02.ドナー休暇制度
それからお盆を過ぎてから移植コーディネーターの人から電話をもらい、提供の意思があると伝える。すると九月十日に病院で、面談とドナー確認検査をすることになった。
「初めまして、移植コーディネーターの坂下です」
「進藤です。よろしくお願いします」
移植コーディネーターの坂下さんは、きっちりとしたスーツの割にふわっと柔らかい女性だった。
骨髄液採取を行うための病院はいくつか選べたので、自宅から一番近い総合病院を選ぶ。この病院に来るのに掛かった費用を聞かれたが、歩いて来られる範囲だからとお断りをした。
遠くにしか病院がなくても、費用は気にしなくていいらしい。まぁ、仕事を休んだ分までは補償してくれないだろうけど。
その坂下さんに、骨髄移植のための手順を教えてもらう。ほとんどはハンドブックに載っていた通りで、特に目新しいことはなかった。
ドナーの麻酔での死亡例が過去に日本でも一件あることと、障害が残った例もあるようだったけど、確率にすればすごく少ないことだから俺は特に注目しなかった。
それと、
ああ、あれかな。『骨髄液くれてやったんだから金寄越せ』みたいな人がいるといけないからかな。もちろん俺はそんなことをするつもりはさらさらないけど、世の中には色んな人がいるからな。
一通りの説明を終えた後で、坂下さんが優しい笑顔を見せてくれた。
「もし、お断りをしたいというのであれば、すぐにおっしゃってくださいね。最終同意までは、辞退できますので」
「へぇ、そうなんですか。意外ですね、もっと『お願いします』って言われるのかと思っていました」
「私たちコーディネーターにできることは、骨髄移植に関して説明をするだけなんです。あとはご本人の意思にお任せすることになっていますので」
つまり、無理強いはしないってことか。まぁ直前になって『やっぱ嫌だ』なんて言わない方がいいだろう。事情があるならともかく、断る場合は早めに越したことはないはずだ。
まぁ俺は断るつもりはないんだが。そういえば今回の検査で、移植適合順位っていうのが決まるんだったな。
俺は坂下さんに目を向けて疑問をぶつける。
「これって、俺以外に何人かのドナーが候補としているんですよね?」
「はい、一人のレシピエントにつき、五人までの候補者を同時進行できるんですが、進藤さんの他に何人いて、どういう状況かというのは教えられないことになっています。それに実は、私たちコーディネーターにも知らされていないんですよ。申し訳ありません」
じゃあ俺以外に四人いるかもしれないし、もしかしたら俺一人だけっていうこともあり得るんだな。もし俺一人だけだった場合、断ったら……その患者はどうなるんだろう。
他にも治療法があるんだろうけど、多分骨髄移植が最適だからこうして依頼が来るに違いない。できるだけ、提供する方向で考えていこう。
そのあとは病院で事前検査とやらをやった。身長や体重を測って、何本も採血される。血圧も異常はなし。他にも色々と検査をされて、コーディネーターさんの説明も加えると二時間ほど掛かった。
「レシピエント側の希望としては、十二月の初旬になるという話なんですが、ご都合はいかがでしょう?」
「まだ先のことなので断定できないのですが、おそらくなんとかなると思います。今日の休みの理由を上司に伝えていますし、同僚も色々と協力してくれましたから」
骨髄液は採取後、二日以内に移植しなければいけないらしい。保存はしておけないんだ。
その日は、
それから二週間ほどで、問題なしという結果が俺の元に届いた。つまり俺は、
けれどそれを話すと、美乃梨は前回と同じくいい顔をしなかった。
「辞退した方がいいんじゃない?」
「俺は辞退する気はないよ」
美乃梨にそうはっきり告げると、やっぱりムッとしている。俺には正直、どうしてそんなに反対するのかわからない。
悪いことをするってならまだしも、そうじゃない。誰が見たって良いことをしようとしているんだから。
「仕事は休むことになるんでしょ?」
「そりゃあね」
「迷惑を掛けちゃうんじゃないの?」
「ちゃんと話すよ」
「反対されたら、辞退してよね」
「まぁ、とりあえず上司に相談はするよ」
ドナー検査のために会社を休んだ時、チラッとそういう話はしてある。その時は皆協力してくれたし、対して嫌な顔もされなかったけど、実際にドナーになると何度も自己輸血のための採血に病院に通わないといけなくなるし、骨髄液を採取する際には三泊四日の入院をすることになる。
まだ決定したわけじゃないけど、ドナーの確認検査が通ったんだから、そうなる可能性が高まったことを会社に報告しないわけにはいかないだろう。
次の日、俺は早速直属の上司に話をした。特に嫌な顔をされることもなかったが、その数時間後に俺は社長室へと呼び出された。
