前述・央

乱暴な口振りで男――――――西條颯音さいじょうはやとは物語りを遮った。


「俺は話があるってここに来たんだ。だらだら昔話を拝聴しに来たんじゃねえ」

「全く…付き合ってくれても良いじゃないかい。労らず老骨に石を投げるのかい?」

「老いたからって甘ったれんな。何度も同じ話聞かされる身にもなれ」


卓を挟んで二人の人物が、共に顔を顰めて言い合う。


そこはユグリと呼ばれる村に在す一軒家だった。石材と木材造りの家屋で、土台は石材とそれを繋ぐ漆喰らしき建築結合剤が用いられ、骨格や屋根や床は角張の木材という具合だ。


床は絨毯代わりに麦藁や毛足の長い毛皮が幾重にも敷き詰められ、室内は独特な土気のある匂いで満ちている。故、火を嫌うが為に竈と調理台は土間へと寄せられていた。


そこへ併設された食卓にその二人の人物は居た。


片方は少年とも青年とも言える佇まいをしていた。幼さが鳴りを潜め徐々に男性らしさが固まり始めた、子供が大人へと成長する過程にあるような人物だ。


彼の風貌における特徴を挙げるならば、村のみならず世界を見渡したとて滅多に見かけない、男性としては異様なまでに長い黒髪と顔の妙な傷痕であろう。


その長い長い黒髪は編まれることなく滝さながらに垂れ流され、顔を所々に覆い、後ろ髪に至っては腰下まで無造作に伸び、毛先が座る椅子を擦っている。


顔には右の眼下から左の眼下に掛けて、左眉から左頬に掛けて、縦横に交錯する白く濁った傷跡が走っている。釣り上がった目は鋭く、瞳は宵闇のように真っ黒だが、差し込む陽光が焦げ茶色を浮かばせた。


独特な外見からか、尋常とは言い難い雰囲気を纏った人物である。


もう片方は老婆だ。健康的という印象が全く無い、痩せ細った斑点染みの多い顔には、無数の皺が入り乱れ、できものが膨れ、影が輪郭を浮かび上がらせている。


その細さからか縦に長いといえばいいだろうか。どうにも凡人ならざる不気味さを漂わせていた。


両者は木机を互いに挟んで向き合っている。表情は共に穏やかさはなく、剣呑な雰囲気を纏い、剣か斧が手にあれば即座に襲い掛かるかのような切迫した様子だが、二人の会話は淡々と続く。


「そも大凡五百年前の話だ、って語られようとな…以てして何が言いたい?」

「馬鹿な小僧だね。このかたり過去すぎさりで起きた実在する出来事だ。だからこのざまから学ぶんだよ」

「学ぶ?老骨お得意の戯言だな。お歴々の過ちを後に生まれた者が、当然の報いだと今時の論理で笑い、愚かだと足蹴にしてるだけだ。今と昔は違う。人の愚かさをやたら強調して吐き散らすな。現在の見識で過去を学ぶと称して測るんじゃねェ」

「老齢者の言葉には耳を傾けるもんだよ坊主」


はっ、と少年は鼻で笑った。まるで理解できないとでも言うように、首を左右に振って髪を波立たせ、呆れ顔で机に拳を叩きつける。それからぐいっと前のめりになって口を開いた。


「歳食って吐く言葉が、《人生と長き付き合い者の言葉を受け入れろ》って窘めに則る言葉とはな…何を学んでから、んなことほざきやがる。俺と同じ齢に爺婆じじばばの言葉に耳を傾けたかよ?今更、大事なことだって気づいて、後から生まれた者に居丈高と論ずるたァ傲慢極まりねえな」

「知ったような口振りの若人が何をほざくんだか」

「怒ってんじゃねーよ。無駄話で時間潰されて、挙げ句終わらねェ上に何を言いたいのかはっきりしねェ。うんざりして腹立って怒ってんのは俺のほうだ。長広舌にべらべら喋ったかと思えば学べだと?何を見出した面でいやがる」

