第五章 優しさより、キスが欲しい 2
「おはようございます」
翌朝、まだ六時を少し回った時間にも関わらず、省吾は生徒会室に現れた。
「あら、坂下くん。早いわね」
けれども、会長の雫はすでに仕事を始めていた。省吾はそんな些細なことには驚きもせず、一直線に雫の前に立つと一枚の封筒を差し出した。そこには辞表と書かれている。
「これは、なに?」
雫は当然、封筒を受け取らずに理由を問うた。
「俺は今から大問題を起こします。下手したら退学になるかもしれません。会長に迷惑を被らせる前に生徒会は辞めさせてもらいます」
「そんなことをしないっていう選択肢は?」
「ありません」
きっぱりと言った。
「私があなたを拘束して、未然にトラブルを防ごうとすることは考えなかったの?」
「させません」
省吾の迷いない表情に雫は笑う。
「それならいいわ」
雫はそう言って、受け取った辞表を破り捨てる。
省吾は黙ってそれを見ていた。
「昨日までのあなたなら、辞表を受け取るまでもなく辞めさせたかもね。私が好きなのは踊る阿呆で、見る阿呆は嫌いなのよね」
「会長の好みなんて知りませんよ」
「好きにやりなさいな。私は犯罪者の一人や二人も従えられない、器量の狭い女じゃないしね」
「そうですね。会長は性格が悪いだけですもんね」
「うるさいわね。で、こんなところにいる場合じゃないんじゃない? 会長命令よ、今すぐ行動に移しなさい」
「ありがとうございます」
省吾は一礼して雫に背を向けた。
「よう」
「……おはよう」
生徒会室を出ると、木村と陽菜が立っていた。
「おはようございます」
省吾の表情を見て、二人は笑う。
「ふっきれたようだな」
「待ってる。行ってらっしゃい」
二人とも一言だけ声をかけ、省吾の邪魔をしないようにする。省吾も二人の言葉に頷いて、歩みを進めた。
「行った?」
雫は頃合いを見てから、顔を出す。
「お前もいいとこあるんだな」
「あら、私は木村くんと違って、いいとこしかないわよ」
「そういうことにしといてやるよ」
「でも、坂下くんの自由にさせるのは私の趣味じゃないわ」
「邪魔してやるなよ」
「邪魔なんかしないわ。盛り上げてあげるのよ。それに、今年の新入生たちはまだまだ私の魅力を知らないみたいだから、これを機にきちんと教えてあげないとね」
「怖いこった」
「……それでこそ、会長」
二人もなんだか楽しそうに雫の話に相づちを打つ。
「ふふふっ、たのしみ~」
雫の号令で生徒会も動き出す。
空はこんなにも青々と澄んでいるのに、真尋の気持ちは沈むように重かった。
学校に行くのも嫌になりそうであるが、自分で選んだ高校だ。今の状況も自己責任と考えるならば、風邪でもないのに休むのはいけないことだと思った。けれど、嫌なものは嫌である。今日はなにもなければいいのにと願うが、真尋に平穏は許されない。
学校へ着くまでに二人、校門から校舎へ向かうまでに三人の告白を受け、下駄箱の中には両手で抱えねばならぬほどのラブレター。
「はぁ~」
一挙手一投足に対して好奇の視線を受け続ければ、溜め息くらい吐きたくなる。
「なに? モテすぎて悩んでるの?」
「美人さんは大変ね~」
なにも言わなくても、なにか言っても、息を吐いたそれさえも小言を言われる対象になってしまう。
どうすればこの状況から抜け出せるのかと考えていると、「そんな浮かない顔は君に似合わないぞ!」と、今の状況の原因とも言うべき男に声をかけられ、真尋は思わず舌打ちをしてしまう。
「おはよう、真尋ちゃん。会うのは昨日ぶりだけど、こうやって話すのはいつ以来だろうね?」
「………」
真尋はそのまま声を無視して歩き出す。
「あれれ、聞こえなかったかな? おはようございます、僕はここにいますよ~」
真尋の耳元で叫ぶように言葉を発すると、息が耳にかかったのか、真尋は「ヒャッ!」と、反応してしまう。
「ほらほら、坂下の省吾さんですよ。嬉しいでしょ?」
いつになくにこやかな顔で話しかけてくる省吾を真尋は睨んだ。
「ワタクシ、言いましたよね?」
「なにを?」
「ワタクシにもう近寄らないでほしいと、言いましたよね?」
「言ってたね」
「先輩もわかったと言いましたよね?」
「言ったね」
「約束を破るんですか?」
「そういうわけじゃない」
「なら、どういうわけですか?」
「俺は」
省吾は自分の本心を伝えようと、相手の目を見て、息を整えた瞬間、「おっはよ~!」と、間の抜けた声にタイミングをずらされた。
「……会長、なんのようで」
そこには邪魔をしないと言っていた雫がいたので、省吾は少しムッとしてしまう。
「はい、これつけて」
突然現れた雫は省吾の文句もお構いなしに、二人の頭に猫耳カチューシャを取り付ける。
「あら、可愛い。これがうちの学校の正装でも構わないわね。あと、坂下くん。携帯を見てくれない?」
「携帯?」
言われたとおりに確認すると、そこには一件の新着メールが受信されていた。そのメールは件名に『生徒会主催企画バイバインアップチャンス』と記載されている。
「会長、これは?」
「そういうことだから頑張ってね~」
雫は手をひらひらさせて嵐のように去っていく。
「あの、先輩。これなんですか?」
真尋にもメールが届いていたのか、その内容を省吾に見せた。
