[イノリ 2010]-空の国の二人の物語-

紫鳥コウ

[イノリ 2010]-空の国の二人の物語-

 三年前、××大学××学部准教授(以下、仮にA氏と表記する)の研究不正が明らかとなった。事の発端は、××大学から刊行されている紀要に掲載されたA氏の研究ノートの中に、実在しない史料が使われていたところから始まる。××大学は、本人と匿名の査読者へのヒアリングや、史料の実在不在の検証などを行った結果、研究不正と認定し、A氏を解雇した。

 この事件は、広く世間に認知されるまでには至らなかった。しかし今回、ある奇妙な噂を聞きつけた私は、A氏に直接の取材を敢行した。その結果、くだんの研究不正事件は、世界を見渡しても前例がないであろう特殊性を持つものだと分かった。

 まずは、A氏の関係者に行った聞き取りの一部を掲載する。だがその前に、A氏の研究に関することについて記しておきたい。


 A氏の研究分野は、ざっくりと言えば、「悪」という表象は個人、及び共同体のどの性質から生じてくるのか、または、「罪悪感」というものは、どのように感じ取られていくのか、というものだ。社会学の諸理論であったり、フランス現代思想であったり、そうした方法論にって研究をしていた。

 ここで注記しておきたいのは、上記のような研究をしている研究者は、他にも少なからず存在しているということ、そしてこの記事で問題としているのはA氏だけだということだ。つまり、A氏以外の人物に対する攻撃であったり、名誉棄損であったりを目的にして書かれた文章ではない。まず、そのことをご了承いただきたい。


 さて、そんなA氏だが、かつて同じ大学院で学んだB氏(人物名は、登場順にアルファベット順で表記している)に話を伺うと、その人物像が見えてくる。


Q 大学院時代のA氏は、どのような人物でしたか?

B氏: Aさんは外部から進学してきたので、わたしのような内部進学の者からすれば、初めて接する相手だったのですが、その性格の面倒くささというのは、会ってそれほど経たずして感じるようになりました。


Q どのようなときに「面倒」だと感じましたか?

B氏: 例えば、研究発表のときですね。配られた資料を見ていると、衒学的げんがくてきというか、わざとじゃないかと思うほど分かりにくく書いてあるんです。テクニカルターム(注: 専門用語)を並べただけの文章、なんていっても過言ではないでしょうね。

 でも、実際に発表を聞いていると、Aさん自身、自分がなにを言いたいのかを分かっていないみたいなんです。質問をしても、鋭い返答がかえってきません。しかし、そうしたことは、修士課程に入ったばかりなら、よくあることですよ。ヘンに格好つけたがる学生は、わたしもよく見てきましたし。

 しかし面倒というのは、発表がうまくいかないことで、明らかに機嫌が悪くなるところでして、しかもそれを、思わせぶりな態度で示してくるところです。それだけではなく、被害妄想がいちじるしくて、わたしたちが結託して、Aさんをおとしめているというようなことを、他の先生に言ったりしていました。


 ――というように、A氏はいわば、プライドが高いが打たれ弱くもある人物だった。博士課程を卒業して十年近く経ってもなお、その性格は変わらぬままだったと、C氏は証言する。


C氏: 学生への態度に問題があるのではないかと、一部の教員の間で噂になっていました。というのも、学生たちの話を聞く限りだと、自分に酔いすぎているのが傍目から分かって痛々しかったとのことで……そして、わたしたちも研究会などで、A先生が自信家であることは知っていましたから。

 でも、そうしたことを注意するのは、A先生の過去の実績からしてためらわれてしまうんです。前の前の所属先で、ある先生がA先生のそういうところをとがめたら、あることないことを言われて、体調を崩して学校を追いやられてしまったそうですし。


 ――実際、私が会って話す限り、A氏の話には妙に難しい単語が使われすぎているように見受けられた。そしてその真意を追求すると、言葉を濁してしまう。挙句、不機嫌な表情になり態度が悪くなる。

