第一章 白河真尋を痩せさせたい! 2


「……イテテッ」

 頭をさすりながら、省吾が目を覚ますと、そこに想い人の姿はなかった。

「あれ、真尋ちゃんは?」

「帰ったに決まってるじゃない、バカじゃないの?」

 省吾の呟きに、起きるのを律儀に待っていた少女が辛辣な言葉をかける。

「なんだ、お前もこのクラスだったのか」

 省吾は声をかけてきた相手を一瞥する。少女は相手の反応が面白くないのか、長い黒髪を不機嫌そうに揺らした。

「なんで、知らないわけ? 昨日、言ったよね。あたし、一年二組になったからって言ったよね?」

「あぁ。なんか、言ってたな」

「もう、なんで覚えてないかな。っていうか、朝もそうだけど、あの登場の仕方はなに?」

 少女は腕を組みながら、省吾を糾弾する。

「ただの愛の告白だが?」

「あんなことされちゃ、あたしが目立たないじゃん」

 省吾が教室に入ってくるまで、クラスメートの視線は自分に向いていた。けれど、あの瞬間、主役は自分から兄である省吾とクラスメートである白河真尋に移った。

「あ~ぁ、こんなのが兄だなんて不幸すぎるよ」

 自分がどれだけ活動的になろうとも、坂下伊織という名前より、坂下省吾の妹という形容の方が多くなる。そうなる理由は、すべて省吾の奇行にあるので、伊織は深く溜め息を吐いた。

「そうか? 成績は学年主席、運動部には所属してないが、体育の成績は五をもらっている。二年生にして、生徒会副会長を任され、見てくれも悪くない。積極性も社交性もあるのならば、むしろ誇ってくれていいんだぞ」

 けれど、省吾は妹の文句などまったく気にしていない。それどころか、客観的に自分を肯定し、伊織に考えを改めさせようとする。

「性格に難があるでしょ。兄さんは校内の評判聞いたことないの?」

「そうだな。教師からは優良問題児、同級生からはイベントクラッシャー、会長からは悪知恵の天才、ブラックリストは引き込むに限ると勧誘を受けたな」

「どう考えても、褒められたものじゃないでしょ」

 省吾の評判が間違っているとは言わない。長所は多いが、その長所を一瞬で霞ませるほどの性格と奇行があるのも確かである。

「そうか? ただたんに、生徒Aなんかよりは、悪名でも役名をもらった方がいいだろ」

「そういう、迷惑なのじゃなくてさ、たとえば、あたしみたいに雑誌でモデルをしている坂下さんとか、尊敬されるのを持とうよ」

「それなら俺も生徒会副会長とか、学年主席とかの尊敬されそうな肩書をつけることできるぞ」

「だったら、そこで止めなよ。そしたら、あたしも自慢の兄ですって誇れるし、兄さんもいらない噂、流されなくてすむでしょ」

「他人からどう思われようがどうでもいいさ」

 省吾は伊織の杞憂を一笑するが、「兄さんが誤解されたままなのは嫌なの」と、伊織はそれを良しとしなかった。

「別に、お前が気にすることじゃない」

「気にするよ。気にするに決まってんじゃん」

「まぁ、そんなことより、俺の運命の人はなんで帰ったんだ?」

 自分が大事なことを言っているのに、兄はその発言をスルーした。もちろん、自分の話をないがしろにされるのは慣れたものであるが、気分がいいものではない。

「あんなこと言ったら、当然でしょ」と、ぶっきらぼうに言い放つ。

「俺は自分の気持ちを正直に言っただけだぞ」

 けれど、省吾には悪気なんてものはまったくなく、帰られる、ましてや、気絶するほどの攻撃を受ける理由がわかっていない。

「あのね、女の子に体重とか、年齢のことを聞くのはタブーなの。わかる?」

「わからないな。俺はようやく、三日月夜宵の生まれ変わりに出会えたんだ。ただ、残念かな、少しだけ体型のシルエットが違うんだ。だから俺の希望を伝えただけだ。それに見てみろこの写真。彼女の雰囲気、容姿、真尋ちゃんがもう少し痩せてくれたら完ぺきじゃないか」

 省吾はそう言って、制服の内ポケットから生徒手帳を取り出し、中に挟んである一枚のブロマイドを取りだし、伊織に突き付ける。

「兄さん、ほんとにそのキャラ好きだよね」

 伊織は昔と変わりない兄の好みに思わず苦笑した。

「おう、俺の嫁ってやつだ」

 省吾はブロマイドに写る彼女を愛おしそうに見つめ、いつまでも変わらない胸の高鳴りに、今でも好きなんだと再確認する。

 写真の彼女は名を三日月夜宵と言い、省吾が小学校の頃に放送していたアニメの中のキャラクターである。

 省吾は幼き日に出会った彼女に心酔し、彼女と結婚するんだと周りも憚らず公言していた。彼女が番組の中で勉強はきちんとしないといけないと言えば勉強をがんばり、優しい人が好きだと言えば誰に対しても優しくなろうと努力した。

 初めの内は微笑ましく見ていた両親も、その熱が下がらないどころか、上がっていくことに次第に危機感を覚え始め、彼女はアニメのキャラクターであり、現実にはいない存在であることを説明するが、省吾は頑なに信じようとしなかった。

 どんな女の子と出会っても、彼女以上の存在に巡り合えなかったのだが、中学二年生になったある日、省吾の前に一人の女性が現れた。省吾は初めて現実の女性に恋をし、夜宵のことを大事に想いながらも彼女のために自分のできることを精一杯頑張った。

 けれど、その想いが報われることはなかった。

 省吾は自分の恋が報われることがなかったこと、別の人物に恋をしてしまい、夜宵を裏切ってしまったことを嘆き悲しみ、自室の中に引きこもってしまった。両親も数日ふさぎ込む省吾を見て、さすがに心配になり、カウンセリングの先生を呼ぼうとしたところで、省吾は憔悴しながらも、晴々とした表情でリビングに姿を現す。

 彼曰く、夢の中に夜宵が現れ、自分の生まれ変わりがいると言ってきたらしい。

 省吾はその言葉を信じ、生まれ変わった彼女に好かれるよう、自分磨きを再開させた。

 両親も理由がどうであれ、真っ当に頑張る息子に対し、特になにか言うこともしなかった。

 それでも、省吾は夜宵のグッズを見つけると、今でも飛びつき、彼の部屋は三日月夜宵というキャラクターに侵食されていた。

 そして、今日。

 彼女の予言通り、自分の理想となり得る女性に出会い、省吾の人生は決まった。

「ほんとにあの子でいいの?」

「あたりまえだろ。真尋ちゃんがいいんだ」

 省吾の強い決意に伊織も「そうなんだ」と小さく頷く。

「でも、ほどほどにしないと訴えられて捕まるよ」

 さすがに身内から犯罪者が出るのは困る。そして、のめり込み過ぎた時の失敗が怖い。

「大丈夫だ、俺の愛が誠実であるならば真尋ちゃんもきっと応えてくれるはずだ」

「……そういうことを言ってるんじゃないよ」

 伊織は心配した。

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