前述・後

「人が模った虚への信仰…ね。確かに神は存在しても、目にした者は実在はしない。だから、信仰される神は真の神の姿ではない…神という言葉は虚ろな像の名前ってかい?面白い言い分じゃないかい」

「だから、お前が聞いたその神のお告げとやらも、さて、本当に神の声なのかどうなのか…」


颯音は褪せた木机に肘を付いて、その掌に顎を乗せた。黒い瞳が虚空を眺めるように移ろう。


「極論で言えば虚ろであれ真であれ、神の存在を信じるも信じないのも関係ない。神の定義も俺にはどうでもいいことだ。そも、俺が最も信じられねーのは神が作為を施したって点だ」


颯音は神に対して頑なな認識がある。


それは現実のあらゆる事象に、全知全能である神は作為を施さない、と言う認識だ。神は傍観者である、とも言える。


つまり神の存在は是か非かは関係なく、古今東西に現れる全ての事象は神の作為ならず、故に事象は世界に混在する因果と意図に依る現象でしかないというものだ。


生物の精神現象を含めた一切の現象は自然的世界の産物であり、修道士や預言者が叫ぶ神の調べたる天啓と呼ばれるものは狂言や妄想の類いで、天地が巻き起こす地震や嵐といった災害もあらゆる条件が重なった偶然でしかない。


所謂、自然主義のような思想である。写実主義の延長、実証主義に並ぶ思想だ。


とはいえ、これは個人の主観に依存する論理であることに変わりない。人間が神の在り方を定めようとするのは不遜極まりないことで、颯音が思う神の在り方は自前で組み上げた積み木よろしく、空想の産物に相違ないものだ。


同時に、真実はどのような形であれ颯音の思う通りである、と言う可能性は誰も否定はできなくはない。が、神の存在を証明できていない以上、この世界ではその考え方が通じるわけでもなかった。


「神は何もしないはず、ね。恨み募りの文句にも聞こえるけどね」

「祈って幸が空から降ってくるなら世話ねーよ。奇跡があるのなら、俺だって縋りたいさ」

「異の世界から来て、ここに居るのも奇跡だと思うけどね?」

「冗談でも滅多なことを言うんじゃねェ。縋りたかったものでも、況してや望んでもない現象を、奇跡なんて呼べるものか」


自身にとって大切な時に起きてくれるからこそ、奇跡は奇跡である。望まないどころか、得体の知れない結果を生む奇跡など災害でしかない。


度を越した予期せぬ運命の采配など、誰だって御免被る。


何故なにゆえ俺がこの世界に拉致されたかはわからない。だが、奇跡を含んだ神による采配ではないだろう。正体不明の存在が意図を持って俺を召喚した。どのような手段かはさっぱりわからないが、その魔法という手法なら不可能ではないと思う」


颯音にしてみれば嘲笑うような眉唾もの、そして空想における得体の知れない力の象徴と言い表せるようなそれが、こちら側の世界では常識だ。


無から有を生み出すと言って過言ではない奇怪極まりない手法である故、颯音には全く理解不能で、どの様な原理かは不明である。


火を灯し、水を生み、風を靡かせ、土を操る、そのような事象を可能とできた。目の前の老婆や他の村人が使えるのを見るに、主に四大元素を基盤とした魔法が散見される。


もっとも細かく言えばこれらは『魔法』ではなく『魔術』だった。元来、曖昧で具体性に欠ける魔法を一般的な技術として扱いやすいように改変し、体系化した魔法をその様に呼んでいる。が、颯音がこれを知るのは少し後になる。


「ここで見た魔法は俺にとって信じ難い現象を可能にしている。理解できない上に俺にとってはありえない事象が可能だというのなら、これら法に馴れ親しんだ者が異界と異界を繋ぐ位は造作もないだろう。俺が選ばれたのは偶然か、因果に依る意図か、本当に神の気紛れか…何にせよ、わからないことばかりだ」