「食って掛かった反抗に答えて争うなんてのは、我慢の知らない愚かもんだよ?老いた者が若者の言葉を真受けするもんかい」

「そんな口遊みが怒ってる証左だぜ?それでもってその言葉を言うのなら逆だって然りだ。爺婆の言葉はそりゃ重みはあるだろーが、経験無きにして言伝ばかりを呟く者は無妄だ。経験がないのに老齢者の言葉を真受けできるかよ」


少年―――颯音は吐き捨てて茶を啜る。爽やかな風味ばかりの古葉茶は苦いが、一息に飲み干して容器を褪せた木机に置いた。


「言葉を喚くしかない程に衰えたんならさっさとおっね。威勢も精気も老いて、のんびりぐだぐだ余生過ごすぐらいなら来世に期待しろ。後世に訓戒を伝えるのを重んじるのは結構だが、後々で役立つったって心に留めるのは賢い者のみだ。そんでもって伝わるのは一人か二人だ」

「一人や二人で伝われば充分だよ。贅沢を望んで千も万にも解らせようなんて、もっと愚かさ」

「賢者は無知にそうやって思惑へ沿うように仕込みするってのを、さっき自分で話しただろーが。真に意味を理解できない者が、どうして真に理解できない言葉を、正しい形で受け入れられると言える?」

「そうだったとしても、説かなければ、たった一つの言葉を伝えなければ、その者は後々も無知のままだろう?一片でも伝わればいいのさ。教えがなきゃ、自分勝手に分かったつもりの野蛮人にしかならないよ」

「馬鹿は何言ったって、どれだけ正しい言葉を並べ立てたって、自分が考えうることが正しいとしか思わねーよ。行業が齎した結果から読み取れた戒めや諭しは、賢者のためにある知恵だ。だが、賢者より伝わりその後の時代で巡ろうと、一時の変化で無残にも蔑ろにされるだけだ。俗物な連中はそうやって力を得る」

「だからって何もしないのは、愚かしいさね。坊主は助けがなくたって自分一人で生きていけるだろうけどね、それだって私みたいな老骨が育んだ言の葉や歴史から、学ぶと称して測ったような事実から、真に学んでいるからこそだろう?根を掘り起こすわけでも、伸びた枝葉を千切るのでもなくね。過去の愚かしさを残すことは、未来へ生きる者への標だ。だから私のような老骨が諭すようにと言葉を紡ぐ。それでも尚、無意味と嘯くかい?」

「無意味だの、諭すためだの、木っ端な理由並べ立てて、挙げ句に是非を他人に問う奴は度し難い馬鹿だ。他人が何をどうしようと勝手だろーが。自分がどうしたいかなんて自分で決めろ。その因果は必ず自分に返されるんだからな。だがそうしたところで、今の俺達がどれだけ吠えても飛沫の一つだ。後にはなんにでもなくなる」

「後先の末じゃどうにもなりゃしないって絶望して、今の自分の憂いを絶とうってかい?はっ、小心者だねえ」

「じゃあお前は未来の責任を取れるのかよ」


舌戦を繰り広げる両者は容赦ない言葉を口にした。揶揄や屁理屈を持ち合って、互いを貶めようとの戦いである。


その様は大人と子供の価値観の違いが明確に現れている。


若者が訝しむ老いた者の言葉への偏見と、老人らしい若さへの哀れみ。そのような思惑が両者にはあった。


「死んだ後のことなんて知ったこっちゃねーとほざくなら喋るな。謹んで逝去しろ」

「未来が怖いならさっさと首を吊りな。将来のない者なんて生きる価値すらないんだよ」


互いに思いやりもない。思想を押し付ける老人を害と見做し、未来のない子供は価値がないと見做す。


その光景は、人が持ちうるべき寄り添い、支え合い、思い合う、そのような心を両者は全く持たないと見えるような、醜悪極まる光景だった。自身の考えの方が良いと、個人の主義に染まった言い分である。


