第四章 愛が見えない 6
「真尋、ちょっといい?」
帰り支度をしている真尋に伊織が声をかけてきた。
「なんでしょうか」
真尋は顔も上げずに、手は進めながら相づちを打つ。
その二人の会話を聞き逃すまいと、クラスメートは無関心を装いながら聞き耳を立てている。
普段から注目を集める二人であるが、今日は勝手が違う。その理由は簡単だった。
いつも、一度以上はクラスに顔を見せに来る上級生の姿が今日は確認できなかった。
もしかして、なにかあったのか?
男子生徒は期待の、女子生徒は好奇の視線をむけている。
「別の場所にいこうか?」
伊織は帰る素振りだけで動こうとしないクラスメートに嫌悪感を覚えながら、真尋に提案するが、真尋は「どうしてですか? ここでは話しにくい内容ですか?」と聞いてくるので、伊織は険しい表情を浮かべながら聞いた。
「ねぇ、昨日、兄さんとなにかあった?」
あまり周囲には聞かれたくないのか、伊織の声は小さい。けれど、真尋は聞こえないふりをすることはできない。
「………」
真尋は一呼吸置いてから「どうして、そんなこと聞きますか?」と、質問を返す。
「ちょっとね、聞きたくて」
「なにもなかったですよ」
そう、なにもなかった。なにもなくなった。
「そうなんだ。なにもなかったんだ」
伊織は冷めた目でこちらを見ている。自分の言葉をまったく信じてくれていない、そんな視線を向けてきた。
「そうです。それに、伊織さんは知ってましたか?」
だったらこちらからも言わせてもらおう。決して、自分だけが悪いだけじゃない。
「なにを?」
「先輩がワタクシに固執している理由です?」
「言ってたじゃん。兄さんは真尋が好みのタイプだから好きなんだよ」
「そうじゃありません。なぜ、ワタクシが好みなのかということです?」
いくら妹でも詳しくは知らないと思っていた。それを知れば、彼女もそんな目で自分のことを見ないと甘く考えていた。
「そうね。真尋も知ってるかもしれないけど、兄さんは三日月夜宵っていう昔のアニメキャラが大好きなの。小さい頃はそれこそ彼女と結婚するんだっていうくらいに大好きだったわ。周りのクラスメートからどれだけバカにされようが、どれだけ実際に存在しないモノだと諭されようが頑なに彼女と結婚するんだって公言してた。それでも、さすがにずっと夢を見られなくなったのか、ようやく現実に彼女がいないと気づかされてからは彼女の幻影を求めて、彼女に似ている女性に近寄っていってたわ。今もそう。真尋のことを彼女の生まれ変わりだと信じているから真尋のことが好きなんだよ」
伊織はこともなげに言う。
昨日の省吾よりも詳しく、はっきりと自分が好きなのは好きなキャラの代わりだと言ってくる。
「それって、ワタクシでなくても、そのキャラクターに近い女性がいれば誰でもいいってことですよね?」
真尋は一瞬の戸惑いの後に、文句を垂れる。
「どうなんだろ。今まで兄さんを近くで見ていたけど、ここまで熱を入れるのは初めてだと思うけどね」
「………」
自分は何人目の代わりなんだろう。彼はそのままでいいと言ってくれたが、あれは誰にでも言ってきた言葉なのだろうか。
「いいんじゃない。兄さん、見てくれは悪くないし、頭は良いし、運動もできる。要領だっていいし、今は友人にも恵まれている。真尋のためを想って行動もしてくれるし、欲しいものはすぐにはむりでもなんとかして手に入れてくれるよ。それに、真尋が会いたいって言ったら会ってくれるだろうし、会いたくないって言えば距離を置いてくれる便利な存在になるよ」
伊織は省吾と付き合うことのメリットを上げる。まるで、過去にそういうことがあったかのようにスラスラと話し、それが真尋の癇に障る。
「だったら」
「けど、そんな都合のいい使い方は、あたしが、絶対に、許さないけどね」
真尋が言葉を言い終わる前に伊織は明らかに敵意の視線を向けてきた。
「どういう」
「兄さんとはなにもなかったんだよね? もう、なにもないんだよね?」
有無を言わさぬ圧力をかけられた。省吾はなにもいっていないだろうし、態度を変えたわけでもないだろうが、妹にはばれていた。
「……うん」
「そうなんだ」
伊織はにっこり笑う。今までとまったく同じ、友だちに向けてくれた笑顔に違いないが、線を引かれた気がした。
「ごめんね、時間取らせちゃって。今日もランニングとかするんだよね?」
「……そのつもり」