「小僧なりに考えてるってかい」

「さっきも言ったが、考えないで意味不明を呑み込めるほど、俺は間抜けじゃねーんだ。俺の世界じゃこんな手段は実証されてもいないし、その手法も冗談としか思えん」


特定の言語を肉体に刻む、円陣を描き文字を並べる、呪文や聖句を唱える、怨恨の情や血や髪の毛や剥いだ爪などを用い望む。


魔力、魔法文字、魔法陣、儀式、呪術。


どれもこれも疑問視せざるをえないものばかりである。


だが、眉唾な現象共々が実際は可能なのだとしたら、この世界は恐ろしい事ばかりで満ちている。


今、颯音にあるのは未知に対する不安だ。そして、夢であってくれと否定したい思いだ。


だが、肌の感触や、見えている光景や、嗅ぐ匂いや、聞こえる音が、それを否定する。あまりにも現実と遜色のない感覚が、颯音を容赦なく現実に落とす。


極めつけは


「冗談と言えば、この左腕だ」


颯音は自身の左腕に視線を落とす。


そこにあるのは長袖と襤褸らんるの布を纏った腕だ。


この下には当然ながら腕があるわけなのだが、しかし颯音には顔を顰めざるを得ない状態でもある。


「この世界に来る前に、俺は左腕を切断したはずなんだ。二の腕の半ばからな」


忌まわし気に颯音はそう言って、自らの肉体に接続している常軌を逸した現象である左腕を睥睨する。


よく聞くような、在り来たりな、変哲のない事故に遭い、さらなる不運が重なり、颯音は左腕が拉げる羽目になった。


皮が千切れ、骨が砕け、筋肉が捲れ、神経は潰れ、修復が不可能なぐらいに、惨憺な挽肉と形容できるほどに圧壊した。


不幸中の幸いにも、他の怪我は裂傷や骨折だけで済んだ。四肢の一つを失う重症ではあるが、命があるだけ物種だろう。


つまり、今ここにいる颯音は、本来は病床の上で安静にしていなければならない状態である。が、そのような様子は見られなかった。


「現実じゃないとほざいてる本人が、その道理から一番かけ離れてるとはね。神の寵愛は皮肉が効くじゃないかい」

「ふざけたこと吐かすな。腕があることは確かに感謝すべき奇跡だが、これは悪意ある気の利かせ方だ。しかも人間の腕じゃねえと来た」


襤褸の布を巻いている理由は、その外観に問題があるからだった。


形状自体は人のものと違いない。肘関節があり手首があり五本の指がある。そしてあらぬ方向へ曲がったり、回ったりせず、可動範囲では人のそれと異なりがない。


しかし、襤褸の布の下にあるのは人とは掛け離れた姿がある。


肌の色は錆色か焦土色とでも例えれられる色合いの暗い褐色で、人肌とは言い難い妙に硬質化した肉質と、魚類や爬虫類を思わせるような堅牢な鱗が皮の代わりに覆う腕である。


人の爪に比べ鋭利な爪は獣染みて恐ろしく、いっそ禍々しい程に悍ましい。


それが、今の颯音の左腕だった。


しかし、颯音の気持ちとは裏腹に、この左腕は大変有用な性質、魔物の爪牙に能う堅牢さを有していた。


一薙ぎで人を惨殺できるだろう化物魔物の鋭く獰猛な爪牙すら、僅かばかりの傷をつけるにも至らないほど、頑丈さを持ち、恐るべき膂力をも兼ねていたのだ。


皮肉なことに、まさしく敏腕なのである。


「見れば見るほど、実感すればするほど、この腕の奇妙さは気味悪くて仕方がねえ。この腕の恩恵は確かに今の俺の助けとなっているが、尋常でない見てくれは受け入れ難い」

「でも役に立ってるんだろう?この前、狩ってきた咆え鳥クォーロブは、息子が感心してたさね」


咆え鳥クォーロブは体高が九頭数(約百九十糎、一頭数は約二十一センチ)もある大きな鳥類で、颯音には駝鳥を彷彿とさせる化物である。


尖った幅広な嘴に柔軟な長い首、顎には肥大した咽喉曩いんこうのうを有し、これを響かせるように鳴くことで、大気を掻き乱すほどの大声量を発することができる。大声量は小動物であれば一撃で失神させる威がある。


