03.家族の反対

 俺は家に帰るなり、パソコンを立ち上げた。

 美乃梨が訝しげな目でこっちを見ていたが、気にしていないフリをする。

 最終同意には家族の同意書も必要になるから、美乃梨を説き伏せるのは必須条件だ。病院で色々検査も済ませたし、社長からの激励ももらったし、絶対に提供したい。

 俺は市のホームページを開いて、骨髄提供の際に補助金が出るのかどうかを調べた。

 幸い、俺の住んでいる市は、ドナーに一日二万円で上限は七日、事業主には一日一万円で上限は七日分出るらしい。

 ボランティアだから、お金なんか貰うつもりはなかったし貰えるとも思ってなかったけど、こういう補助金は有難いな。仕事を休みやすくなるシステムを、自治体が作ってくれているんだ。こうすることで、骨髄を提供しやすい環境を整えてくれているんだろう。

 このお金でベビーシッターなんかを雇えれば、子どものいる家庭の母親も提供しやすくなるんじゃないかな。

 惜しむらくは、まだこれが全国展開されていないってことだ。地域によってはまったく助成がないから、これからの課題といったところだろう。

 それを確認した俺は、次に自分の加入している医療保険の証書を探し出した。目的の骨髄提供についての項目を見ると、骨髄提供が終わった後に、二十万円もの保険が出ることになっている。

 ただしこれは一回のみで、二回目の提供の際には出ないと書いていた。

 提供者ドナーとなれるのは、生涯で二回きり。それ以上は提供できないことになっている。

 どうせなら、一回十万円を二回に分けてくれた方が良かった気もする。まぁそういう医療保険もあるんだろうけど、とにかく俺の契約している保険はこんな感じだった。

 お金のために提供するわけじゃないけど、こういう助成や保険のおかげで提供しやすくなるというのはいいことだと思う。少しは美乃梨を説得しやすくなるかな。

 晩御飯を食べて終えて、少しゆったりした夜の時間に俺は美乃梨に切り出した。


「ドナーの件だけどさ、会社は全面的にバックアップしてくれるから問題ないよ」


 天然水を飲もうとしている美乃梨の手が止まる。やっぱりムッとした顔で、そのコップをテーブルに置いた。


「本当に? 嫌な顔されなかった?」

「全然。うちの社長の奥さんってさ、昔白血病で亡くなったんだって。だから俺が骨髄提供するって言ったら、むしろ喜んでたよ」

「そう……でも私はやっぱり、賛成できないよ」

「お金のことなら心配するなよ。会社にはドナー休暇制度もあるし、自治体からは病院に通った日数分……最大七日までだけど、一日二万円出るし。実際にドナーになって骨髄提供すれば、医療保険からも二十万も出……」

「お金の問題じゃないでしょ?!」


 俺が説明していると、美乃梨の大きな声で阻まれた。

 え、金の問題じゃ……なかったのか。


「そりゃあ、お金の心配をしなくていいっていうのは助かるけど……それよりも、晃の体になにかあったらどうするの?」

「ああ、それも大丈夫だよ。ドナー保険ってのがあって、医療処置の怪我とか病院に向かう途中の事故とかでも、最大一億円の補償をしてくれるってさ。まぁ任意だから掛け捨てで二万五千円を払わなきゃいけないけど、補助や給付金で賄えるし、最終的にドナーに選ばれなかったらそのお金は返ってくる……」

「だから、お金の問題じゃないんだってば!」


 美乃梨は呆れたような顔で俺を見てくる。いや、俺の体に万が一のことがあったらって心配してくれてるのはわかってるんだけど。


「もし晃が一生動けなくなったり死んじゃったりしたらどうするの?! お金で健康や命は買えないのよ!」

「大丈夫だよ、そんな確率は交通事故に遭うより低いんだから」

「でも、ゼロじゃないじゃない。実際に亡くなったドナーの方がいるんでしょ?」

「ほとんど海外の事例だよ。海外でも四件だけだし、日本じゃたった一件だって。しかも骨髄バンクを通してない、血縁ドナーで昔の話だから。日本の骨髄バンクを通しての死亡事例はゼロだし」