だが、正しいことが必ずしも良い結果を与えるわけではない。


正論は賢いものを正しく動かすものであり、同時にそれは人の倫理に沿うものばかりだ。人の倫理に倣う者を導きはするが、それから外れて道を歩む者は、愚者や無頼者と言い表して侮蔑の対象とする理屈である。


しかし、どれだけ罵られても時にはそれらを手放し或いは打ち捨てて、過ちを選択することが個人にとって正論よりも良い結果を得られるのも事実であった。たとえ罪咎ざいきゅうとして悪を背負おうとも、伴う結末に後悔することになるとしてもだ。


棄却し、反抗し、見て見ぬ振りをし、自分が良いと思えるものを選ぶ。颯音はそちら側の者だった。世界が正しいと思われていることを疑念し、順応することを嫌い、共通する事柄が自身にとって絶対に必要な要素だと認めていないのだ。


「あの…」

「あ?」

「ん?」

「何で言い争ってるんですか?」


ふと、会話を遮って入ってきたのは少女だ。颯音よりは二、三歳程は年下か、或いは同年とも言えるだろう、稚さを残す愛らしい童顔に、褐色の髪は後ろで革紐に括られ纏められている。


肘まで袖を捲くった胴衣に膝下丈の腰巻き、畑仕事用と思われる前掛けは土で汚れている。その証拠に彼女は素足だった。


白と若葉色という飾り気のない色合いをした上下単一の衣服を着た姿は、典型的な村娘というべき印象と捉えれる。抱えるようにいくつもの野菜の入った籠を持った彼女は、顔を困惑の表情に染めていた。


「喧嘩してるわけじゃないよ。ちょいと若人と遊びに興じていただけさ」

「遊び…?」

「言葉遊びってやつだノエル」


視線で火花を散らし合っていた二人は、急に怒気を引っ込めて揃って応対する。気味悪く、違和感極まりない変わりようだった。


「舌論って遊びさね。思ったことを遠慮なく言い合う、憂さ晴らしの一種だよ」

「この婆ちゃんが暇なんだとさ。俺は話をしにきたんだけどな」

「はあ…それならいいですけど…」


その言い分に更に困惑気味な少女…ノエルであったが、何か会得したのか台所に備え付けられた調理場に籠を置きに行った。


この村娘は老婆の孫だ。要するにこの変わりようは、可愛い孫の前では優しい人柄でいたいが為の演技だった。


颯音は分かってそれに乗った形であるし、醜い会話を無垢な少女に見せるのも憚られた、というのもある。


本音を言えばそんなことは構わないのだが、生憎と今は少女に世話になっている身の上だ。無関係でない以上、不快と捉えられかねない無作法は遠慮するべきであろう。


「お婆ちゃん、私は畑にいるから何かあったら呼んでね?ハヤトさんもゆっくりしていってください」

「言われなくても寛いでるぜ」

「少しは遠慮しな小童」

「なら老いぼれ婆さんは俺に遠慮しろよ」

「喧嘩しないで!」


少女の怒気が籠もった一言に、二人は肩を竦めて返事とした。不満に思いつつも、少女は踵を返して家を出ていく。


出ていった後、二人は再び剣呑な雰囲気で睨み合った。子供でも行わぬ醜い見栄の張り方である。


「元気の良い小娘だな」

「自慢の孫さね。まるで昔の私を見てるようだよ」

「幻覚見るのは死んでからにしろよ、手間もかからん」

「黙りな。押し付けがましい業突く張りが」


顎をしゃくりあげ、上目から見下そうと両者は首を後ろへ傾ける。


座高では颯音が勝るが、年齢では老婆が勝つ…とは言え、三者からどのように見れど、この光景は子供同士が行う意地の張り合いと相違あるまい。




少年がこの村を訪れたのは少し前のことだ。


知り合った当初、彼は老婆の息子が経営する酒場兼宿屋に泊まっていた。


その時には既に、何かを探すように彼は村の内側を歩き、見て、聞き入り、感心している様子が誰もから聞かれるほどには、村に溶け込んでいた。


ユグリの村は開拓民が土地を切り拓いてできた村である。大陸北部に座するこの国でも更に北、平原と森林の未開拓領域ばかりが広がる辺境に位置し、目立った産出物もなく、百人にも満たない規模の小さな村でしかない。