駝鳥と違って空を飛ぶことが出来、翼長は片翼で三九頭数(八百十九糎)、左右に広げれば八三頭数(千七百四十三糎)と巨体である。


更に強靭な筋肉を纏う脚と湾曲した鉤爪を持ち、持久力こそ低いが凄まじい走力に優れる為に、狩られる対象は平原に置いて勝ち目無しと恐れられる。


村の獣狩人にとってこの咆え鳥クォーロブは正直な所、実に厄介な害である。


かの化物を天敵と見なす獣は、その脅威から即座に逃げ出すために、見かけたのならばその日の成果は望めないと言われる程だ。


不明瞭な視界、足場の悪い森林ならばその脅威もやや劣るが、力技ばかりでなく待ち伏せを狙う忍耐強い賢さも併せ持つ為、厄介なであることに変わりない。


無論、化物と分類される以上は人に害する故、対峙せず狩られる身となるならば、一息に嘴で貫かれること請け合いだ。


真っ当に武力面で劣る獣狩人からすれば、その体格、能力故に対処手段の乏しい化物でもあり、その点もまた嫌われる所以である。


追い払う目的で戦うのならまだしも、狙って狩れる相手でもない。


しかしながら、狩ることで得られる恩恵も、昔乍らに大きいのも事実だ。


羽毛から皮から肉から臓器から骨まで、どの部位も様々な用途に重宝する。一体でしかないその化物から得られる物は多い。


「あぁ…喚虫ウェズベ並に喧しい太平広だんびら顔の鳥か。握り潰した長い首肉と喉袋が思いの外に旨かったな」

「握り潰すねえ…頭おかしいんじゃないのかい?」

「流石に命のやり取りなら、使える物は使うさ。俺の気持ちは扠置いてな」


忌憚ない老婆の言葉通りに、忌み嫌うべき異形な左腕の性能は、颯音が散歩と宣う外遊での狩りに一役以上には役立っている。


無論、この行いが村人の警戒を引き上げる原因にもなっていたのは、知れたところだ。


左腕の実態を知っているのは、老婆、老婆の息子と孫のノエルと他数名の親しくなった若者である。


悍ましいとまで見て取れる腕は颯音を嫌悪する要因ではあっただろうが、現状、それを上回る成果が負の印象を逸らしてもいる。


他の者には火傷痕の酷い腕のため襤褸布を巻いている、という理由で隠しているが、いつまで続くかは不明だ。


「結局、神だ奇跡だ魔法だ、あれでもないこれでもないと考えて、悩んで、愚痴ったところで俺の現状はなんにも変わらない。言ってしまえば最も問題なのは、俺の心持ちぐらいだ」

「ならどうするんだい?」

「それをこれから考えるしかねえ。神のお告げとやらも、全くの役立たずだ」


既に颯音は老婆が言った神のお告げを、妄言の類いとして見做していた。


得られた情報は皆無であり、どうしようも無さからの思考放棄とも言える。


「なら、小僧は今暫く村に居座るのかい?」

「それしかねえだろ…ま、長くはないだろうな」


話は終わった。そう言わんばかりに椅子から立ち上がって、颯音は去ろうと玄関口へ足を向ける。


「こうして佇んで意味がないのなら、俺はさっさと明確な答えを出さねばなるまい。いつまでも時間を無駄喰らいでは先行きはどこまでも霧の中だ。行く宛も手に職もない俺だが、前へ行動出来るよう考えておくさ」

「無頼者にしては懸命さね。好きにしな」

「あぁ、自由にするさ。絡まれるより、余程良い」


颯音はそう呟いて今度こそ足を進めて、外へ出て行った。


老婆はその背を眺めながら、喋っただけ乾いた喉を水を飲んで潤す。


「ふぅ…」


老婆は颯音に対して嘘を吐いていた。


それに対して罪悪感はない。伝えるべき重要なものでもなかったからだ。


神のお告げは確かに老婆の夢の中に現れた。風のような声も、光条流れる円筒空間も、忘れやすくなったこの老いた頭ですら思い出せる。


そして颯音に告げたあの言葉には、前置きと続きがあった。


『異界のかいより来たる爾今じこんの移人、時言ならば次を説いてほしい。大地を駆け、風に散る。川に流され、海に乗り、空を舞う。流されるままに、辿り着き、手を結ぶ、と』


言葉の連なりからして、個人から個人へ向けられる物言いと想像は難くない。明らかに伝えたい意図がある。


しかし今朝から呼び出しておきながらも、少年が訪れる前に伝えるべきか、と老婆は逡巡してもいた。


結果として伝えなかったのは、理解不能な侭に連れてこられた異なる世界で、決まった進むべき道筋も無いままに只々惑うあの少年に、先導となる道標が必ずしも必要であるとは感じられなかった為だ。


無論、そのような状態であるのなら、知者としては如何なる理由であれど示してやるべきであろう。


何の理由も見当たらず、何をしていいのかも分からず、何処へ向かえばいいのかも分からず、迷い悩み惑いを巡るしかないのなら、言葉一つでも与え、向きや流れを注いでやるべきだ。


だが、何も分からぬままの状態で、信じるに値しないだろう神のお告げと言う一方向な導べは、良からぬ障害になるのではないかと思ったのだ。


どこか達観して捻くれたあの態度を見るに、戸惑いつつも事の一つに囚われ、傾倒し、果てで躓いて転ぶような質ではないだろう。が、余計な言の葉は重石を付けた足枷にはなる。


加え、妙に抽象的なこの物言いを伝えた所で、果たして導べになるものなのかという疑念もある。


ならば伝えないほうが、まだ当人にとって良い方向へ行くのではないか?いや、そもそもの話、どちらにしろ彼は同じ結論を思慮の末に導き出すのではないか?


