一度視線を送ったら、見つめ返してと訴えているようなものだし、理汰の顔に見惚れていたことばバレるのも困る。
メディカルセンターの誰にも二人の交際について話してはいないし、推進機構のみんなにだって黙ったままだ。
最近智咲さんお洒落になりましたよね、と目ざとく井元チェックが入ったけれど、風邪引いて痩せてからお洒落が楽しくなっただけ、と誤魔化している。
一人赤くなって俯いた智咲の隣で、井元がお手洗い行ってきますねーと立ち上がった。
一時間の座学はなかなか堪える。
休憩の合図とともに一斉に廊下に人があふれ出して、残っているのは智咲と理汰だけになった。
松本と課長は早速この機会に顔を繋げようと、廊下で名刺交換に勤しんでいる。
付き合うことが決まってからの目まぐるしい変化に、心も身体もまだ追い付けていない。
当たり前のように理汰から家に行っていい?それとも家に来る?というメッセージが届いたり、それはあれか、イチャイチャの予告かと身構えて返事に二時間悩んだり。
そうこうしている間にしびれを切らした理汰が、仕事帰り智咲のマンションに顔を出すことが増えてきて、最近では泊まりたいとごねる彼を帰れと説得するのに一苦労している。
永子の手前、やっぱり付き合ってすぐ堂々と外泊はさせたくなかった。
理汰は死ぬほどげんなりして、俺いくつだと思ってんのと呆れていたけれど。
だって彼を泊めたら、致しても致してなくても、永子にはそうだと思われる。
なんかそれがもう本当にどうしようもないほど恥ずかしいのだ。
こればっかりは理汰にどれだけ語ってもきっと理解して貰えないだろう。
これが庁舎の自席だったらべったり机に突っ伏して重たい溜息を吐きたいところだが、ここは大会議室で、付き合いたての彼氏がすぐそこにいるのだから、絶対無理だ。
今更だろうが、遅まきだろうが、見栄を張りたいに決まっている。
理汰がどれだけ言葉と態度で愛情を示してくれたとしても、やっぱり自分を卑下する気持ちはそう簡単にはなくならないし、なくならなくていいのだ。
足りないと思っているくらいで、この恋はちょうどいい。
錆びついていた乙女回路がようやく回り始めて、クローゼットには新しい洋服が増えた。
すり減ったヒールとはサヨナラしてちょっといい靴も買った。
新色には興味の無かったコフレにも挑戦したり、リップを塗り直す回数が増えたりと、恋愛の第一線に復活した大人女子はなにかと忙しい。
そうだ、会議の後すぐ庁舎に戻ることが決まっていても一応リップくらい塗り直したほうがいいかもしれない。
遠目にちらっと理汰の視線が飛んで来た時に唇に色が無いのは寂しいし、血色も悪く見える。
どこまでも理汰視点で物事を考えてしまう自分のお花畑の思考回路に赤面しつつカバンを長机の上に持ち上げたら、背後から声がした。
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