言ってしまえば北方に置ける人の生存圏の行き止まりである。


故、外界とは自然に阻まれる形で孤立しており、村人と繋がりのある者や行商人たちならばいざしらず、何らかの目的がなければまず訪れることはないような辺鄙の場所だ。


歴史も浅く人一人が老いるまでの年月しかない為、ごく最近にできたと言って過言でない。


だというのに傍目から見ても異様な風体の少年は、風に流されるようにここへ来た。理由もなくだ。


歳の嵩んだ者ならば、世捨て人だの罪人だので理由は片付けられただろう。


だが、歳は二十にも届かず一七だと言った。特殊な環境で育ち、愚かな手段に手を伸ばして、追われる身であると言えばその通りと言えなくないが、前述の通りそのような者がここを選んで辿り着くとは考えづらく、何より近隣ならいざ知らず、まず俗世に知られることない村だった。


人の流れのない小さな村落は閉鎖的である。


内側だけで日々の物事をほぼ全て完了させる事ができる生活体系は、必然的に外部から流入してくる変化を拒み、過去から連綿と続く生活や習わしを好む。もっと言えば時代の変化を選り好みする環境だ。必要に迫られなければ、変わろうとしないのである。


その点を顧みれば颯音はあからさまに異端で、村人にはない資質を携えた者だった。まだ若者と貶される年頃の割に、風貌が生む特殊な雰囲気、周囲を達観したような澄ました目付きが与える印象は決して良いものではなかった。


それ故に、最初こそ彼は村人に誰彼構わず警戒されていた。余所者故に誰も近づかず、避けられ、指差され、何処から湧き出た噂をされ、距離を置かれるのは、村人の誰とも仲が良いのでなければ必然と言える。


開拓当初から村に住み続けた者ほど彼を疎んだ。村への良からぬ影響を与える原因となり得る存在への態度は顕著であり、あからさまな嫌煙の感情が年嵩な者にはあった。


そういった外来者を拒む傾向のある場所に、誰しも居続けようとは思わない。村人は居た堪れなくなって彼が数日の内に去ると誰もが思っていたが、殊の外に彼はこの村に滞在し続けた。


村人がそれを不審に思う中、しかし逆に好奇心の高い村の若者はこの少年に関わりたがった。外聞を知ろうと寄り集まり、彼の言葉から世界を知ろうとしたためである。


少年は年嵩な村人の心境を見ていなかったのか、見ぬ振りをしたのか、我関せずと若者と交友を深めた。歳の近い事もあってか、両者は瞬く間にして距離を縮める。どちらかと言えば村の若者から距離を寄って行ったが正しい。


村の誰かが親しくなれる姿を見れば、やがて傍目で見るだけだった者でも無害だとわかる。追って興味を持つ者が近寄っていくのにやはり時間はかからない。


そうしていく中で彼は度々観察と称して、何度か村の外へ足を運んだ。


やっと旅立ったと思えば、彼は何事もなかったかのように帰還し、時折斧牙猪イジババ研爪鳥シェゼーガ幹角鹿ズァベルヴなどの化物魔物を蹴殺けころしたと口零して引き摺って帰ってきた事もあった。基本、穀物と山菜が主食な村の若者は新鮮な肉に歓喜したのは言うまでもないだろう。


しかしながら、そのような好意的に受け取って良い行いをよく思わないのが年嵩の村人だ。


それも当然のことだった。獣狩人でも征剣奉ドーヴランでもない者が剣も斧も弓も携えず、しかも素手らしき口振りで魔物を倒し、自らの肉体よりも遥かに重い獲物を簡単に引き摺っているのだ。


