第四章 愛が見えない 5


「伊織さん、お湯、頂きました」

「温まった?」

「はい」

「服のサイズは大丈夫?」

「はい、問題ありません」

「よかったぁ」

 真尋の答えに、伊織はほっとした。スタイルには自信のある真尋であっても、少しだけ、気にしている部分はある。いくら真尋であってもそこを触れられたら、きつい言葉を吐かねばならない。

「どうかされました?」

「ううん、なんでもない。こっちの話。そうだ、こんな時間だし、夜ごはんも食べてく?」

「いいえ。ご厚意は嬉しいですが、母が作ってくれていますのでご遠慮させて頂きます」

「そっかぁ。急だもんね」

「すみません」

「なら、今度は真尋のお母さんから許可貰って、あたしの家でお泊り会とかしよっか?」

「本当ですか?」

 今まで、密な友だち付き合いをしたことのない真尋にとって、伊織の誘いはとても嬉しいものだった。

「うん、また予定とかは決めようね」

「はい」

「なら、もう暗くなって危ないから、兄さんに送らせるよ」

「そ、そんなの大丈夫です」

 真尋は手をパタパタさせながら拒否するが、「真尋。兄さんも言ってるけど、真尋は女のあたしから見てもキレイって思うんだから、わざわざ危険になるような確率を上げちゃだめだよ」と、伊織は真面目な表情で注意を促す。

「は、はい。わかりました」

 伊織の提案が自分を案じてくれてのものだとわかると、真尋も首を縦に振るしかない。

「よろしい。じゃ、あたしは兄さん呼んでくるから、荷物持って玄関に向かって。服はまた今度返してくれればいいから」

「ありがとうございます」

 伊織は豪雨の中をただ走るという苦行を終えて、今は軽くシャワーを浴びている兄を呼びに行くため、リビングから出て行く。

 真尋は荷物を手に持ち、玄関へ向かおうとしたが、途中、一室の前で足を止めてしまった。

 その部屋のドアには省吾の部屋と書かれたコルクボードが掲げられている。

「少しなら、いいですよね」

 ほんの出来心だった。相手のことを知りたい、ちょっとした好奇心だった。

「………」

 薄暗い部屋だった。

「………」

 所狭しと、一人のキャラクターで埋め尽くされた部屋だった。

「………」

 真尋は部屋の中を見入ることなく、一瞬で開いた扉を閉めてしまう。

「………」

 中を確認し終わった時には、先ほどまでの昂揚感も好奇心もない。見なければよかった。知らなければよかった。あるのはただ後悔だけ。

「真尋~、準備できた?」

 伊織の自分を呼ぶ声に真尋はなにも言わずに再び歩き出す。

「兄さん。真尋が嫌がるようなことしちゃダメだからね」

「俺が真尋ちゃんの嫌がるようなことするわけないだろ。俺は真尋ちゃんの言うことは絶対に守る」

「………」

 その言葉をただ黙って見つめる真尋。

「だってさ。嫌なことははっきり嫌っていうんだよ」

「……わかっています」

 伊織の注意に真尋は小さな声で答えた。

「じゃ真尋ちゃん。行こうか」

「……はい」

 省吾の先導に真尋は少し距離を取ってついていく。

「大丈夫だよ、ね」

 伊織はその後ろ姿を心配そうに見ていた。


「………」

「………」

 二人はただ黙ったまま、歩いてく。俯きながら歩いているせいか、今日に限って省吾は真尋に話しかけようとしない。

 真尋は省吾の後ろをついていきながら、ちらちらと影だけを見ていた。話したくないわけじゃない。真尋は省吾に話しかけようとしては言葉を飲み込む。聞いてどうなる話ではない。自分の想像通りであるならばむしろ聞きたくない。

 省吾の部屋のこと、省吾が自分のことをどう思っているのか。それを聞いて自分はどうするのか。

 考えをすればするほど、言葉はまとまらず、どんどんと自宅には近づいてくる。

「真尋ちゃんの家ってこっちでよかったっけ?」

 もうすぐお別れの場所。今日、この気持ちのまま眠るわけにはいかない。

「………」

 真尋は立ち止まって、大きく深呼吸をした。

「どうしたの?」

 タイミング的には今だと思った。

 自分の気持ちを、先輩の気持ちを確かめるのは今しかないと思った。

「あの、先輩はどうしてワタクシと一緒にいてくれるんですか?」

 聞いた。聞いてしまった。

「それは真尋ちゃんのことが大好きだからだよ」

 いつもと変わらない答えが返ってくる。けれど、今の真尋はその好意に疑念しか持てない。だからこそ、続きの質問をしてしまった。

「どうしてワタクシのことが好きなんですか?」

 もう後戻りはできない。

「真尋ちゃんが俺の理想の女性になれると思ってるからだよ。あと、一.五キロ。今月中にも真尋ちゃんは俺の理想になってくれるからますます好きになるだろうね。けど、どうしてそんなこと聞くの?」

