第4話 baby baby blue
部下からはこの上なく頼りにされているらしい母親が、自宅ではかなりぐーたら且つかなりの粗忽者だと知っているのは息子の理汰くらいのものだ。
今日だって朝からスマホに連絡が来たと思ったら、いきなりテーブルの上の書類をすぐに役所に届けに来いと指令を受けた。
あれだけ息子には忘れ物をするなと偉そうに言うくせに、自分はこの体たらく。
尻拭いをさせられるこっちの身にもなって欲しいものである。
冬休みに入って、受験勉強の本格的な追い込みが始まったばかりだというのに、この人使いの荒さはなんなのか。
普通の母親ならば、早起きして予備校に持って行くお弁当くらい作ってくれそうなものなのに、最近はキッチンに立つ母親の姿すら見ていない。
予備校の集中講義が始まるまでに役所に行かなくてはと、一旦怒りを横に置いて、もう何度も足を運んだ役所へと足を運んだ。
係長昇進してからどんどん忙しくなっている母親は、この仕事にかなりやりがいを感じているらしい。
自身もバツイチで女手一つで子供を育ててきたため、子育て支援に関する部署でずっと働きたいと願っていたのだ。
それは喜ばしいことだし、思春期の息子に構われるよりはずっといい。
息子の三者面談の日程を忘れるくらい仕事に没頭するのはどうかと思うが。
夏に一度だけ宅飲みに招かれた、というか無理やり呼ばれたのだろう師岡智咲は、相当母親に尊敬の念を抱いているようだったが、それはいまも続いているのだろうか。
大事な書類忘れて、とか言ったらどんな顔するんだろう。
そんなことを思いながら就業フロアに足を踏み入れると、耳を塞ぎたくなる大声が聞こえて来た。
「だーかーらー、どうしようもねぇんだよ!あるなら払うよ?でもないもん出せって言われてもどうしようもねぇんだよこっちは!!」
バンバン受付カウンターを叩いて喚ているのはジャージ姿の男性だ。
月に一度は保育料を支払えない保護者が怒鳴り込みに来ると言っていたので、恐らくそれなのだろう。
一体怒鳴り散らされているのは誰なんだろうと思って見てみれば、あの地味な諸岡智咲その人だった。
パイプ椅子に足を組んでふんぞり返っている男に対して、彼女はぴっと背筋を伸ばしたまま。
顔色一つ変えずに淡々とした口調で必要事項を述べて行く。
「ご事情があって滞納されていることは重々承知しておりますが、きちんと手続きをされないままですと、勤務先や金融機関に対する調査を行い、事前の予告なく財産の差押えが行われることもあります。お子さんの為にも、ご家族のためにも」
「はあ!?差し押さえ!?お前ら税金で食ってんだろ!!ふざけてんのか!!!」
大声を張り上げた男が組んでいた足でカウンターを蹴りつけた。
さすがにやり過ぎだろうとフロアを見回すも、肝心の母親は離席中のようで、周りの職員も女性ばかり。
関わってなるものかと視線を逸らしている。
「お怒りはごもっともですが、まずは滞納理由についてご報告頂かないことにはこちらもそれ以上の対処が出来ませんので」
「あーあーいいよなぁ、ペコペコ頭下げて適当なこと言って座ってりゃ給料貰えんだからよぉ!」
吐き捨てるように言った男が、智咲の顔をまじまじと見つめて肩をすくめた。
「女はいいよなぁ?あんたみたいに地味で冴えない女でも女ってだけで水商売でも風俗でもやれるもんなぁ!俺もあんたとおんなじ女だったら保育料払えんだけどなぁ!?」
馬鹿にしたように言って、椅子を蹴りつけて立ち上がった男が智咲に向かって腕を振り上げる。
慌てて駆け出した理汰の目の前で、次の瞬間悲鳴が上がった。
「イッて!何すんだよ!」
見ると、智咲が男の腕を掴んでねじり上げている。
相変わらず彼女の表情は無表情なままだ。
「こちらの備品も全て皆様の血税で購入させて頂いておりますので、丁重に扱って頂かなくては困ります。滞納理由書の提出についてご説明しますので、こちらへどうぞ」
「わ、分かったから腕離せよ!」
意外と強い力で捕まれているようで、カウンターを出て歩きだした智咲の後に続く男の顔が真っ赤になっている。
「なお、特別な理由が無い限り滞納は認められておりませんのでご了承ください。競馬やパチンコ等のギャンブルで資金が減ったというのも、当然正当な理由にはなりません」
ついでのように言った智咲の言葉に、男が気色ばんだ様子で声を荒げて掴まれていた腕を振り払った。
「っはあ!?ふざけんなよ!!!」
見るとジャージのポケットから丸められた競馬新聞が覗いている。
「滞納理由書はよろしいでしょうか?」
平然と言い返した智咲をひと睨みして、男は短く吐き捨てた。
「っせえな!!!」
安っぽいサンダルをペタペタ言わせてフロアを横切っていく男の後ろ姿を見送って、智咲がふうっと息を吐いた。
「・・・・・・・・・凄いな」
思わず賞賛の声を上げたら、それに気づいた智咲が理汰を見つめて目を丸くした。
さっきまでの毅然とした態度が一気に柔らかくなって、理汰の良く知る師岡智咲に戻る。
「あ、理汰・・・・・・どうしたの?お母さんに用事?」
「あ・・・いや・・・あの・・・・・忘れ物を届けに・・・・・・」
未ださっきの衝撃が抜けない理汰に、智咲がにこっと笑顔になった。
こういう応対にはもう慣れっこのようだった。
「びっくりしたよね・・・?ごめんね」
「・・・・・・ああいうの、慣れてるの・・・?」
どう見てもか弱そうな彼女が一度もひるむことなく一人で対応しきったことに心底驚いた。
母親が見込んだだけのことはあるのだろう。
「まあ・・・・・・色んな方が来られますからね、役所は。係長いま打ち合わせだから、私が預かって渡しておくけどいい?」
「あ・・・・・・はい・・・・・・お願いします」
斜め掛けバックの中から茶封筒を取り出して智咲に差し出す。
と、彼女がそういえばと切り出した。
「受験勉強大変だねぇ。理汰ならやれるよ。あとちょっと、頑張って!」
受験するのは自分の意志なのだから好きにしろと母親からもとくに激励されていなかった理汰の心に、その声援は真っ直ぐ突き刺さった。
自分なんかよりも数倍過酷な体験をしているであろう華奢な肩を見下ろす。
大人になるのはなかなかヘビーだ。
「・・・・・・ありがとう・・・・・・智咲さんも・・・・・・頑張って。さっきの、かっこ良かったよ」
「ほんと?合気道ちょっとだけしていたことがあって・・・ああいう時役に立つのよね。うちのフロアほとんど女子ばっかりだから」
照れたように笑う智咲が意外と子供っぽくて、その顔から不思議と目が離せなくなった。
思えば、彼女はこの頃から十分すぎるくらい逞しい女性だったのだ。
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