「頑張ってね。じゃ、また、明日」
「うん。バイバイ」
伊織はいつもと同じ言葉をかけて帰っていく。ただ、真尋の感じ方はもういつもと同じではいられない。
「今日は帰ろう」
真尋は放課後の日課を初めてさぼった。
その日、いつもの経過を確認するメールさえも、省吾から送られてくることはなかった。
省吾はきちんと、真尋との約束を守る。
次の日も、省吾は真尋の前に姿を見せなかった。それだけのことでも、今まで抑止力にはなっていたのだろう。真尋に好意を持っていても、どこか躊躇していた男子生徒はここぞとばかりに真尋に近寄ろうとした。
男子生徒にとって、モデルをしている伊織よりも、押しの弱そうな真尋の方が付き合える可能性はあると思われていた。
休み時間に昼休み、放課後も列ができるほど、真尋は男子生徒の告白を順番に受けていた。
告白を受けている間も奇異の視線を受け続ける。これでは、見世物ではないか。
真尋は各人の告白を断る度に大きく溜め息を吐いた。
放課後も声をかけられては、運動する時間も減ってしまう。ストレスのせいか、暴食をすることもあっては、順調に下がっていた体重も止まってしまう。これは悪い傾向だとわかっているが、気持ちは乗らない。
さらに翌日、予定には生徒会の手伝いが入っていた。さすがに約束を反古にすることはできず、居心地がよかったはずの場所に憂鬱な気持ちで向かわなければならなかった。
「あ、真尋ちゃん。いらっしゃい」
生徒会室に入った瞬間、省吾が挨拶をしてくれた。いきなりの出会いに、真尋は言葉を詰まらせる。
「どうしたの?」
省吾は今までと変わりない、温かい笑顔で自分を迎えてくれる。顔を合わせても露骨に無視されるのかもしれないと考えた真尋にとっては普通に挨拶をしてくれた省吾に少しだけほっとする。
「……こんにちは。今日はお願いします」
「うん、よろしく」
自分から放っておいてと言ったせいか、省吾は不必要な会話はしてこない。けれど、それを寂しいとは思わなくなっていた。
真尋は生徒会室に入ると、言われるままに仕事を手伝う。今までは省吾かなにかするたびにちょっかいを、優しい言葉をかけてくれたが、今日はなにもない。
ピリピリしているわけでもなく、弛緩しているわけでもない。業務的な会話とたまにある他愛ない話で過ぎていく時間が、その空気が、今日の真尋の気分を悪くさせる。
「真尋ちゃん、顔色悪いけど大丈夫?」
省吾は優しい先輩という立ち位置で真尋の心配をしてきた。それは真尋だからではなく、誰が相手だろうとそういう対応はしてくれるのだろう。
「……大丈夫です」
だからなのか、今までの自分が特別でなかったことを否が応でも感じてしまう。
「調子が悪いなら、休んだ方がいい。むりをするのはよくないからね」
「そうか、なら俺も休もうかな」
省吾の気遣いに木村が口を挟んでくるが、間髪入れずに雫が「あら、木村くんはだめよ」と、窘めてくる。
「だって、木村くんは休憩なしで、生徒会の下僕として働くという契約があるんだから」
「そんな契約してねーよ」
「なんていうのは、冗談だけど、仕事終わってないでしょ?」
雫は作業を続けながら、「彼女は手伝い、木村くんは正規役員。この違いはわかるわよね?」と、確認する。
「わかってるよ。言ってみただけだよ」
木村も一度伸びをしてから、気合いを入れ直す。
「それに、白河さんは美少女、木村くんは、うん、そんなあなたでも好きって言ってくれる女の子はきっといるわよ。心配しないで」
「なんの話だよ。別に俺は自分のことくらいわかってるからいいんだよ」
「そう、やっとわかってくれたのね。でも、木村くん。十代でもう結婚できないなんて悲観するのはよくないわ」
「そこまで言うほどなのか?」
「私からはいえないわ。ねぇ、陽菜」
「……ガンバレ」
陽菜は作業の手をきちんと止めて、木村を励ます。雫にからかわれるのは慣れているが、あまり気遣いをしない陽菜にあからさまな励ましをさせてしまったことが、さらに木村の心を傷つける。
「なぁ、省吾。そんなことないよな」
木村は省吾に助け舟を求める。こういう時は同じ男子役員がいてくれてよかったと感謝する。
「えぇ、先輩は黙っていれば残念さんと同じでわりと騙される子も多いと思いますよ」
省吾の言い方に木村も思わず「お、おい」と、動揺してしまう。
「あれれ~、坂下くんは誰のことをいっているのかなぁ?」
案の定、雫から優しい声音が返ってきた。