老婆の出した結論はそのようなものだった。


この遣り口は老婆が神のお告げを拒んだ形だ。少年に指針となる導きを与えず、好きに進めという自由を示した形でもある。


老婆のこの方策は、今まで口汚く舌戦した相手を思っての、口程から分かった事実からの決断だ。


彼は、『西條颯音あれ』は、異世界人という奇妙な事実を加味したとしても、何処にでも居るような凡庸では決して無い。


寧ろ凡人の成れ損ないだ。


理由が適えば平然と常理に背き、正道も外道も躊躇せず、己を殺してでも、大凡の尋常な結末を捨ててでも、望んだ一つに毅然と歩める奇人だ。


何か目的を与えることで、奇特な何かを為してしまう手合いなのだ。



木々から伸びた枝葉が頭上を塞ぐように覆う暗く深い森の中で、僅かな隙間から差し込む陽光が落葉と褪苔ばかりで埋まる地面を斑めいて照らしている。


その中を捷く動く二つの影があった。


「っっ!!」


細切れに進む視界の中、四の鋭爪えいそうが眼球の真横を撫でるように過ぎる。目尻と頬に奔る痛みと同時に、爪が己の顔から鮮血を攫っていくのが見えた。


体を捻った咄嗟の回避は体勢を崩し重心を傾ける。振り切られた鋭爪を横目に、視界の端で影が動く。


直感を頼りに体を捻り右へ跳躍。金属めいた煌めきが駆け抜けていく。胸先にひきつりが走る。引き裂かれた胴衣が眼前を舞う。影の正体は苔生した地面を砕いて掬い上げられる別の鋭爪だった。


回転しつつ着地。頭上から降り掛かる巻き上がった土塊を被る前に、颯音は横へ滑るように足を運んでやや側面から前へ。


腕の引き戻しを待つ間も与えない。腕の振り切りを狙って踏み込む。狙いは脚。握り込んだ左拳を振り下ろす。


しかし人の拳は間合いが酷く短い。小さな身動みじろぎ一つで躱され、空を切り、拳が地面を砕いて土砂を撒く。


土砂を抜いて再び下方から掬い上げられるような鋭爪が迫る。颯音は後ろへ大袈裟に跳躍して避けた。足元で土から剥き出しとなった岩肌に四つの線が刻まれ、細かい破片が宙に散る。それを更に避けるように颯音は大きく跳躍して距離を取った。


今、颯音の眼前で対峙しているのは『四腕の熊フィベルグ』と呼ばれる化物だ。


その容姿は、四つ腕の熊、と形容できるだろう。立ち上がったときの体高は十三頭数にもなり、森林地帯では余程格上の化物魔物が存在しないに限り、上位捕食者に座するとは獣狩人の談である。


この世界においても、『熊』は生半可な生物ではない(颯音の知識にある生物と似ている、というだけで似るものと考えてよいのかは甚だ疑問ではあるが)。


現世ですら深い自然の奥に住まうのならいざ知らず、人里に降りる害獣としての熊は実に厄介な存在だ。決して、生身の人間が武器もなく抗える生物でなく、野性的、肉体的な面で歴然たる差がある。


