第5話 candy blue
最後の恋は28歳で終わりを迎えた。
相手は同じ役所の職員で、3歳年上。
温厚で優しい彼とは職員研修会で知り合って、2年ほど付き合った。
誰に聞いても優しくていい人だという評価が返ってくる彼との交際は、不安なんて抱える暇がないくらい穏やかで順調だった。
燃え上がるような情熱的な恋ではなかったけれど、ほこほこと心を温めてくれるような恋はむしろ智咲にはぴったりだった。
そして、ぴったりな恋はいつかそのうち自動的に愛になるのだと思っていた。
・・・・・・
『父親がさ、そろそろこっちに戻ってこいって言うんだ』
待ち合わせた喫茶店で、彼は神妙な表情でそう切り出した。
県境の彼の実家には何度か遊びに行かせて貰ったことがあって、父親と母親はずっと農業をして生計を立てていることも聞いていた。
彼は二人兄弟の長男だったけれど、公務員として務めていたのでこのまま定年まで勤めあげると信じて疑わなかった。
『え・・・・・・それは・・・なに、お家の跡を継げ、的な・・・こと?』
『ちょっと前からその話は出てて、俺もずいぶん迷ったんだけど・・・・・・ここまで続けて来た父親の仕事を、終わりにするのは忍びないなと思って・・・・・・出来れば、跡を継ぎたいなと思ってる。契約して貰ってるお客さんもいるし』
『そんな話いっぺんもしてくれたことなかったよね?』
彼はいったいどれくらい前から家を継ぐことを考えていたんだろう。
半年ほど前いちご狩りでお邪魔した時にはそんな話は少しも出ていなかった。
もしかすると、親子の間ではずっと話し合いを続けていたのかもしれない。
一度も智咲に伝えないままで。
穏やかで優しくて人当たりも良くて、誰にでも平等で。
智咲に対してもどこまでも彼は平等だった。
『俺もずっと迷ってたんだよ。智咲ちゃんのこと振り回したくなかったから。仕事楽しそうだったし・・・・・・自分の気持ちが決まってから話をしようと思ってた』
『・・・・・・・・・そう』
『智咲ちゃんは、どうしたい?』
ついてきて欲しいとか、一緒に来て欲しいとか、結婚して欲しい、とか。
ほんの一瞬頭を過ったどの台詞とも違う言葉を彼は口にした。
それが、全部の答えだった。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・別れたい』
自分が県境の農家の奥さんになるだなんて想像もつかなかった。
彼の手を離すこと以上に、今の自分の生活が変わる事を、一ミリだって受け入れられなかった。
好きだとか愛してるとか以前に、この生活を守る事を真っ先に考えた自分がいた。
彼に対して何一つ譲れない自分がいた。
そして、それを、彼はちゃんと分かっていたのだ。
『うん。分かってた。いままでありがとう』
『・・・・・・・・・選べなくて・・・・・・ごめんなさい』
自分の傲慢さを初めて知った。
恋より大事なものは、あるのだ。
彼に対する愛情よりも、自分に対する愛情のほうがずっと大きかった。
自分がして来た恋愛が、おままごとのように思えて来た。
大事にして来たつもりだった、誠実に付き合ってきたつもりだった。
楽しい思い出だって沢山あった。
だけど、彼との未来を選ぶことは出来なかった。
・・・・・・・・
「縁ってあるのよ。どれだけ好きでも上手くいかないこともあるし、そんな好きじゃなくても上手くいくこともある。向こう行ってから後悔するより良かったわよ。あんたは自分の心に従ったんだから、胸を張りなさい。自分に嘘つかないって大事なことよ」
ようやく誰かに話が出来るようになった頃、永子から久しぶりに宅飲みに誘われた。
この日は理汰がたまたま家に戻っていて、べそべそ泣く智咲に永子に代わって箱ティッシュを差し出してくれた。
羽柴家の箱ティッシュの中身の半分は智咲の涙と鼻水のために消えた。
悲しかったんじゃない。
もうこの先誰にも心をときめかせることがないだろういう確信がどうしても消えなくて、虚しくて泣いたのだ。
世の中には恋愛に全力を注いで泣いて笑ってキラキラして生きている女の子もいるのに、逆立ちしたって自分はそちら側にはいけない。
それを、今回の失恋で実感してしまった。
師岡智咲の乙女心は、どうやら正常に機能していないらしい。
「私・・・・・・このままずーっと一人なんだなぁって・・・・・・思ったら・・・・・・・・・寂しいよりもホッとしちゃって・・・もう誰にも自分の人生左右されずに済むんだなって・・・安堵しちゃって・・・・・・なんかそんな自分が虚しくなっちゃって・・・・・・どっかおかしいのかな・・・」
「おかしくなんてないわよ。自分が大事でなにが悪いのよ。自分の足でちゃんと生きてるんだから自分を大事にしていいに決まってるでしょ。あのねぇ智咲、恋がすべてじゃないのよ。恋愛が人生の真ん中に来る女の子もいれば、来ない女の子もいる。誰かの人生に自分を当てはめようとしなくていいの」
「永子さんんん」
ずびずび鼻を噛んで、涙を拭いて永子に抱き着けば、大丈夫よと永子がからりと笑った。
「どんなに泣いたって朝は来るし時間は過ぎていくのよ。見てごらん、こないだまで高校生だった理汰がもう社会人になってんのよ?人生なんてあっという間よ。嘆いてる暇なんてないわよ」
「・・・・・・たしかに・・・あーあー理汰も社会人かぁー・・・私もすーぐおばちゃんだー」
「いや、まだ早いでしょ、なんでそんな諦めてんの智咲さん」
「人生には諦めも肝心なのよ。よし、これから私は一人を謳歌して生きてってやる」
「そんなこと言って、すぐに誰か見つけるんじゃないの?」
公務員なんて選び放題だろと言った理汰に、智咲は首を軽く振ってみせた。
「もういいわ。恋愛には懲りた。向いてないのよ私」
恋愛がおままごとに思えてしまう自分には、誰かに焦がれる資格は無いのだ。
「たまたま相手が違っただけよー。ほらー飲もう、飲んで嫌なことは忘れよう。あんたがずっと一人でも、私と理汰がいるからいいじゃなーい」
誰も選ばなくても完全に一人ではない。
その事実がどれほど嬉しかったことか。
「・・・・・・永子さんと私の老後は理汰に任せるからね」
裏切ったら許さないよと付け加えた智咲に、理汰が無言で焼酎の瓶を押し付けて来た。
見下ろしたボトルの銘柄は”百年の孤独”。
「理汰、あんたねぇ!ちょっとは優しくしろ!!!」
傷心のアラサーに何してくれてんだと喚いたら、理汰があっさりと言った。
「怒鳴る元気あるなら大丈夫だね」
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