 しかしこうした性格の持ち主は、存外珍しくもない。私自身、三十八年の人生で、プライドの高さと打たれ弱さを兼ね備えた人物を見かけることは少なくなかった。

 しかしA氏は、この性格を、ある方面にぶつけることで、ひとつの才能を発揮していた。そしてその結果、捏造の史料が作られたのである。


 わたしはいまから、A氏が捏造した史料の一部を、そのまま掲載したいと思う。このことに関しては、A氏から許諾を得ている。また、抜粋した部分については、A氏に選んでもらっている。

 この史料を読むにあたり必要となる知識はない。ただ心構えとして、アニメ作品のほんの一部を見るような気持ち読んでほしいと思う。

 この史料と研究不正事件の関係については、この記事の最後に書かれている。しかしまずは、この史料に眼を通してほしい。もし、頭の中に「?」が浮かんだとしても、最後まで根気強く読んでほしい。


     *     *     *


「ここから落ちてしまえば、というような思いつきにとらわれそうになったら、叫ぶこと。朝だったとしても、夜だったとしても、だれかが気づいてくれるから」

 イノリは、雲海を見下ろしながら、そう言った。しかし彼女たちは、これが雲であるということも、ここが空にある国であるということも、知らない。

「絶対に助からないから。むかし、いたんだ。ここにいるのが嫌になって、あそこのやぐらから真っ逆さまにおちて、この白い煙に吸い込まれて、それっきり見なくなった」

 褐色かっしょくの煉瓦で積みあげられた櫓は、この雲海と地上(むろん、彼女たちにとっての地上)を隔てる高くて厚い灰色の壁から突き出ており、不自然なほどに際立っている。敵襲を報せる鐘を吊ったその櫓へと陽光が斜めに走り、向こうの弾薬庫の屋根にまで影を落としている。

「わかりました」

 シズクは隊長を前にして厳粛な面持ちで敬礼をした。それがおかしく思えたらしい。イノリはえくぼをピクピクとさせて笑いをこらえながら、敬礼を返した。

「なにか、おかしかったでしょうか」

 敬礼をしたまま、シズクは尋ねた。

「いや、本庁からここに配属される新人は久しぶりで、その生真面目な感じがね」

 イノリは、この辺境の部隊に長くいすぎたせいで、すっかり形式的な「かしこまり方」というものに不慣れになっていた。だからこそシズクのその態度に、おかしさを感じてしまったのだ。

 陽に輝いてきらきらとしているシズクの長い黒髪が、涼しい風が吹くたびに、頬や首をそっと撫でている、その光景は、あまりにも綺麗だ――イノリは、切にそう感じた。


 イノリとシズクは、緩く弓なりに続いていく灰色の壁の上を、暑苦しい戦闘服を着て銃を携帯し、雲海の方へと注意深く目をやりながら、決して急ぎ過ぎないように往復していた。この往復を二回繰り返すと、夜になってしまう。

 高くそびえ立つやぐらの真下には、濃くて冷たい影が落ちていて、相手の表情は見えない。ふたりは声だけでやりとりをしながら、アッシュが作った弁当を食べている。

「防衛の要」と位置付けられているこの辺境の地に、守備隊が二十人しかいないことから分かるように、この空の国では、どんな「脅威」に対してどう防衛をするのか、五百年以上経っても決まっていない。雲海に現れる「脅威」がなんであるのかを、だれも見たことがないし、明確に分かってもいないからだ。

 後方に構えている要塞へ「脅威」が差し迫るまでの時間稼ぎとして、ここにいる二十名の兵士たちは日々、緩く弓なりに続いている高い灰色の壁の上を行ったり来たりしている。

 この単調な作業は、ときに、退屈というより恐怖の方が勝ってしまうことがある。そうした恐怖を感じづらい者だけが、変わりなくここに残り続けており、耐えられなくなった者は、逃亡するかひっそりと雲海へと落ちていく。