この世界には火器など存在しない為、本来なら対専用の武具を所持すべきである。しかし、颯音の手元には武器どころか、道具の一つも所持していなかった。


有るのは、忌み嫌う左腕だけであった。


「グゥガヴァァッ」


短くも腹底から溢れる喉と鼻の震える響きと威迫を利かせた唸りが耳朶を叩く。その鳴き声は臓腑をも冷やして恐れの震えを与えてくる。


しかし、化物であれ魔物であれ、その威嚇が生む圧で今の颯音が恐怖に呑まれることはない。


時に自然的な恐れは、常理ある人間社会で生きる者へ想像し得ない怖気を与えるものだが、人もまた自然で進化してきた存在である。


何度も経験すれば体に刻まれた本能が蘇り、対する敵に平然を以てして対応をこなせるものでもある。


己その手に凶暴な力に刃向かえて能う力があるのなら、尚の事であろう。


だが、楽観的ではいられない。常に不利なのは変わりない。


今持つその力を過信する事は慢心かも知れないが、しかし唯一取れる手段がこの左腕に頼るしかないのも事実であった。


「すうぅ…ふうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ…」


吸い、頬を膨らませながら口先を窄め、吐息する。深い呼吸で体内に溜め込んだものを諸々吐き出して、平常心を養った。


颯音は視線は外さず、様子を伺うように歩き出す。


間合いを僅かに詰めたり、逆に離れたり、或いは戻り、木々の後ろを通って一時的に姿を隠したりしながら、半円を描く形で行き来する。


仕掛けようとする気配が判然としない、焦れるような颯音の行動に、しかし四腕の熊フィベルグは全く動じる様子はない。逆に仕掛けにくる様子もない。


ただ単に様子を伺っているのか、緊張や焦らしを強いる誘いの行動であることを見抜いているのか、それらの機敏は颯音には分かるはずもない。


しかしこうするしかない。対峙するのが初めての化物であり、知らぬ敵への攻め手数は殆どないに等しい。相手からの踏み込みこそが、颯音にとって攻撃の機会となる。


眼前の熊は構えるように四つの腕を別々の方向へ向けている。腕をそれぞれ左右上下の斜め四方向に傾げ、まるで自身を巨体として表わすように広げ威嚇していた。


左右の上斜めと下斜めに構えた四つの腕から繰り出せる手数は多い。大抵の攻めに対応し、反撃をも行えるだろう。


故、正面からの挑戦は四つ腕の格好の的でしかあるまい。一薙の腕を躱したとて上下から、他の腕が容易く庇いに割り込むだろう。加え下から構える第三、四の腕はやや長いため攻撃範囲は見た目よりも広い。多少の回り込みや小技で四腕の懐に侵入することは至難と見て取れる。


死角に近い側面や背面なら切り込めるだろうが、それは多方面からの攻撃による意識の散乱、もしくは動作に依る欺瞞を用いてこそ可能な戦術だ。一方で碌な戦闘技術も覚束ぬ颯音には、それらは不可能な仕業である。