「もちろん、朝倉雫生徒会長のことですよ」
ここまで直接的な揶揄するのはらしくない。木村や陽菜はもちろんのこと真尋も首を傾げてしまう。
「ちょっと機嫌が悪いからって、こっちを捌け口にしないでもらえるかしら」
「いつも通りですよ」
「そんな安っぽい言葉で私が心を乱すと思っているの? そんなことする暇があったら手を動かしてくれない? 最近、仕事の能率も下がっているみたいだし」
「してますよ。ほら、あと少しでノルマも終わりますし」
「ほらね、いつもならもう終わってるはずでしょ。なのに、まだかかってるなんて坂下くんらしくないわ」
続けて雫は溜め息を吐いて、「坂下くん、あなたには今から校内設備の点検をしてきてもらえる? もちろん今日中に」と命じた。
「それは業者に頼むって言ってませんでしたか?」
「気が変わったの。ほら、チェックリストを渡すわ。女子トイレも女子更衣室も隅々まで点検してきなさい」
「あ、その箇所なら俺がやってやろうか?」
冗談半分で木村が手を挙げるが、今の雫には通じない。
「木村くんは死ねばいい。ううん、明日から木村くんを無視するという校則を作って、校内での存在を消してあげるわ。大丈夫、この学園の生徒であるなら私の言うことは聞かないといけないって、本能で知ってるはずだし」
「そういう言い方するから、影でも表でもいろいろと言われるんだよ」
木村はことさら明るい口調で場を和ませようとし、「私、残念じゃないもん。ちょっとだけ言動がスプラッタームービーテイストなだけだもん」と、雫は可愛らしく唇を尖がらせてソッポを向いた。
「そうだよな、本当に残念なのは全然高校生に見えない、幼すぎて大人しそうな陽菜が銭ゲバの守銭奴でギャンブル好きってことだよな」
木村の冗談に、話題を向けられた陽菜の手が止まった。
「……………」
「ん、どうした?」
なにかを呟いている陽菜に木村は声をかける。
「木村先輩の家の預金残高すべてをハッキングして全額有馬記念で三番人気の馬に掛けてあげる。大丈夫、当たればいいだけ。クリスマスまでドキドキしっぱなし」
いつも無表情の陽菜には珍しい、冷淡な口上が怒っていることを表していた。
「すみません、謝ります。謝りますから、それは絶対に止めて下さい」
木村は土下座して、陽菜に詫びる。彼女が本気になれば一個人の通帳引き落としなど、自宅の玄関の鍵を開けるよりも簡単なこと。
「そんなわけだから、白河さん。体調が優れないなら、今日は帰ってくれて構わないわよ」
雫は横で繰り広げられる土下座男と慰謝料として現金を要求する高二女子のやりとりを無視しながら、「はい。坂下くんも点検に向かって、そして白河さんを送ってあげて」と、二人を室外へ押し出そうとする。
頭でも冷やせ。二人が邪魔だと雫が言いたかったのはわかった。
「そうですね。では、行ってきます」
省吾は雫の言葉を受け取り、立ち上がる。真尋も歓迎されていない雰囲気を感じ、言葉に甘える。
「真尋ちゃん、一人でも帰れる?」
生徒会室を出ると、省吾はチェックリストに目を通しながら聞いてきた。
「大丈夫です」
「そう。なら、これは今、渡しとかないといけないね」
省吾はそう言って、一つの冊子を手渡してくる。
「これは?」
「今日からの新しいトレーニングメニューだ。今からが大事な時期になるからね。俺が手伝うことはできないけど、目標までもう少しだから頑張ろう」
彼は自分を心配しつつ、約束を律儀に守ろうとしている。
けれど、今、自分に向けてくれている笑顔に勘違いしてはいけない。
その笑顔は自分に向けたものでは決してない。誰にでも向けることのできる人たらしの笑顔だ。
「なら、体調には気を付けてね。顔色が悪いのは事実だから」
省吾はそう言って、自分の仕事へ向かおうとする。
「あ、あの」
真尋は立ち去ろうとする省吾に声をかけてしまった。
「なに?」
けれど、二の句は紡げない。真尋が声をかけなければ、省吾はそのまま歩いて行っただろう。
もう、先輩は自分のことなんて好きじゃないのかもしれない。いや、初めから白河真尋なんて子のことは好きではなかったのだろう。
自分のことが好きなら、今の態度はないはずだ。
「いえ、……ありがとうございます」
もうドキリともしなくなったくせに、落胆している自分がいた。
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