流石に看過できずに年嵩の村人は少年に問い詰めた。


何者だ、尋常を外れた征剣奉ドーヴランか、罪人が何故に村に訪れた、罪逃れめ、目的は何だ。


かまびすしい年嵩が、少年にそう口を揃えて問うた。


疑念と不穏を入り混じった感情の反動は、状況に因って熱を増して過激になり易い。荒波よろしく攻め寄られる少年には、心のない言葉が時折飛んだ程には、年嵩な村人とって信用も信頼もない余所の存在でしかないのである。


しかし生憎少年は口弁が達者だった。外観の通り人生こそ浅いものの、知識と見識の深さは外聞を知らぬ村人の誰よりも優れていたのである。


訝しんだ老人を卑屈せず窘め、怪しんだ村人を説得したのだ。


そればかりではない。彼は自身に関係のない事情にまで踏み込み、その度に自身を差し出して解決へ導いた。


苦悩する者に足る助言を添え、不安を抱えた者に心が安らぐ方法を示した。


日々現れる苦難に阻まれた時に打算のない態度で知恵を絞り、寄り添って具体的な解決策を提示するその姿は親しい隣人である。


同時にそれらの策は全てが工夫であったことも大きい。唐突な変化ではなく緩やかな改善であり、突如たる驚きではなく賢いと感心させる方法だった。


この様な人の関心を惹きつける行動は、砂に染み込む水如く村人の心に溶け込んでいき、軈て信用に足る存在だと認知された。それは嫌煙していた年嵩にまで及び、いよいよ村人として馴染み始める切っ掛けとなった。


獲物を狩って持ち帰る度に称賛を浴びていた頃に比べ、少年は小さなことですら村人の関心を集めるような影響のある存在となっていた。


何より良いことは、村にも村人にも変化がなかったことだ。嫌煙していた年嵩が思うような事にならなかったのが、最も信頼を得る理由だろう。


そのような折に老婆と少年は邂逅した。だが他の村人と比べ互いの第一印象は最初から悪かった。開口一番から先のように汚い言葉で罵り合い、言葉で暴力を振るった。ちなみに火蓋を切ったのは老婆である。




「ま、いいさ」


醜い争いが再び始まるかと思いきや、颯音はすっと表情を緩めた。


「俺は話があるって聞いて来たんだ。こんな思慮もない偏屈一辺倒で言い合うだけの、くだらん遊び戯れはいつでもできるだろうが。さっさと要件を言え」

「全く、堪え性のない奴だよ。面白くない」

「張り合ったって何も始まらねーし、何も終わらねーだろーが」


居住まいを正して、颯音は老婆へ向き直る。顔に剣呑な雰囲気はなく真面目な様子だ。


「ふざけてないでいい加減に話せ喚虫ウェズべ。俺を現世みらいから此世界こちらへ連れ込んだ神のお告げってのをな」

「…ま、しょうがないさね」


驚くことに老婆の前にいる西條颯音と名乗った少年は、言葉の通り老婆側の世界の住人ではない。


まともに会話した最初の時、少年は自身をいきなり異世界人と自称した。そして簡潔にこの村にまで来る道程を述べ、そして村の内側を歩くことでここが本当に自分の世界と異なるのを確信したと言った。


やはり頭のおかしい碌でもない馬鹿者ではないかと老婆は邪推したが、その証拠に彼は聞き慣れないいくつかの言語を喋り、見たこともないいくつかの文字を書いてみせた。


無論、老婆は生まれたときからユグリに住む、しがない村人の老いた一人でしかない。広い外の世界を旅したこともなければ、数多の風景を望んだこともない。


緑ばかりの大地が季節によって朽ちるように赤茶け、雪で白く染まり、かと思えば萌芽が土から顔を出し、草木が緑を吹き返す。その様を何年も何十年も繰り返すのを見たのが精々だ。


