第一章 白河真尋を痩せさせたい! 6
「こんにちは、マイハニー」
一年二組のホームルームが終わると同時に、今日も省吾はクラスの中に入ってきた。
迷惑ですと、正直に伝えれば、この人は離れてくれるのだろうか。いや、無理だろう。それでも、自分に構ってくるのなら、この人はストーカーですなんて訴えれば法律が自分を味方してくれるのではないだろうか。けれど、そんなことで省吾が捕まってしまえば、妹の伊織に迷惑がかかるのではないか。せっかくできた新しい友だちを悲しませるのは嫌だなと、真尋は一人考える。
もしかして、自分が罪悪感を持つことまで見越して、伊織を差し向けてきたのではないか。伊織は自分にも話しかけてくれる優しい人だから兄の頼みを断りきれなかったのかもしれないなんて考えが飛躍するが、その疑念はすぐに消えることになった。
「兄さん? 今日は用事があるんじゃないですか?」
真尋の席に到達する前に、省吾の前には、伊織が立ちふさがった。
「いや、今日はなにもないはずだ。だから、俺は真尋ちゃんに会いに来たし、仮になにかあったとしても、真尋ちゃんに会うよりも大事なもことはないはずだから、それは後回しにするだろう」
さすがに妹に話しかけられては、省吾も歩みを止めて会話に応じた。伊織は省吾の言葉を確認してから、「そんなことないですよね、雫先輩?」と、省吾の背後に声をかける。
「そうなのよぉ、誰かさん。いえ、誰かというより、生徒会副会長坂下省吾のせいで、今日はこれからやらなくちゃいけないことが、いっぱいあるんだからぁ」
思わず背筋も凍りそうな冷たい声音が省吾にかけられる。
省吾が振り返ると、にこにこと引きつった笑みを浮かべている朝倉雫の姿があった。
「坂下くん、仕事もしないでこんなところでなにをしているのかなぁ?」
雫は小首を傾げ、詰問するように聞いてくる。
「俺の仕事はすでに終わらせているはずですよ」
「そうねぇ。けどね、昨日の入学式の件で、私、けっこう色々言われたのよ。ついでに報告しないといけないことも増やされたし。誰かさんのせいでねぇ」
雫が入り口で仁王立ちしているせいで、一年二組の生徒は帰るに帰れない。
「だからぁ、坂下くんにもいろいろと手伝ってもらわなくちゃいけないの~」
「そうですか。けれど、それは会長が任された仕事じゃないですか。いつも、生徒会室で紫と遊んでいるんですから、最上級生になったこの機会に心を入れ替えて、真面目に仕事したらどうですか?」
「私はちゃんと仕事してるわよ」
思わず出てしまった、雫の強い口調に新入生はビクビクするしかないが、省吾が動じることはない。
「それに、今日中に終わらせないといけないわけでもないでしょう。今の俺は真尋ちゃんに人生すべての時間を捧げてもいいと思っています。せめて、会長が俺の理想の女性の欠片でも持っていれば、手伝うこともやぶさかではないかもしれませんが、残念ながら、会長はそうじゃない。俺の理想にかすりもしない会長は早く帰ってください」
「そう? なら」
雫は省吾の言葉を聞き終わると、顔を右に傾けて、両手の手のひらを合わせて右頬にあて、うっとりした表情をしながら、「坂下くんがぁ、手伝ってくれたら~、私が特別にいいことをして、あ、げ、る!」と囁きかける。
別に、省吾の特別になりたいとは欠片も思わないが、人手が足りないのは事実であり、腐っても有能な省吾の手は借りたい。なにより、雫は真尋を一瞥してから、彼女はたしかに可愛いと思うが、自分だって容姿ならば負けていないと自信を持っていた。
その証拠に、室内にいる男子生徒は思わず顔を背ける。新入生にとって、雫は官能的過ぎた。
「なんですか、そのポーズ。むしろ、会長のいいことから逃げるために仕事をしようかなと思いますよ。俺に気にいられようと思ったら、俺好みの美少女に生まれ変わってから出直してきて下さい」
しかし、省吾には通用しない。鼻で笑い、すぐに視線を真尋へと移す。残された雫は間抜けなポーズのまま、しばし固まり、クスッという笑い声が聞こえると、一瞬、般若のような険しい表情で声の主を睨みつける。
「ヒッ!」
か細い悲鳴と共に、雫の表情は柔和なものに変化し、ニッコニコと、改めて自分を無視する省吾を見つめた。
「………」
表情は笑顔でも、纏う空気は怒りに満ちている。震える新入生をよそに、省吾だけが、真尋に夢中になって話しかけているからか、危険を察知していなかった。
「え~い!」
雫は可愛らしい声でカバンからさっと取り出したピコピコハンマーで思いっきり省吾の頭を叩く。ピコンッ、とカワイイ音がしたが、その振りは誰も目視できないほどに速かった。
「………」
省吾は声を発することもなく、前のめりに倒れた。案の定、気絶している。
雫が指をパチンと鳴らすと、どこからか現れたガタイのいい男子生徒が省吾を運び出していく。雫は静かになった室内の中、「じゃぁ、みんなぁ! 今日は寄り道せずに早く帰るんだぞぉ。約束を守らない悪い子には、おねいさんがおしおきしちゃうからね~!」と、宣言し、教室から足早に去っていく。
室内は何とも言えない空気に包まれ、一人、また一人と、無言のまま教室から出て行く羽目になっていた。
最後まで目をぱちくりしている真尋に、「真尋、ご飯食べに行かない?」と、一連の流れを無視するように、伊織が話しかけてきた。
「えっ? でも、お兄さんは大丈夫なんですか? それに、会長の言いつけが」
けれど、真尋は素直に返事ができなかった。根が真面目なのか、単純に雫を恐れたのか。
「あははっ、いいって、いいって。兄さんは、あれくらいで心配してたらきりないし。それから、雫先輩の言ってること、きちんと守ってたら、身体が持たないし、命にかかわるよ」
真尋にとって、雫は中学時代からの見知った顔であった。だからこそ、会長としての雫のエピソードにはことかかない。
「でも、だいぶ丸くなったのかもね」
だからこそ、入学式からの雫の態度は不思議だった。今日だって、自分を笑った生徒がいるなら、その子に対し、制裁を加えていただろう。それも、自分ではなく、クラスメートに命じて。自分につかなければ、………。と、脅迫していただろう。なので、追究もしなければ、本心ではないにしろ、自分たちを心配する雫は、伊織にとって不気味であった。
「あれでですか!」
しかし、事情を知らない真尋にとっては、雫のにらみは忘れられない。あの怖い人が会長で、変態染みた人が副会長。真尋は早くも何度目かの後悔を始めた。
「そうそう。それに、あたしはもっとゆっくり真尋と話したいしね。ダメかな?」
「ダメではありません。えぇっと、行きましょう!」
真尋は強い口調で同意した。
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