大きな会社じゃないので社長と話すことはよくあるんだが、やっぱり呼び出されると緊張する。
仕事でミスをした覚えはないから、やっぱりドナーの件についてだろう。
それほど広くはない社長室に入ると、穏やかな社長が迎えてくれた。社長は御年六十六歳。今も現役で働いている。
子どもがいないためか、社員を子どものように大事に扱ってくれる。そんな社長は、みんなの父親的存在だ。
怖い時もあるし厳しいことも言う人だが、俺たち若手の話をよく聞いてくれて、この人を嫌っている人は多分少ないと思う。
そんな社長が「進藤くん」と俺の名を呼んだ。「はい」と俺は真っ直ぐに社長を見据える。
「君がドナーとなって、骨髄液を提供するという話を聞いたんだが」
「はい。しかしまだ決定したわけではなく、ドナー候補の一人となっただけです」
「そうか。確か、一人のレシピエントに五人までのドナーを候補にできるんだったな」
「そうです……社長、よくご存知ですね」
「わしも五十四歳までドナー登録していたからな。年齢制限で引退したし、結局ドナーになる機会は巡ってこなんだが」
ええ? 社長がドナー登録を? 初耳だ。
まぁ俺が入社した時にはもう引退してたんだから当然と言えば当然なんだけど。
驚いている俺を横目に、社長は優しく笑いながら言う。
「もしドナーに決まったとしたら、何度も会社を休むことになると思うが、そこは気にするな。有給を使う必要もないしな」
「え? どういうことです?」
有給を使う必要はないって……使うなってことか?
うちの会社は日給月給だから、休んだ分が直接給料に響くとなると、結構厳しいぞ。美乃梨はそれを理由に反対してくるに決まってる。
けど社長は俺の考えを吹き消す発言をした。
「うちにはドナー休暇制度というのがあるから、遠慮なく使ってくれ」
「ドナー休暇制度……」
「おいおい、求人票にも書いていたし、入社時にも説明していたはずなんだがなぁ」
「す、すみません、注視していませんでした」
そういえば、一瞬だけ説明されてた気もするな。入社できただけで浮かれて、ちゃんと聞いてなかった。
「まぁ、この休暇を使うのは君が初めてだ。導入しておいてよかったよ。ああ、あと君が休んだ分は自治体から補助が出るから気にしないようにな」
自治体から補助が出るというのは、コーディネーターの坂下さんから少し聞いた。自治体によって出たり出なかったり、金額が違ったりするって。
調べておこうと思いながら、まだなんにも手をつけてなかった。あれ、ドナーにだけじゃなく雇用主にも出るのか。それも自治体によって違うんだろうな。
「ああそうだ、進藤くんは医療保険には入っているかね?」
「医療保険? ええ、入っていますが」
「骨髄液の提供でおりる保険もあるから、確認してみるといい。保険会社にもよるが、最近の医療保険ならいくらかは出ると思うぞ」
「そうなんですか? 情報ありがとうございます」
確か医療保険は独身の時に母親が決めて契約したものだから、どうなのか分からないけど、調べるだけ調べてみよう。
けど俺は、これだけ色々と詳しい社長に驚いていた。
社長くらいの年になったら、常識的に知っていることなのか? そうとも思えないんだが。
「社長、色々とお詳しいんですね」
「妻が白血病で亡くなったもんでなぁ」
「え?!」
「もう四十年も前になるか。二十四歳で逝ったよ。たった四年の結婚生活だった」
社長の衝撃発言に、俺はなんと言っていいかわからずに言葉を失った。
四十年前……社長が二十六歳の時か。今の俺と、同い年だ。
「あの頃は白血病というと死の病気だったからな。もちろん骨髄移植なんて手はなかった。妻が今の時代に発症したのなら、助かっていたのかもしれんな」
社長はずっと独身だと思っていたけど、亡くなった奥さんがいたのか。
それも、白血病で亡くなった。
骨髄バンクが設立されて、ドナー登録をした社長の気持ちは想像に難くない。
「まぁそんなわしの個人的な事情もあってな。進藤くんがドナーになることに、なにもケチをつけるつもりはないよ。むしろ全面的に協力するから、困ったことがあったらすぐ言ってくれ」
「は、はい! ありがとうございます、社長!」
頑張ってくれたまえという激励を受けて、社長室を出る。まだドナーになると決まったわけじゃないんだが。
それでも、これだけ理解を示してくれる会社は珍しいんじゃないだろうか。それとも最近は、ドナー休暇制度を設けてる会社も多いのかな。
どっちにしろ、会社の体制はバッチリだ。これで美乃梨にも反対されることはないだろう。
と、俺はそう軽く考えていた。
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