「そ、それは」

「もしかして、俺が真尋ちゃんのこと大好きだってことが伝わってなかった? そういえば、今日は真尋ちゃんと一緒にいるのに、大好きだという言葉をあまり口にしていなかったかもしれない。ごめん、それは謝るよ。最近、真尋ちゃんとの距離が縮まったかもしれないと感じてたから、もしかしたら、安心してしまってたのかもしれないね」

 違う、そういうことを聞きたいのではない。

「でも、心配しないでいい。俺は真尋ちゃんにしか好意は伝えないし、真尋ちゃんが不安にならないように、もっと好きだということを言葉にして伝えるよ」

 省吾は誰に対しても軽口を叩くわけではない。真尋自身も自分だけに好意を伝えてくれているのはわかっている。

 けれど。

「先輩」

 ここからが本題。真尋は覚悟を決めた。

「あの、先ほど先輩の部屋を少しだけ見てしまったのですが」

「あぁ、……そぅ」

 その瞬間、省吾の動揺は真尋にもはっきり見て取れた。

「勝手に覗き見してしまったのは謝ります。けれど、あの部屋について、ワタクシ、いくつか聞きたいことがあるのですけど、よろしいですか?」

「………」

 無言は肯定と捉えた。

「先輩の部屋にあったポスター、グッズ。どこかワタクシに似てたんですけど、あれってなんですか?」

 部屋一面に張られた三日月夜宵のポスターに所狭しと置かれたグッズ。一瞬でも目にすれば、この部屋の主が熱狂的なファンだとわかる。その瞬間、あの日言われた言葉が脳裏に焼き付く。

「先輩はワタクシのことが好きなんですか? それともワタクシがあのキャラクターに似ているから好きなんですか?」

「………」

「答えてください!」

 真尋は強い口調で省吾を問い詰め、省吾は覚悟を決める。真尋の望みはなんでも叶える。これは自分が決めたルールでもあった。

「俺の部屋にあるのは三日月夜宵という十年以上前に放送されたアニメのキャラクターのグッズだ。たしかに、俺は彼女のことが好きすぎて、今でも彼女の幻影を追い求めているのも事実だ。これからも彼女のことは嫌いにならないだろうが、真尋ちゃんが嫌がるなら彼女の影は断ち切ろう」

 省吾が自分のことを話してくれたのは初めてかもしれない。けれど、省吾の夜宵好きは別に秘密にされていたことではない。省吾の友人なら知っていることであり、赤の他人でさえ、風の噂で知ることのできるレベルの情報だ。だから、省吾の趣味を知れたことを喜ぶことなんてない。むしろ、今まで、そんなことすら知らなかった自分と省吾との距離に悲しみを覚える。

「先輩にとって、ワタクシはなんなんですか?」

「理想の女性だ。真尋ちゃんは今のままでいい。今のままでいてくれるなら、俺が真尋ちゃんの理想になるし、真尋ちゃんの言うことならなんでも聞こう」

「……だったら」

 真尋は意地悪を思いつく。

 ワタクシのことが好きなら大丈夫。

 大丈夫だと信じたい。

「ワタクシのことが好きなら、言うことを聞いてくれるなら、もう、ワタクシに近寄らないで下さいませんか?」

 これはただ疑心を晴らすためだけの言葉。

「………」

 すぐに否定してくれると思ったのに、相手は表情を変えずになにも答えない。

 白河真尋のことが好きでいるなら、なんでも聞くといっても嫌だと言ってもらいたい。

 好きなのに離れても大丈夫なんていうのは、そんなに好きじゃないからだと思っていた。

「………」

 けれど、相手はなにも答えない。

「ワタクシ、先輩と一緒にいるとなにかと誤解を受けることもありますので、なるべくなら一人でいたいとも思ってるんですよ」

 その沈黙に耐えきれず、心にもない言葉が出てくる。

 どんなひどい言葉を投げかけても、省吾なら大丈夫。どこかで、そんな気持ちを抱えながら、今さら、さっきの言葉は冗談ですよとは言えなくなってしまった。

「………」

 相手はそれでもなにも言わない。

「生徒会のお手伝いはさせて頂きます。けれど、明日からは迎えにきたり、過保護に接するようなことはしないでください。むしろ、話しかけられるのも困ります」

 その沈黙が怖くて、真尋は相手の表情を見れなくなる。怒っているのか、驚いているのか、泣いているのか。

 それすらもわからない。

「………」

「………」

 早く否定して欲しい。けれど、その願いは叶わなかった。

「……わかった」

 たった一言。いや、たった一語で真尋は熱を帯びてきた省吾への気持ちが急に冷める。

「それが、真尋ちゃんの気持ちなら俺は従うしかない」

 省吾は自分のことを大事に想っているから、わがままを聞いてくれた。とは、思えない。

 恋する女の子にとっては、矛盾すら超えて、自分の近くで好意を伝えて欲しかった。

 自分がなにをいっても、諦めないで自分に執着して欲しかった。

 その程度なのか、やっぱり。

「………」

 今度は真尋が黙ってしまう。

 最後に何を言ったのかも、どうやって家に帰ったかも覚えていないほど、真尋は自分の殻の中に閉じこもってしまった。

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