陸の切れ目にある海も、遥か天上まで屹立するという連峰も、奇抜としか思えぬ異国の地にも…自身が住む栄光ある国のお膝元の姿すら老婆は知らない。


行商人の話を聞いたのが、想像したのが全てだった。


故、驚きもそこそこに考え直し、見知らぬ土地で使われる言語では、見知らぬ土地で使われる文字では、と反論した老婆だったが少年はそれを鼻で笑いこう続けた。


「これら言語や文字が僅かにも通じるのなら、そんな事は言わない。特にこの『英語』は俺が知る限り、俺の世界では最も広く使われる言語と文字だ」


世界を跨いで通用する言語であろうが、この様な些末にして局地な村には通じないものであると言うには容易い。だが、彼は既に老婆以外にも、村の外から来た者にも、これらの質問を投げかけていた。その答えが文字を読めない、言語の意味理解できないとの否定であるのならば、答えは出ている。


「つっても、まあ、若い奴は特にそうだが大半の村人は、そもそも文字が読めないらしいから当てになる根拠じゃねえ。けど、文字が読める村人も、村外から来る行商も、これらと同じ言語も文字も使わない、知らないと言ったんだ。尚の事だろう?」


その言葉が西條颯音は異世界の人間であるという揺るがぬ答えだった。


当然、浮かび上がる疑問もある。颯音がこちらの世界の言葉を喋れていることだ。


「それがわからん。俺は思うように喋っているが、口の動きは勝手に動きやがる。意識して言語を選ばねえと、喋ることもなかなか難しい。気味が悪い」


颯音はそう吐き捨てて、顔を顰めて宣った。それは心底気持ち悪いものでも感じているかのような、滅多に見れる人の表情ではない、この上ない嫌悪感と畏怖を感じ取れた。


そしてその日の夜、老婆は夢の中でお告げを見た。それは夢と言うにはあまりにも鮮明に覚えていたし、鮮烈と言う他ない光景だった。


尾の長い流れ星めいた光条が全方位を流れる円筒のような空間、その先ある眩いばかりに淡い焔…そして風のような声を聞いた。


夢にいる時何を言われたのかはわからない。聞き覚えのない言葉が頭の中で残響していた。


飛び起きたときはすっかり日が昇った後だった。老体には珍しく深い眠りだったとその時は思った。


が、目が冴える中で夢で聞いた声が反芻するように思い出された時、何を言っていたのか分かった。


それが今朝のことである。


「で?お告げはなんて言った?」

「『大地を駆け、風に散る。川に流され、海に乗り、空を舞う』」

「…馬鹿にしてんのか?」

「私だって意味はさっぱりさ」

「ちっ、なんだってんだよ…気持ち悪いったらありゃしねェ…」


吐き捨てて颯音は踏ん反り返って腕を組んだ。


「(寝て起きてもこの夢は醒めねえ。寧ろ誰かが余計な夢まで見る始末だ…何がどうなってんだよ…)」

「…」

「(大地を駆け、風に散る?砂埃かなにかだとでも言いてえのか?川に流され、海に乗り、空に舞う…水蒸気かよ…なんか意味がある言葉とは思えねえ)」

「…思い当たる節はあるかい?」

「くっだらねえことばかりはな」


舌打ちして颯音は組んだ腕を解いた。


「おい、本当にそんなこと言ってたのか?妄言じゃねえだろーな?」

「どう思おうが勝手だけどね、でもからかうにはちと面白みのない内容だろう?」

「まあ確かに。てめーに詩文を歌う感性があるとは思えねえし、それにしたって何を示すのかがとんとわからん。そも、そのお告げってのが俺に向けられたとも言えねえしな…誰かに話したか?」

「勿論、あんただけだよ」

「俺と会ったからか?」

「この村で私に楯突いたり、暴言吐く奴はいないよ。大抵平凡な人さ。あんたは誰に対しても容赦も遠慮もない上に、ここにいる誰よりも賢く威勢が良い。何よりそれを踏まえて異なる世界の人間だ、って言われた日には、ねえ?」