故に残される行動は、愚な正面からの特攻か地形の利用しかない。が、後者を利用できる程、颯音は経験を有さずその手の機敏に長けているわけではない。


結論で言えば、真っ向勝負しかないのである。


救いである点は異形の左腕に物を言わせた渾身の一撃があれば、倒すことは可能であるということだ。


今まで何度もこの左腕に頼って、化物魔物を打ち倒してきた。


拳で殴り、貫手で突き刺し、爪で引き裂き、掌で握り潰した。今回もそれらと変わりない。


「…」


何度目かの往復で颯音は歩くのを止めた。


時間を使った様子見と誘いでは何も引き出せないと判断したのだ。


その証拠に四腕の熊フィベルグは焦れる様子もなく、悠然と四つの腕を構え続けている。獣特有の鋭い眼は今も颯音を睨み続けていた。


「(無駄か…)」


浅はかな知恵ではどうにもならないと悟り、颯音は身を屈め前に重心を移す。


明らかな突撃の姿勢に、四腕の熊フィベルグも待ち構えるように腰と後ろ足を僅かに落とした―――――瞬間に颯音が動く。


地面を一瞬で踏み砕き、跳び出す。体は宛ら弦に弾き出された矢となって飛翔した。


化物や魔物を倒せる左腕という武器を持つ颯音だが、左腕ばかりが常人離れしているというわけではない。


左腕に合わせる形でか、或いはその力を支えられるようにか。肉体強度や膂力と言った身体能力そのものが、尋常を逸しても居た。


まさに瞬きの間に、十五頭数ほど間合いを跳び越える。


が、四腕の熊フィベルグは動じない。矢速と化した颯音を見失わず、しかとその眼で捉えていた。


懐まで僅かな距離を見計らったように、上に掲げた腕二つが振り下ろされた。頭上から降り掛かる双腕を、颯音は咄嗟に左腕で迎撃する。


「ぎぃっっ!!」


腕から伝わる衝撃が肩へ、背へ、腰へ、脚へ、瞬時に駆け抜ける。


双腕の威によって突撃の勢いは呆気なく殺され、颯音は叩き付けられるように停止、その場に縫い付けられる形となった。


強靭な体を支える四腕の熊フィベルグの膂力は流石と言うべきか。


今尚押し潰さんと圧を掛けてくる力に、踏みしめる両足が大きく地面に沈み、その周囲が逆へ盛り上がる。颯音は膝が崩れそうになるのを歯を食いし張って耐えた。


経験の不足、技量の未熟さ、自己能力の把握の無さ、単調な戦法。


如何な特異な能力でも、まともに扱えず活かせねば、このように相手を上回ることもできない。


単純の出方では、容易く捉えられるような手段では、技を持つ者に合わせられ御されるのが結末だ。それは人でも魔物でも化物でも変わりない。


「ヴヴウゥゥ…!」


双腕を防ぐ左腕の向こう側で焦れる声か疑問の声か…判別に困る唸りが聞こえる。


第三、四の腕は振り下ろした腕に阻まれて、動く気配はない。攻撃すれば必然と上からになる体格の差が、ここで幸運となった形だ。


だが、この状況は颯音にとって想定内である。


「ふっっ!」

「ガァッ!?」


左腕に力を込めて双腕を振り払う。浮き上がった双腕の向こうで、驚愕でどよめく声が上がった。


沈んでいた膝を活かして跳躍。瞳を見開くその顔を不格好な蹴り足が薙ぐ。


深く頬肉に沈み込んだ蹴撃が、巨体であるはずの四腕の熊フィベルグをさも簡単な仕業のように、小石如く蹴り飛ばした。


地面を転がり、跳ね、枯れ葉を巻き上げ、土煙が渦を巻く。巨体は生い茂る雑木林を尽く薙ぎ倒しながら、太い巨木の幹に衝突し、木が軋み割れる激烈な音を立てた。


彼我の体格差から考えれば目を疑う光景だった。が、颯音にしてみれば想定内の結果であった。


先に述べたが颯音自身には闘いの技も術もない。人が相手ならばそれも限らないが、化物魔物ともなると攻め手が殆どない。


そこで颯音は異形の左腕を基準に策を用いることにした。


この堅牢な腕は武器であると同時に、範囲は狭いが強力な盾にもなる。身に余る膂力も相まって、化物魔物の一撃を受け止めることも、受け止めつつ五指で掴まえることも可能であった。


左腕で攻撃を受け、逸らし、弾き返し、掴み捻り、体制を崩した後に、蹴撃にて打ち据える。これが颯音の思いついた策だった。


一見すると危険な駆け引きだが、颯音にとって既に熟れた騙し打ちである。


そしてこの手段により、颯音は武術の理も備えないながらも、筋力に任せた押し技で獣から化物魔物までもを屠ってきた。


だが、大概の化物魔物は颯音の身丈を優に超える。如何に化物魔物に能う力を持とうと、経験を有していようと、矮小なる人は反射的に回避を選択するだろう。それが初めて見える化物魔物なら尚の事だ。


その中で盾でもない自身の左腕と膂力を信じて、一度は攻撃を受け止めなければならない颯音の気構えは、尋常の域ではない。老婆の「頭がおかしい」という表現は、何も間違いではないのだ。


「っっ!!」


四腕の熊フィベルグがどうなったのか、渦巻く土煙の向こうが晴れる間もなく、颯音は着地してから即座に発走する。


折れた枝を疾走が生む疾風で弾き上げながら、巻き上がった土煙を突き抜けた。


その向こう側で四腕を地面へ付く四腕の熊フィベルグが居た。一瞬視界に映ったのは、蹴り砕かれて顔半分が眼球ごと潰れた頭部だった。その相貌は頭半分が破裂したようである。


だが、颯音は遠慮も防御する暇も与えない。


疾走の最中で地面を更に踏み潰し、一層力強く前へ跳躍する。爆発物めいて破裂する地面を置き去りに、突き出した左腕の貫手で四腕の熊フィベルグの頭部を背後の巨木ごと貫く。


瞬間、四腕の熊フィベルグの頭蓋が爆散する。


頭蓋骨が弾けて破片となり、共に脳髄と鮮血が飛沫めいて撒き散らされた。飛び出した眼球が横目を過ぎ去り、鋭い牙が唾液と血混じりに颯音の頬を撫でて飛び出していく。


直後、貫手の破壊力が巨木を縦に断割だんかつした。歪な罅を生じながら破砕した幹に、四腕の熊フィベルグの生々しい赤が塗りたくられる。


跳躍が生んだ衝撃波と貫手の生み出した衝撃波が互いを食い合い、大気が炸裂して辺りに吹き荒れる。それが生む颶風は数瞬の時間も要さないまま、鮮血を塵芥のように吹き散らした。


「…」


颯音は残心のまま、左腕を砕けた巨木に突き立てたまま待つ。


が、貫手に貫かれた四腕の熊フィベルグは、一切の呻きも上げずに沈黙を代わりの答えとした。


当然だろう。頭を粉砕され抉られたのでは、残る喉から出るのは無様な空気の抜ける音と、噴水めいた鮮血のみである。これでは咆えの一つも上げることは出来まい。


下手糞な口笛のように空気の抜ける音と吹き出る血を浴びながら、颯音は静かに巨木から生温い感触が残る血肉塗れの左腕を引き抜いた。


突き抜く姿勢の為に四腕の熊フィベルグの肩と腹に掛けた脚を退かし、数歩ほど距離を取る。無論、頭が失くなった四腕の熊フィベルグはその場に頽れるだけだった。


「くっっっかああぁぁぁぁ…!!はあぁぁぁぁ…すうぅぅぅ…はあぁぁぁ…」


一拍を置いて盛大に息を吐き出し、思い切り吸う。


生死を天秤にかけた緊張と、噂に聞いた畏れある化物へ、僅かな賭けで望んだ闘いを勝利したが故の安堵だった。


「(上手く行ったが、危なかった…)」


速く脈打つ心臓を胸の上から押さえながら、夥しい冷や汗を流して颯音は心で独りごちる。だが、緊張から胸を掴む手は酷く震えていた。


闘いの高揚は体内を妙に突き動かしている。激しく流動する血流が全身を火照らせ、噴き出す湯泉ように奔り続けた。


「(この策にもこの左腕にも、頼り過ぎている。棒の一つでも扱えれば、破壊に類する魔法一つ操れれば、それも困らないのだろうが…ないものを空虚に強請った所で仕様もない…されど、このままでは…何処かで必ず失敗する)」


