第26話 lapislazuli-2

危なかった。


もう少し若くて乙女回路が生きていたらうっかりときめいてよろめいていたかもしれない。


そんなことになったら、永子に一生顔向けできないのに。


「いい歳の大人はそんな簡単にドキドキしないもんなのよ。そういう感情とちょっとずつ離れて行くことが、歳を取るってことなのかもしれないわね。だから、あんたは今のうちに頑張って」


しっかりやんなさいよと軽く肩を叩けば。


「智咲さんが俺の歳の時は、ときめいたの?」


予想外の質問が返って来てうーんと眉根を寄せて記憶を遡る。


「んー・・・7年前か・・・もう彼氏とは別れてたな・・・ときめきはもうなかったなぁ・・・・・・女は20代と30代で驚くくらい扱いが変わってくるのよ。年齢がプラスに作用するのって男性のほうが多いんじゃない?渋みが出るとかいうし。理汰がどんな40代を迎えるのか、いまからちょっと楽しみよ」


「・・・じゃあさぁ、20代の頃の恋愛に未練ってある?」


「ないとは言い切れないけど・・・・・・あの頃の誰かを選んでても、上手くいかなかった気がする。私さぁ、駄目になるたび次こそ、次こそ、って期待して来ない電車いつまでも待ってたのよねぇ。特急しか停まらないホームで、ひたすらポツンと各駅停車待ってたら、こうなってた・・・・・野田くんがその人かもって思ったけど違ったし・・・・・・・・・だから、理汰には、いつかこんな風に嘆いて欲しくないなって思って、色々言っちゃうんだけど・・・いや、余計なお世話だとは思うんだけどさ。私もね、別に現実に嘆いてるわけじゃないし、仕事もあって住む家もあって友達もいて、選んできたいまに満足してるよ?でもね、どっかでなにかが違ってたらな、って思う時もやっぱりあるから、後悔は少ないほうが絶対いい」


たらればを言えばきりがないし、動けなかった自分に責任がある。


いまの自分は、過去の自分の選択の結果で、選択肢の積み重ねだ。


それが、誰かから見て滑稽だったとしても、間違いだらけだったとしても、正解だと信じて突き進むしかないのが、自分の人生だ。


誇れるかどうかは別として、私はこうです、というよりほかにないのだ。


「俺は、いまの智咲さんが居てくれて嬉しいよ」


胸の隙間をするんと撫でるような、優しい言葉だった。


ああ、ここまで歩いてきて良かったなと、素直に受け取れる声だった。


不覚にも泣きそうになって慌てて助手席の窓の外に視線を移した。


本当に最近涙もろくて困る。


車も人も通らない真っ暗な道に、一筋のミルキーウェイを見つけたような気分になった。


「・・・・・・・・・ありがとう。いつか、理汰にも同じように言ってくれるいい人が現れるよ。頑張って探してね」


前から走って来た対向車のヘッドライトが眩しくて目を閉じた。


理汰がウィンカーを出して、智咲の暮らすマンションのほうへ左折する。


「・・・・・・雪村さん、社内の女の人とずっと前から噂あるよ。本人たちは適当に誤魔化してるみたいだけど」


「理汰、噂は噂。鵜呑みにしたら駄目よ。ほんとうのところなんて、結局は当人たちにしか分かんないだから。雪村くん、そういう勝手な噂一番嫌うよ」


「よく知ってるね」


やけに突っかかる言い方だな、と思ったがとくに深く考えることもなく返事を口にする。


「昔からあることないこと言いふらされて辟易してるの見てきたから」


「さっき母さんに言ったアレって、本音?」


「うん?」


「雪村さんとは絶対にどうにもならないってやつ」


「ああ、うん、なんない、絶対に」


「言い切れるんだ?」


「心配なら雪村くんに訊いてごらん?真顔で無いですって言われるわよ。あ、敷地の中まで入らなくていいよ、大回りになるから・・・」


「この通り明かりないから危ないよ」


智咲の言葉を遮るようにマンションのエントランス前まで車を回そうと、理汰がハンドルを切った。


マンションの手前の歩道で下ろして貰ってそこから歩いて帰ろうとするのだが、一度として成功した試しがない。


こういう気配り上手なところは、間違いなく永子の子育ての賜物だろう。


智咲がどれだけ年上でも、理汰はいつだってちゃんと”女性扱い”してくれるのだ。


「慣れた道よ、危ない目にあったことなんて一度もないわ」


「この町は平和で凶悪犯罪とは無縁だけどさ、智咲さん一人暮らしなんだから、ちゃんと用心してよ」


「心配してくれてありがとね。あと、お土産も大事にする。永子さんにも後でメッセージ入れとくけど、お邪魔しましたって言っといてね」


智咲が帰る頃にはソファで熟睡中だったので、永子には挨拶が出来なかった。


年々酒に弱くなっていく彼女を見ていると、つくづく年齢を重ねることを思い知らされる。


出会ったばかりの頃の永子は、終電まではしご酒をしてもけろりとしていたのに。


「送ってくれてありがとう。今日もものすごーく助かりました」


「あ、貸して。鍵つけるから」


車を停めた理汰が、ハンドルから手を放してピンクのイルカを捕まえに来た。


最近はジャムの蓋を開けることにすら苦労するレベルだったことを思い出して素直に家の鍵を差し出した。


明かりをつけた理汰が手際よくリングに鍵を通していく。


「はい出来た。これでもう行方不明にならないね」


あっという間に家の鍵がピンクのイルカの隣に収まった。


有難く両手で捧げ持って丁重に頭を下げる。


「ありがとう。大事にする」


「このイルカさ、俺も持ってるんだよね」


意外な告白に智咲は目を丸くした。


「え?理汰がイルカのキーホルダー持ってるの?なんか可愛いんですけど・・・いや、変って意味じゃないよ?」


最近はアラサー男子も甘いものや可愛いモノ好きが多いらしいし、他ならぬ理汰が持つのだから、まあ、それほど違和感はない。


それに、理汰の雰囲気とイルカは、なんとなく似ている。


警戒心をあっさり解かせてしまう独特の空気感を、理汰は昔から持っていた。


「水色のイルカとピンクのイルカ、ペアのキーホルダーだったんだよ。だから、俺も家の鍵につけた」


ペアなんだそうなんだ、と頷きかけて我に返った。


「ふーん・・・って・・・え?なんで!?」


「なんでって・・・デートの記念に」


だから失くさないでよ、と理汰が楽しそうに忠告を零した。

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