血と穴
「ん~♪実にカイ…カン。幸せの絶頂にいる奴を地獄に叩き落としてやるのはな」
浅井亜那は背後からの声に振り返った。その鼻にかかったような声を、彼女はよく知っていた。しかし、暗闇の奥からゆっくりと浮かび上がってくるその姿は、予想とは違っていた。
「その声…」
「おっと、気付いたか?そうさ、俺だよ。この前はよくもコケにしてくれたじゃねーか、え?おい。とはいえ、お前達にはある意味感謝してんだ。テメーらに対する憎しみで、こ~んな素晴らしい力を授かることが出来たんだからなぁ…」
黒のニットパーカーに身を包んだそいつは、頭部に二つのアンテナのような触覚を持ち、その横には複眼が不気味に黒光りしていた。そして、その下には細長い口器が伸びている。
『蚊男』としか形容しようがないその怪人は、自慢げに腕を広げると、高らかに言った。
「見ろ、この美しいすが…」
突然、蚊男の左肩に100円玉大の穴が開いた。
「…あん?」
それを皮切りに、彼の体中に次々と虫食いの如く穴が開いた。蚊男はたまらず悲鳴を上げた。
「どび~~~!!なんじゃあこりゃあ~~!ま、まさかテメーも…!」
蚊男が苦し紛れに浅井の方を指さすと、まるでサバクノツノトカゲが身の危険を感じた時に行う護身術のように、しかし、それとは比較にならない速度で、指先から血液をビーム状にして射出した。
浅井はそれを屈んで回避した。顔を上げると、蚊男の姿は無い。
「逃げ足早っ。でもあの傷じゃあ…まだそこまで遠くには行けないはず…」
浅井は地面に横たわる陸海を数秒見つめた後、前方へ歩き出した。
蚊男を追うこと数分、浅井はフードを被ったパーカーの男が地面にうつ伏せで倒れているのを発見した。
先程の攻撃により事切れたのだろうか?それとも…。
浅井はゆっくりと近づくと、そいつを仰向けにひっくり返した。倒れていたのは、見たこともない若い男性だった。まるで全身の血が抜かれたかのように真っ青になって死んでいた。
「ワナ…」
咄嗟に浅井が振り返ると、数メートル先でシャツ姿の蚊男がこちらへ指さしていた。
「くらいな」
彼の指先から、浅井の顔面目がけて血のビームが放たれた。だが命中寸前のところで、彼女の顔に野球ボール大の穴が開いた。ビームはその穴を通って後方の闇へ消えた。自分の体に穴を開ける、浅井の奥の手だった。
「にゃにぃっ!?」
能力を解除すると、浅井は指で輪っかを作り、蚊男の胸に風穴を開けた。
「ばべえっ」
手痛い一撃をもらって倒れ込んだ彼に、浅井は悠然と近づいた。蚊男は見苦しく命乞いをした。
「あっジョーダンジョーダン!ヤダなァ~もう!初めからお前を殺す気は…」
「ハァ…何でこんなのとキスしたんだろ、あたし」
蚊男にとどめをさそうとした矢先、浅井の耳に甲高い悲鳴が飛び込んできた。
首を後ろに向けると、曲がり角の近くで数人の女子がパニックになっていた。おそらく血を吸われた男の死体を発見してショックを受けているのだろう。
「シメたぁ…!」
蚊男は手の中に3本の血のナイフを作り出すと、女子達へと投げつけた。浅井は反射的に少女達を守るべく、身を呈して盾になった。彼女の腹部にナイフは3本とも食い込んだ。
浅井は血を吹いて地面に膝をつくと、少女達に言った。
「…行って」
少女達は一目散に去って行った。
「やると思ったぜ…。お前の性格はよく分かってるさ、なんせディープキスした仲だもんなぁ!レロレロジュパジュパよォ~!」
そう言うと、蚊男はまた右手に血のナイフを生成させた。浅井は反撃に出ようとしたが、手のひらをナイフで貫かれ阻止された。
「ぶっ殺す前に犯してやろうと思っていたが…考え直すぜ。血ィ吸って殺してからブチ犯してやる!じゃあなクソビッ…」
その時、浅井は蚊男の頭上へ、巨大な黒い影が降ってきたのを目撃した。次の瞬間、蚊男は地面に顔面を叩きつけられた。
「べぎっ」
黒い影の正体は、色褪せたデニムを履いた、蛾のような姿の怪人だった。そいつは蚊男を真上に高々と放り投げると、自身も跳躍して後を追った。
浅井が呆然としていると、やがて地面に無数の物体が落下してきた。それは蚊男の、もとい、君野静のバラバラになった肉体だった。
蛾男は華麗に着地すると、まだ微かに動いている君野の頭部を、容赦なく踏み潰した。それと同時に浅井に刺さっていたナイフも消滅した。
目を丸くさせながら浅井は呟いた。
「…陸海?」
蛾男の動きがピタリと止まった。
しばしの沈黙のあと、蛾男がようやく口を開いた。
「ワ…ワタシムツミチガウ、ワタシガオトコ。ムツミシラナイ、ダレソレ?」
「カタカナで喋ってもバレバレだから。陸海でしょ?」
再びの沈黙のあと、頭をポリポリとかきながら蛾男は言った。
「…何で分かった?」
「ずっと言おうかどうか迷ってたんだけどさ…」
浅井は遠慮がちに続けた。
「社会の窓、全開なんだよね」
「言ってくれよ」
陸海がファスナーに手を伸ばそうとした時、彼の両手両足と両羽に穴が開いた。彼はバランスを崩し、前のめりに転倒した。
「おげっ」
顔を上げると、浅井がこちらへ指で作った輪っかを向けていた。
「一旦、動けなくさせてもらったよ」
「えぇっ…?」
「とんだ笑い話だね、あの蛾男をちょっと好きになってたなんてさ」
困惑する陸海をよそに、浅井は淡々と語り始めた。
「あたしの父さんね、君と蝿男の戦いに巻き込まれて死んだの。この力は君に対する憎悪から発現したものだよ。あれから姿を現さないと思っていたら、こんな近くにいたとはね」
陸海の脳裏に、数か月前のオフィスでの一件が浮かんだ。
「…何か言い訳してみる?」
陸海はその場を収めようとあれこれ口実を考えたが、すぐにそれらをゴミ箱送りにした。
「いや、やめとくわ。俺のせいで浅井の親父さんが死んだのは事実なんだしな。その…俺なんかとツルんでくれて、ありがとな」
「………」
浅井はしばらく押し黙っていたが、やがて静かに呟いた。
「…バカだな、あたし」
数日後、陸海は魂の抜けたような表情で通学路を歩いていた。その存在感の無さといったら、向こう側が透けて見えそうなほどだ。
浅井は彼を殺せなかったのだ。
「よう」
声のした方へ顔を向けると、薄井幸の姿がそこにあった。
「いつにも増して覇気の無いツラだな」
「余計なお世話で~す…」
薄井は顎に手を当てて、鼻を鳴らした。
「その様子だと…さてはお前、浅井亜那だっけか?彼女にフラれたな」
「それはちが…まあ別にそういうことでもいいけど。どうやら俺はアイツに心に穴を開けられちまったようだ。全ての感情が消え失せた」
「…だからそんな恥ずかしいセリフが言えるのか」
「コイツ…!」
そんなこんなで、2人は横並びで学校へ歩き始めた。
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