いつか起きることは必ず起きる。それは颯音が戦いに慣れ、僅かに驕りを覚えた頃になるだろう。


左腕以外の肉体は理由は不明だがえらく強靭である。だが、打撃はともかく爪牙…切り裂く力に対しては人の肉と変わりない。先の四腕の熊フィベルグの爪で引き裂かれれば、肉は容易に削げて、手足の一つは吹き飛ばされていただろう。そうなれば致命傷は必至であり此度が胴衣だけで済んだのは幸運だった。


現状、どこまで行っても異形の左腕があればこそである。こちらの脆さが露呈した時は逃げるしかない。補うには戦いを知り、経験を活かせられる努力が必要だが…生憎と教えを請える相手は身近に存在せず、そも左腕を前提にしている時点で学んだとて以後の創意工夫は必須であろう。


「すうぅぅぅ…はあぁぁ…」


深呼吸を繰り返しながら、颯音は余計な思慮を巡らせていた。


有り体に言えば、戦いが齎す体感的な興奮と心を鎮めたい気持ちが同期しない為に、混乱していたのである。



自然的生物の多くは力で捻じ伏せる、固有の力を活かすことを生きに、戦いに用いる。


が、そこには決まった方法を決まった状況で手段としたり、冷静を欠き直情的に行動する等の振る舞いが見られる。


獣はその膂力や爪牙などに脅威はあれど、繰り返すような単純さが散見される。そこには賢さが見当たらず、対峙した際に簡単な搦手に乗っかる事が多い。


それは外聞で人にとって短絡的な存在であるとの想像を扨せ易い要素だ。


罠や道具を持ってすれば、容易く打ち負かせられる。左様な論理は腕があると自負した獣狩人の談である。


一方で、そのような甘くすこの姿勢は、相手がそこまで賢い筈がないとする、知性の高さが生む驕りの認識でもある。


相手が野獣に比する化物、魔物とは言えども、生きていくために学ばざるをえないのは、どの生物にも共通する。


どの生物も自己の身体能力を把握し、活かせるくらいには知能がある。そこへ重ねられた経験があれば、やはり学ぶことも可能である。培われる経験が、狡猾な手段や技術を与えるのだ。


眼の前にいる四腕の熊フィベルグはまさにそれに値する化物だ。


獣狩人が言うところでは、咆え鳥クォーロブと並んで、頭を悩ませる化物であるという。無論、その理由をあげるのならば単に脅威である以外に、獣狩人が狙う中型から小型至る生物が好餌の対象であるからだ。


気性は獰猛で縄張り意識が強く肉食性。


どのような相手にも果敢に立ち向かう心身共の強さを持ち(言ってしまえば身の程知らずの無謀とも取れるが)、個体によっては大型の魔物すら打ち倒す潜在力を秘めた、間違いなく自然界に置ける強者である。


何より賢いのだ。


膂力ばかりでない体を活かして、ずるさを利かす戦い方を知っており、敵の能力や人の扱う罠や道具を見抜く力もあるなど、元来からその能力は驚くほど高い。


四腕の熊フィベルグには、かつて長寿の個体が十名の征剣奉ドーヴランを一方的に薙ぎ倒した驚くべき逸話が、衆生の語り草として存在する。現在、有名な言い伝えとして浸透しているが為に誇張は多少含まれるが、聞き及んで尚も侮ることは愚かな物知らずと貶されるほどであった。


そのような話を聞いたのなら、獣程度という評価をしてはならない。慎重を期す必要がある。


今まさに侮ったわけではないにしろ四腕の熊フィベルグを相手に、手数のない颯音が行った騙しの手段は慎重という考慮がないに等しい。結果、大した損害も無く勝ち得たのは、偏に幸運と左腕の賜物であろう。


替えのないふとした拍子で簡単に乱れるような方策で、正面から打つかっていく様は傍目でも愚かでしかない。その胆力を不動の勇敢と呼べるが、やることは無謀にして蛮勇である。


「(いや、今ある手段の中で俺が考えうる上では最大限の活用だ…こんな騙し討ちで仕留められる相手だからこそだろうが、こうでもするしかない。いずれ、扱えられるようになるべきだが…頼るような生き方は正常じゃねーな)」


