第10話 cyan
メディカルセンターに朝出勤してから帰るまで、他のセクションの研究員やスタッフと顔を合わせることはほとんどない。
イノベーションチームや、運営管理チームのように他部署との連携が必要不可欠な部署なら顔見知りも増えただろうが、
それでも、皆無というわけでは無い。
数少ない伝手を使って資料を集めようと思ったのは、他ならぬ智咲のため。
そして、それを理由に、彼女を家に招くことが出来るから。
図書館で保管されているオメガバースに関する文献は、もちろん他の町に比べると圧倒的に多いが、それでもメディカルセンターで保管されている資料には負ける。
智咲が読んでいたような研究者が書いた論文や文献ではなくて、もう少しレベルを下げた内容のものが必ずあるはずだった。
被験者の個人情報は厳密に保護されて、入館手続きについても
第二性別はセンシティブ情報に当たるため報告義務はない。
メディカルセンターでは、オメガの受け入れ採用を積極的に行っており、オメガ待遇と呼ばれる
所謂、優良アルファを捕まえたい婚活真っ最中のオメガのみが、第二性別を隠すことなく社内で過ごしている。
オメガへの理解が他都市よりも広まっている宝来市といえども、危険がないわけではない。
抑制剤を飲んでいても突発的な
それらの危険を承知の上で第二性別を明かす度胸のあるオメガの強心臓には感動すら覚える。
そういったオメガを被験者として受け入れて抑制剤の開発に取り組んでいる
『はい。施設管理赤松でーす』
聞こえて来たお馴染みの女子社員の声は今日も颯爽としている。
この人の声が沈んでいるのを聞いた事が無い。
どんな早朝出勤も、どんな深夜勤務も常に同じテンションで居続けられる秘訣を教えて貰いたいものだ。
メディカルセンターの立ち上げからずっとここに勤めている最古参の彼女は、この施設の裏ボスとして知られていた。
表のボスは言わずもがな事業部長兼センター長である西園寺緒巳である。
「お疲れ様です。羽柴です」
あまたの機密情報を守るために強固なセキュリティーが敷かれているメディカルセンターの、施設内の設備管理を一任されているセクションの事務員である彼女は、
理汰が唯一気さくに話しかけることが出来る女子社員である。
『あら、珍しいねー羽柴くんが私に電話なんてーどしたどしたー?人生相談かー?』
若手の女子社員たちから姉御として慕われている彼女のもとには、恋愛相談やら人生相談やらを持ち掛ける人間が後を絶たない。
「いえ。今日はちょっと伝手を貸して貰いたくて」
メディカルセンターは勿論、異動前に勤めていた西園寺不動産をはじめとしてグループ内部の人事をほぼすべて掌握しているとまことしやかに噂される彼女の諜報能力とコネクションは凄まじい。
絶対に彼女を敵に回してはいけない。
『んー。いいよー。なにーどこの伝手?』
「抑制剤開発チーム」
メディカルセンターの中でも最重要機密を保持しているセクションだ。
オメガバースの顕現からそう時間を置かずに国内第一号の抑制剤を販売した西園寺製薬の動きの速さは、まるでオメガバースの顕現を予見しているようでさえあった。
販売当初様々な思惑が飛び交ったが、取引先の海外製薬メーカーとの連携のおかげで早期販売が叶ったという説明を覆せるだけのなにかは見つからず、以降も抑制剤開発の第一線を走り続けている。
メディアに顔を出すのは決まって室長と主任研究員で、
厳密に守られたエリアで日々研究に邁進する彼らの実態を完全に把握している者はほとんどいない。
『あら。高くつくよー?』
「バリスタのコーヒーでいっスか?」
カフェテリアに併設されているコーヒーショップには、専門のバリスタが居て好みに合わせたコーヒーを用意してくれると人気なのだ。
『一番高い豆で一番でっかいやつね。んで、何したいの?』
「オメガバースの分かりやすい資料が欲しいんですけど」
『ほうほう。具体的にどんなのが欲しいのよ』
「オメガバースの基礎知識から、抑制剤についてまで幅広く。あと、オメガ
『注文多いなぁー・・・・・・オメガ
「医療都市シンポジウム向けの資料作成で、知り合いが」
『ああ、今年は宝来市が担当だっけ?』
「図書館の資料じゃ極端すぎて」
『オメガバース紹介リーフレットよりも深くて、専門書よりも分かりやすい詳細な資料が欲しいと』
「そうです。話早くて助かります」
『んー・・・ひとまず預かるわ。出せる資料の精査にちょっと時間かかるかもしれないけど』
「分かりました。準備して貰ったらそっちまで取りに行きます。俺が、あっちの
セクションごとに入室制限が掛かっており、それらはすべて入館証で管理されている。
理汰の持っている入館証では、抑制剤開発チームまではたどり着けない。
『んーまあ、入れても手前までだろうね。分かった。用意出来たら連絡する』
「お願いします」
『あ、後さぁ・・・・・・こないだ楽しそうにエントランスで話してたお姉さんだあれ?うちの人じゃないみたいだけどー』
ここ最近メディカルセンターに出入りしていて、理汰と楽しそうに話しているお姉さんなんて一人しかいない。
嫌な人に見られたなと思ったが、まあ、これで余計な声掛けが減れば万々歳である。
今のところ、理汰は智咲以外と恋愛するつもりが無かった。
智咲が電撃結婚でもしてこっぴどく振られたら考えが変わる可能性もあるが、まあまずありえない。
「知り合い・・・です」
『医療都市推進機構にお勤めの師岡さんねー』
「知ってんなら訊かないでくださいよ」
『今年の医療都市シンポジウムのテーマはオメガバースだもんねぇ。そりゃあ資料いるよねぇ。協力は惜しまないよねぇ』
どうやら耳の早い彼女には何もかも筒抜けらしい。
「・・・・・・・・・惜しみたくないんで、協力してください」
『付き合ってんの?』
「・・・・・・・・・付き合ってません」
溜息交じりに言い返したら、途端赤松の声がからかうそれに変わった。
『なるほど片思いだー。アラフォーはなぁー・・・色々難しいからなぁー。同世代として応援するよ。なんかあったら相談して来な!じゃあねー』
こちらの返事を待たずに電話が切れて、理汰はひどく疲れた表情で天井を見上げた。
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