「…」

「これはあんたが異なる世界からきた、って話したその日の夜の夢だ。関連がないわけがないだろう?」

「つってもな…俺にはなんの意味もねえお告げだ」


大きく溜息を吐いて、颯音は天上を仰ぐ。


梁の上に、隅に、蜘蛛が巣を張っている。陽光の届かない暗がりには、何があるのかはわからない。


見ようとするのなら明かりを近づけるしかない。


「比喩にしても例えににしても、明確な告げ口じゃねーんだ。今後の行業次第で漸く分かるかだろうってな感じの、えらく遠回しな渋奴けちの物言いと聞こえる。であれば、今の俺には――――本当になんの意味もねえ」

「…そう言われるとそうかも知れないね」

「どの道、逗まって考えたって解答は出無いってこった」

「それで?」


老婆は手から・・・容器に水を注ぎ入れながら問う。


「これからどうするんだい?」

「さてな…にしても、本当に気味悪い術だなそれ」

「まだ言ってんのかい」


老婆の手にはもちろん薬缶も水差しもない。だと言うのに、何もない手からそれらを使っているかのように水が注がれている。


そうして容器に満たされた水は濁りもないものだった。


前提の常識を異とする颯音には、僅かにも理解できない異様な光景である。


「見れば見るほど気持ち悪いったらねーぜ。なんつったっけか?その得体の知れねえ術」

「魔法だよ。覚えときな小僧」

「魔法…ね」


魔法。


その言葉に颯音が即座に思いつくのは自分の世界にある神話だ。しかしながら神話は非現実的な妄想に比類する記述の産物で、そこで描かれることは現世において有り得ない事柄でしかない。


故、颯音は魔法のことをただ漠然と空想上の産物に過ぎない得体の知れない力の象徴であり、超自然的な能力であることぐらいしか思い浮かばなかった。


当然ながら、信じられない、と言うしかないのだが、村人はそれに反してこれが普通だと宣う。颯音が頭を抱えることになったのは想像するには容易い。


「使ってみればこの便利さも分かるさね」

「言いたいことは分かるぜ。俺も似たような、盲信するに相応しい物に囲まれて育った。けどよ、異なる理の中で理解不能なものを便利だからって安易で取り込める程、俺は順応でも盲目でもねえ」

「そんなことじゃ、この先を生きていけないよ。ここに逗まるにしろ、外へ行くにしろね」

「理は異なれど今の場に居座るのなら従え…か。まあ道理ではあるんだろうが…まだ俺には呑み込めねえよ」

「そう言えば魔法の無い世界にいたんだったね」

「つっても、この目で何もかもを目視で確認したわけじゃなしだ。本当になかった、とは断言できねーし、特定の神話や伝承なんかでは記述されてる。夢物語の類として見るならば、眉唾の根拠ではあるけどな。ともあれ、俺に言わせりゃァ、魔法なんてのは妄想の極みだ。魔法は人智及ばぬ神の御業ってな、大仰なものだ」

「御大層な表れじゃないかい」

「全くだ。空想に依って生まれたものに、何を期待したんだか」

「その口振りじゃあ、坊主は神の存在を信じてないのかい?」

「神の存在の是非なんてのは、どうでもいいことを思い出すぐらいには、どうでもいいことだろうが。問題は模られた神を信仰するって点だ。救済だの恩寵だのの演説文句は、特定的で都合の良い方便如きだ。人類に狩られる獣や草木の意思は無関係で、人ばかりに傾倒する神なんぞに平等などなく、人以外は信仰する価値も無い。人の欲が神という都合のいいものを生み出しただけだ。まあ、だからこそ、造形され昇華された「神」は、その名称に足りえる存在なのだろうが、お前の言うに然り、世界は自然的で弱き肉を強きが食すが理だ。究極的な個人思想で言うならば、神と言う名は忌みして侮蔑されるべきだ」


神に対する嫌味を込めて、少年はそう続けた。

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