獣臭い血の匂いが立ち籠め始める中で、胸の鼓動を鎮めることから立ち直った颯音は、冷静になった頭で是迄を顧みる。


気分転換と称して外遊に来ていた颯音だが、これからの先行きは未だに見通せずに居る。老婆にああは言ったが、漠然な答えすら出ていない。


「…」


鋭爪で切り裂かれた頬を右手の甲で拭う。そこに血は付いていたが、肝心の痛みは全くない。


今度は指先で傷を触るが、そこには傷の痕跡が跡形も無い。


気付かぬ間に傷が癒えている証左だった。


「くそ…何だってんだ…本当に…」


超再生か超治癒力か…どう呼べばよいか分からぬ現象に心底辟易する。


颯音が化物魔物に対して今の今ままで生き残れているのは、左腕や尋常を逸した強靭で強力な肉体ばかりのお陰ではない。こういった人として在り得ぬ現象が、今の颯音には幾つか備わっているからだった。


例えば先程述べたように、左腕を除いた体は爪牙に対して脆いが、分別するならばそれは切断や刺突に弱いということである。一方で打撃に対して肉体は驚異的な耐久性を有するのだ。四腕の熊フィベルグの両腕を受け止めた左腕はともかく、それを支えていた肉体の筋骨類が折れも砕けもせず難なく動き、全く支障が生じてないことが何よりも証拠である。


全身を震動させる衝撃と脚が地面に沈んで逆に地面が盛り上がる程の重圧を受けて、尚も崩れず体幹を維持できるなど、颯音自身に本来備わっている身体能力を優に超えている。


加えてこの傷を修復する能力だ。楽観的に捉えれば非常に便利であろうが、何を代償にしているかは不安で仕方がない。


「…」


そもそも、これら能力が何故己の身に備わっているのか、忌避を呑んだ後に気付いた謎である。与えられたものであることに間違いないだろうが、その切っ掛けも根拠もさっぱり見当がつかない。


となると、やはり意図が潜んでいるように思えてならない。西條颯音という存在を異なる世界から定めたように選び、奇怪な力を供与するだけの理由をだ。


与えられものは酷く気味悪く迷惑極まりないが、斯様な形であることも何か理由があるのかも知れない。


しかし、こんなものを与えて一体全体何をさせようとしているのか、どうしようというのか、それらが気がかりでもある。


理解できない、分からない。そればかりだ。


判断に必要な要素が無く、結論という明確な形にしたくとも情報は断片的で欠け過ぎている。手掛かりになりそうなのは魔法ぐらいだが、辿り着く指標にはならない。


故に、颯音がやれることは一つ。


「…戻ろう」


問題の先送りである。


投げやりに呟く様は、思考放棄していると言ってもよい。


現状、横暴を振り翳す人にも化物魔物にも、対抗し身を守れる為に在って困らぬ力である。疑念は尽きなくとも助かってはいるのだから、追求しても埒が明かない。


それに今は、これからどうするかを考えるのが先だ。


村を去り旅に出るとは決めた。だが行き先は決めていない。もとより宛てがない。しかし、停滞し一向に前へ進まない手前、このまま村に居座り続けることが正直限界と感じている。何かを識るにも、此処は狭すぎるのだ。


やはり外にしか、こちらから赴くしか、知りたいことも識ることはままならない。


この世界に於いて『旅』は一生の別れにもなる危険な行いだ。獣だけではない化物と魔物が数多跋扈する自然界で、人は狙いやすい餌食である。襲われ食われ、亡骸も音沙汰もなく、知られず消えていくのはどこにでもある出来事だった。


村を出て外の世界に行くのならば、嫌っているとは言え今まさに頼っているように、左腕は十二分な心強い力である。


これを用いれば旅路の不安は…無いとはいえないが多少安心できる要素である。しかし、勝手の違う世界で、危険ばかりが往来すると説かれる中とあっては、曲がりなりにも旅が出来るとしても、そこに微かに含まれる一抹の不安が拭える筈もない。


それでも踏み出さなければ、得られるものは何もないのである。そうした得たもので、蟠り一つ一つを拭うしか無いのだ。


「…なんとでもなるか」


思わぬ遭遇で戦闘になってしまったが、残念ながら気が紛れにもならない。どうしようもない憂鬱さを抱えながら、嘆息を吐きつつ踵を返して颯音は呟いた。


死骸と化した四腕の熊フィベルグから遠ざかり、血肉塗れの左腕を清めに近場の川辺を目指す。回収は後ほどするが、さてどうやって砕いた頭の件を煙巻こうか…それも考えなくてはならない。こうして考えたいことを考える前に、目の前に考えることが現れるのは人の性だろうか。


「面倒臭ェなあ」


苔生した岩を下り、巨木の根を跨ぎ、落葉を踏み、颯音はただ歩く。



悩んで暮れても、時間は無情に過ぎ去っていく。

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