「今度の休みって、実家に帰ったりするの?」

 イノリは、食後のデザートのシュークリームを食べながら、シズクに尋ねた。

「いえ、実家は遠いところにあるので、一日の休みでは帰れないので……」

 シズクは、「帰れないんです」と言いきることができなかった。イノリの次の言葉に、なにかを期待していたのだ。

「帰れないので?」

「ええと、宿舎で本でも読んでいようかなって」

 そんなの嘘っぱちだ。

「シズクの部屋って、何冊くらい本があるの?」

「十冊くらいです」

「今度貸してよ」

「えっと……もちろんです」

「ないよね?」

「あります」

「十冊のなかには、どういう本があるのかしら?」

 意地悪そうにイノリは言う。慌てた様子こそ見せないが、シズクはウソをつくのが下手だ。

「冒険家の冒険をするお話……みたいなタイトルです」

「なにそのヘンな翻訳みたいなタイトル」

「なにしろ、二百年前に翻訳されたやつなので!」

「そう……原文を知らないから無責任な物言いだけど、さすがに翻訳者の顔が見てみたくなるわね」

「うちの母です!」

「ごめんなさい」

 ウソが、本当のことと整合性を保つためには、二つ以上の世界が必要だと、だれかに聞いたことがある。シズクは目をつむって、自分の情けなさのせいで出そうになる涙を閉じ込めた。

「ごめんなさい……わたしよりずーっと年上のお母さまに謝るわね。お詫びに、明後日は本屋さんに行って御本を買わせていただくわ。だから、御足労をおかけしてしまうけれど、どこにいけばあるのかご案内くださいませんか?」

「…………はい。喜んで」

 陰のなかでよく見えないけれど、イノリはいつものように、栗色の髪の毛を人差し指でくるくる弄んで笑っているのだと、シズクは感じとった。


 イノリは、街のあちこちを走り周りシズクを探した。迷子になったのだ。いや、正確に言うと、自ら迷子になったのだ。

「一日突っ立てれば金が入ってくるなんて、良い商売だな」

 こんなこと、自分は散々言われてきたせいでもう慣れているけれど、シズクには、想像を絶する大きな衝撃だったに違いない。殴り飛ばしたかった。シズクが味わった痛みの分だけ、顔面を腫らしてやりたかった。でも、暴力沙汰なんて犯したとしたら、大問題になってしまう。

 息が切れて、サンドウィッチを戻しそうになる。


「入隊祝い。好きなものを食べていいよ」

「そんな……悪いですよ」

 シズクはこころの底から悪いとは思っていなかった。イノリに甘えたい気持ちがあった。

「なんで? 好きなものを食べればいいじゃない。なにを遠慮しているの?」

「だって、あまり安いとは言えないですし……おごってもらうなんて」

「おごる? そんなこと言ったっけ、わたし」

「えっ……あっ! 言ってない! タイムです、タイム。もう! 勝手に頼まないでくださいよ! 食べたかったけど高いから遠慮してたのに!」

「わたしにウソをついた、罰よ。どこにもなかったじゃない、あのヘンなタイトルの本」

 十分後、シズクはかわいらしくサンドウィッチを食べはじめた。上品と無邪気の間を繋ぐグラデーションの中央にあるような、食べっぷりだった。

 イノリは、伝票を自分の手の届くところに置いて、アイスコーヒーを飲んだ。ためしに、氷の隙間からシズクを眺めてみた。綺麗な黒髪だなと思った。


 右手で胸をおさえて、重たくなっていく太ももを動かして、シズクを探した。

 自分だったら、この街のどこに隠れてしまいたくなるだろうと、イノリは考える。でもそれは、この街に通い慣れたイノリと、初めて来たシズクとでは、まったく違うのだ。

 だから、次にふたりが会うことができたのは、駅のホームだった。

 シズクはこれまで、停車する電車を流し見するだけで、一向に乗らなかった。

 眼をくらますほどのライトが向こうに見えた。電光掲示板を見ると、これが終電らしかった。

 イノリは、なにも言わずにシズクの手を引っ張った。体重を後ろにかけて抵抗するシズクを、無理やりにでも立たせて、もう数えるほどしか乗客がいない電車の中に押し込んだ。


 草原を駆けていく電車の人工の光は、夜闇のなかで発光する生き物のようで、もし巨人が存在したならば、摘まみ上げられてしまっていたかもしれない。そんな妄想をするくらいには、イノリは手持無沙汰になっていた。

 ガラガラの座席に横並びになった二人。シズクは、靴紐がこんがらがって脱げなくなってしまった靴を見たまま、なんとも言わない。申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちが、消化される見込みはなかった。

