第3話 baby blue

理汰が師岡智咲という女性と初めて出会ったのは高校二年生の夏休み。


春にめでたく係長に昇進した母親が、お気に入りの部下だと言って家に連れて来たのが彼女だった。


第一印象は、わー公務員っぽい人だなというなんとも単純なもの。


カウンター業務があるため派手な格好が出来ないのは分かるが、紺と白で纏められたシンプル過ぎる格好は控えめというよりは地味。


24歳という年齢なら今を盛りともっと着飾ったりしたいするものじゃないかと、こちらが勝手な心配をしそうになるくらい、当時の彼女は特徴が無かった。


庁舎を訪れる市民の中には、女性職員の格好についてネチネチ五月蠅く文句を言う人間もいるらしく、面倒ごとを避けるために敢えて地味にしているのだと智咲は言っていたけれど、それ以前にお洒落に興味がないようだった。


当時永子は子育て支援課に配属されていて、市内の保育所を見学がてら回る事が多く、その際智咲が同行していたらしい。


時間帯によっては保護者たちと鉢合わせすることもあり、そういう場合大抵女社長とその秘書と間違われることが多かったそうだ。


出世欲は皆無で、ひたすら定年まで地味に働ければそれでいいという智咲の性格に公務員という職業はぴったりだったのだろう。


豪放磊落を地で行く面倒見の良い母親は、生真面目な部下を殊更可愛がっていて、その理由が課内でもかなりの酒豪であることだと聞かされた時、見た目とのギャップに驚いたことを未だによく覚えている。


数回宅飲みで顔を合わせているうちに、最初の公務員っぽい印象はただただ係長の自宅を訪問することに恐縮していたせいなのだと気づいた。


酔って砕けた口調になった彼女の素の性格はどちらかというと永子に近くて、二人が揃って酔っぱらうと結構面倒臭かった。


時には真夜中からアイドルグループのライブ映像を見ながら大騒ぎしたり、日本酒の飲み比べツアーで泥酔した二人を駅まで迎えに行ったこともあった。


年上の気さくなお姉さん、という印象が変わったのは、大学の研究室を辞めて西園寺メディカルセンターの研究所ラボに入る事が決まって実家に戻ってすぐのこと。


大学入学から年末年始にしか実家に戻っていなかった理汰は、数年ぶりに智咲と顔を合わせた。


40代に入った頃から少しずつ酒に弱くなり始めた永子は、日本酒を飲んだ途端爆睡してしまい、持ち込んだ瓶の半分以上が残ったままになった智咲が、理汰に飲もうよと声をかけてきて、初めて二人で静かに飲んだ。


あの夜彼女が気さくな年上のお姉さんではなかったことにはじめて気づいた。


自分が社会人になって彼女と同じ立場を手に入れたせいもあるのだろう。


ずっと遠いと思っていた距離が、驚くくらい近かったことに気づいて、戸惑った。


物凄く頼もしく思えていた彼女の背中が意外なくらい華奢なことを知ってしまって、動揺した。


ざわめきを日本酒のせいだと言い聞かせて、けれど時間が経つにつれて息苦しさが増していって、それは心を揺さぶられたせいだと理解した。


智咲は、理汰を自分と対等な大人として扱って話をしてくれたことが、物凄く嬉しかった。


水のような日本酒はするすると体に染み込んで、頭と心を緩ませたけれど、胸の高鳴りを押さえることは出来ずに夜更けになった。


これまでどうやって女の子を口説いて来たっけと思い出そうとして、研究室に居た頃は、年下の院生や大学生たちがいつの間にか周りに集まっていたので、その中から自分に気がありそうな子を選んで笑いかければ簡単に恋愛は始まったことを思い出して、途方に暮れた。


確かめるまでもなく、彼女の中で自分は論外だと、最初から分かっていた。


智咲が羽柴家を訪れるのは、理汰に会う為では無くて、永子と会う為である。


来訪の目的に理汰は一ミリも含まれてはいない。


そして、永子と智咲のように同じ仕事をしているわけでもない理汰は、自宅にいる時でなくては彼女と顔を合わせる機会がない。


緊急時用にメッセージアプリで永子と智咲と理汰のグループを作ったものの、やり取りがあるのは永子と智咲が二人で遠出した時のみ。


理汰が智咲に連絡をする理由も無ければ、智咲が理汰に連絡をしてくる理由も無いのだ。


だって二人は友達ではないのだから。


元上司の息子というなんとも微妙であやふやで風が吹けば飛んでしまいそうな間柄。


何一つ二人を結び付ける確かなものは存在しない。


一刻も早くこの関係をどうにかしたいが、やり方を間違えたら大惨事になる。


下手をすれば彼女と母親の関係も壊してしまいかねない。


地元に戻って家探しを始めるまでの仮住まいとして実家に戻ったはずが、結局そのまま実家暮らしを続けているのは、智咲との接点を失くさない為だ。


智咲が羽柴家を訪れるたび暇そうに出迎えるのは、彼女と休日を過ごすためだ。


研究所ラボの研究員はたしかに男性の比率が多いが、女性もいる。


運営周りを見ているのはほとんどが女性スタッフで、そのうちの何人かから声を掛けられたこともある。


それでもブレずに恋人を作らないのは智咲への恋心を消せないからだ。


多分、最初に彼女に惹かれたのは、十代の頃で、二十代になって再会して、大人になった自分が改めて大人の智咲を前にした時、彼女がただの年上の友人ではないことに気づいた。


逞しいな、格好いいなと思っていた女性が、初めて自分の前で完全に気を許してくれた瞬間、じんわりと胸の奥に広がったのは愛しさだった。


『なんかこうやって理汰と美味しいお酒が飲めるのは嬉しいねぇ・・・・・・私、こういう時間を待ってたんだよ』


それは、純粋に理汰をお酒を酌み交わしたかった、という意味だったのだろう。


けれど、理汰の耳には、大人になった理汰と会いたかったんだよ、と聞こえた。


勘違いでも誤解でも、何でもよかった。


ああやっとこの人と同じ目線で物を見られるようになったのだと、嬉しくなった。


へらりと笑って眉を下げて美味しそうに冷酒を煽るさっぱりとした横顔に静かに見惚れた。


人事異動で永子と部署が別れてからも二人の交流が続いていたことに心底感謝した。


そして、永子以降智咲がこんな風に気安く飲みに行ける相手が増えていなかったことにも、安堵していた。


自分が完全に智咲の隣に並べるその日まで、ずっと変わらないで居て欲しいと、ずっと願ってきたのだ。

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