「それでも、五件も死亡事例があるんじゃない!」


 いや、だから日本の骨髄バンクを通してはゼロなんだってば……。

 それに、世界で毎年すごい数の骨髄移植が行われてるっていうのに、今までにたった五件しか死亡事例ないんだぞ? 万が一よりも確率は低いのに、気にし過ぎてる。俺の体を心配してくれてるのは嬉しいんだけどな。


「ごめんだけど、私は反対! なにかあってからじゃ遅いのよ? 見も知らない人のために負うリスクじゃないと思う」

「リスクって言っても、会社も協力してくれるっていうし金銭面での心配はない。ほとんど起こることのない死亡例なんか気にしてどうするんだよ」

「障害が残った事例もあるんでしょ? 怖いわよ、骨髄なんて」


 美乃梨の言葉に、「ん?」と首を傾げる。なにか勘違いしてないか?


「美乃梨、骨髄と脊髄を間違えてないか?」

「……え?」

「脊髄は傷つけると後遺症が残るけど、骨髄は全然関係ないところだぞ」


 そう言うと、美乃梨は一瞬顔を赤くして「そんなのわかってるわよっ」と反論してきた。いや……わかってなかったな、今のは。


「多分、美乃梨が思ってるほど後遺症が出る人は多くないよ。お尻の上の方に針を刺して、腸骨っていうところから骨髄液を採るらしい。刺した跡は数年残るらしいけど、それもそのうち消えるみたいだし」


 もし消えなくてもそんなところを見る奴は美乃梨以外いないし、傷があっても俺は男だから特に気にしない。

 そんな程度で人一人を助けられるんなら、安いリスクだと思うんだけどな。


「それに、確かに後遺症が出た人はいるけど、ハンドブックに全部開示されてる。それを見る限り、そこまで重篤な後遺症がある人はいないよ」

「それでも私は反対だから! ちゃんとコーディネーターさんにそう伝えてね!」


 美乃梨は明らかな怒り顔でそう言い出した。骨髄の提供には家族の同意が必須だから、焦る。


「ちょっ、困るって! 骨髄提供には家族の同意書も必要なんだから!」

「私はサインなんかしないわよ。大丈夫よ、他にもドナー候補者っているんでしょ? その人たちのうちの誰かが引き受けてくれるわ」

「他にドナー候補者がいるかどうかは、俺にはわからないよ。もしかしたら俺一人だけかもしれない」

「それでもコーディネーターさんは断っていいって言ったんでしょう?」

「コーディネーターさんは立場上、そう言わざるを得なかっただけだ。骨髄提供は、ボランティアの完全な善意で成り立ってるから、強制するわけにはいかないんだよ」

「だったらなおさら、断る権利はあるんじゃない。気にする必要ないわよ」


 美乃梨は『これでおしまい』とでも言うように、立ち上がってお風呂に入ってしまった。

 まさか、こんなに反対されるとは思ってもいなかった。

 美乃梨の同意が得られないとなると、これは困ったことになったぞ。早目に断りの電話を入れておいた方がいいんだろうか。

 でも俺は……やっぱり骨髄を提供したい。

 社長の奥さんが、白血病で亡くなったと聞いたからかな。知ってしまった以上、放っておけないじゃないか。

 どこの誰だかわからない。そんな人のためにリスクを侵すのはおかしいって美乃梨は思うのかもしれないけど。

 逆にそんなあるかないかのリスクのために、救えるかもしれない命を放置するなんてできない。

 HLAの型が俺しか合ってなくて、ドナー候補が俺一人だったらどうするんだよ? 俺が断ったらその人はどうなるんだ?

 断ったら、そこでコーディネート終了だ。その方が、なにも考えずに済んで楽なのかもしれない。

 でも、多分俺は……患者レシピエントがどうなったのか気になって、後悔しそうな気がした。


 俺は次の日、移植コーディネーターの坂下さんに電話した。

 そして事情を話し、妻の説得にしばらく時間が欲しいとお願いする。こういうケースはうちだけじゃなくどこでもあるそうで、坂下さんは了承してくれた。でも夫婦仲がこじれるくらいの言い争いになるなら、辞退してくださいねと付け加えてくれて。

 それから俺は、毎日ドナーになりたいと言い続けた。けど美乃梨は一切取り合ってくれず、時間だけが過ぎていった。

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