「どうしたら、そんな風になるんだろうね。もう、挟みで切るしかないわね。三重にもかた結びされてるみたいだし」

「…………」

 なんとも答えないシズクを見ていると、イノリも泣きそうになってしまった。

「大丈夫だよ、大丈夫」

「…………」

「大丈夫なんだよ。死ななければ、生きていられるんだから」

 なにを言っているのだろうと、イノリは思った。まとまらない思考のなかで、はっきりと口に出きた言葉は、それしかなかった。シズクはなんとも言わない。と思ったら、同じ時を過ごしていないのかと思うほど後に、なにがきっかけになったのか分からないくらい急に、シズクは呟いた。

「生きててよかったです……」

「うん、えらいよ」

 辺境の駅――「空の国の際」駅で降りるのは、二人だけだ。だから、いま車内にいるのも、二人だけだった。


     *     *     *


 読者は、捏造された史料の内容に興味を抱いていたにも関わらず、小説を読まされるとは思ってもいなかっただろう。


 A氏が大学の紀要に掲載した研究ノートは、「罪悪感」に関する詳細な分析を展開するための下準備とでもいえるものだった。というと、心理学的な方法論に基づいていると思われるかもしれないが、A氏は、哲学における認識論を念頭に置いて分析している。

 人は死んだ後、生前の世界を認識できない。これが前提にある。しかしもし、死者が生前の世界を認識することができるという思考実験をするとしたら、どのような手段が考えられるか。彼女にはすでに、手持ちの「道具」があった。


 それがこの『空の国の二人の物語』という、A氏の妄想の産物である。


 この物語は、シズクが、イノリの前で雲海に落ちていくシーンで終わる。ここに至るまでの道筋は、あまりに長大だ。

 A氏は十年間、趣味の散歩をしているときに、頭の中でこの物語を妄想して、紡いでいった。

 シズクは、空の国から地上へと落ちていく。それは、ある機関の実験――地上調査の一環のためであるのだが、その計画を、イノリは止めることができなかった。

 A氏は作者である以上、死んでしまったシズクと、残されたイノリの、どちらの視点も持っているわけだから――そして、両者に感情を入れ込むことが可能なのだから――生と死(の世界)を往復できるわけである。

 イノリの抱いた罪悪感。それを主観的にも客観的にも想像できる、というわけだ。


 しかしA氏は、いつしか、この物語そのものに、のめり込んでしまった。現実と妄想の区別がつかなくなった。

 だからこそ、研究ノートの本文中に、[イノリ 2010]であったり、[シズク 2012]であったりと、でっちあげの史料が登場しても、A氏自身、なんの違和感もなくなってしまっていた。


 補足しておくと、[A 2010」(Aは人物名)とは、「この部分はこの文献を参照して書かれている」ということを記す際の一つの方法である。

 論文の最後の「参考文献」の一覧のなかに記載された、「A」により「2010年」に発表された文献が、それに対応している。


 ――――――


■文中の表記の例


 Aによると、○○という先行研究の知見は、××という観点が不足しているという[A 2010]。


■[A 2010]に対応する文献は「参考文献」の一覧の中で、例えば次のように表記されることがある。


A(2010)『タイトル』出版社。


 ――――――


 ところで、私はこの記事を書き終えたあとに、こんなことを思った。

 この記事からあの物語だけを取り出して、作者を匿名にして発表したならば、どうなるだろうと。

 A氏の妄想は、私には拙劣な物語に思えるが、もしかしたら誰かには評価されるかもしれない。

 とするならば、次のような結論が導かれたとしても、おかしくはないのではないか。


 誰が書いたのか分からない小説は幸せである。なんの色眼鏡もなく、透明なフィルターで読んでもらえるのだから。


 もし、作者がA氏であると分かったら、『空の国の二人の物語』は、濁った視線の下に落ちていくだろうから。



【追記】

 私が、研究不正を決して容認していないということは、ここに申し添えるまでもない。だがこの記事は、素直に、純粋に、読んでいただけなかったようである。

 そのため、追記としてここにその旨を記しておく。

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