『二年生坂下省吾、一年生白河真尋の猫耳カチューシャを手に入れた生徒には金一封、部活動に所属している生徒であれば本年度の部費を二倍にします。二つとも手に入れた場合はさらに倍。なお、終了条件は夫婦地蔵に二人がそろってカチューシャを取り付けた時とします。生徒会長朝倉雫以下生徒会』
「あの、夫婦地蔵って?」
「校長室にある無駄にきらびやかな趣味の悪い地蔵だよ」
「なんで、ワタクシがこんなことに巻き込まれないといけないのですか?」
「まぁ、会長の思い付きだし」
雫のことだからなにもしないとは思わなかったが、まさか全校生徒を巻き込んでくるとは。
省吾が真尋をなだめているうちに、メールを受信した生徒たちが一斉に教室から出てくる。
「坂下はどこだ~!」
「部費は頂きじゃーい!」
「久しぶりだね、この手のイベント」
人の波ができていた。幸いなことに二人の周囲には新入生が多いせいか、事態を把握できず、すぐには動いてこない。
「こんなとこにいたらだめだ。とりあえず、ここから動こう」
「なんで、ワタクシもなんですか。ワタクシは先輩にこのカチューシャ渡しますので、勝手にしてください」
しかし、真尋は手を振りほどく。もう、こんな男に振り回されるのは嫌だった。
「ダメだ。今回だけは付き合ってもらう。そして、もう一度、俺に惚れさせてやるよ」
「ワ、ワタクシは、一度も先輩に恋したことなんて」
「いたぞ~!」
一人の生徒の大きな声が号令となり、チャイムの合図が号砲の代わりとされた。
「逃げろ~!」
「だから、なんでワタクシまで!」
真尋は不満を持ちながらも、必死の形相で迫ってくる生徒に恐怖を感じ、逃げざるを得なくなった。
「あいつら、どこいった?」
血眼になって、省吾たちを捜す上級生に駆り出された同じ部活の後輩は「先輩、べつにこんなことしないでもいいんじゃないですか?」と文句を垂れる。
「なにをいっている。部費が倍だぞ。それがあれば新しい機材を買うことも余裕だ」
「だからって、こんな面倒なこと」
「この学校はこんな面倒ごとばっかだぞ。だったら、楽しまなきゃ損だろ」
「あ~、あの綺麗な人。なんかにこやかで優しそうですけどね」
「お前、まぁいいや。けど、すぐにわかる。あの会長、怒るとめっちゃ怖いんだよ」
自分たちを探している生徒たちの声を聞きながら、二人は声を潜めていた。
「もう行ったかな?」
人の気配がなくなったのを感じてから、省吾は掃除ロッカーの中から顔を出す。
「真尋ちゃん、もう出てきていいよ」
「なんでワタクシまで隠れないといけないんですか」
無理やり押し込まれた真尋は不機嫌な声色で省吾を睨む。
「俺たち、運命共同体だろ?」
「違います」
「いやよ、いやよも」
「だから、違うと言っています!」
省吾の今日になって戻った馴れ馴れしい態度に抑え込んでいた真尋の感情が爆発する。
「なんなんですか、なんなんですか! もうワタクシに近寄らないでといったじゃないですか。先輩もわかったって言いましたよね? 言いましたよね?」
省吾は黙って、真尋の言葉が終わるのを待つ。
「ワタクシのこと好きなんですよね、なんでもいうこと聞くんですよね。だったら、もうワタクシに構わないでください」
「それは嫌だ」
「なんでですか、なんでなんですか。先輩の言ってること矛盾しまくりですよね」
「それは謝る。けど、俺も自分の気持ちに気づいたんだ」
「謝られても困ります。それに、ワタクシも先輩と一緒で自分の気持ちに気づきました。先輩に離れて下さいと言って、先輩はなんて言いました? ワタクシのことが好きなのに、ワタクシと離れても大丈夫なんて、そんなの好きじゃないです。ワタクシ、知ってます。先輩がどんなこと言おうが、なにをしようが、ワタクシはどうせ代わりでしかないんです。だから、ワタクシも先輩のことなんてなんとも思わなくなりました」
思いの丈が堰を切ったように溢れ出る。省吾はその言葉を受け止めた。なにを言われても仕方ない。けれど、言葉にしてくれるのは省吾にとってありがたかった。そして、ようやく、自分の判断が間違っていたんだと気づかされる。
だったら、やることは一つだ。この子を手放したくはない。
きちんと言葉で、心に訴える。
「俺は真尋ちゃんが好きだ。今までもこの気持ちがぶれたことはないし、これからは真尋ちゃんを不安にさせたりなんかしない」
「そんなことが可能だとでも?」
「俺だからできる」
「無理です」
真尋はきっぱりと言い切る。
「ワタクシ、今、現在進行中で不幸なんです。学校ではみんなから陰口を囁かれ、気になる男性からは異性としてでなく、誰かの代わりとしか見られず、体重も減りません。これもそれも全部、先輩のせい。先輩のせいでこんなにつらい毎日になっているのに、先輩がいれば平気になるわけないじゃないですか」
真尋の瞳の奥に影が宿る。省吾はその表情に見覚えがあった。
未来を憂い、今を諦める。悪い理由や言い訳しかしようとしない。
伊織にも見せたことのない、自分だけしか知らないはずの、いつかの鏡の前に立つ自分とそっくりだった。
「真尋ちゃん、行こう!」
「だから、ワタクシは」
「いいから」
省吾は強引に真尋の手を取って、走り出す。
「待ちなさい」
省吾の暴走とも言うべき行動を止めたのは伊織だった。
「嫌がる女の子を連れてくのはいくら兄さんでも看過できません」
伊織は二人の間に割って入り、「まずは気持ちを見せたらどうですか?」と、問いかける。
いきなり気持ちを伝えたところで真尋が戸惑うのは目に見えていた。だったら、自分が橋渡しになればいい。
「……わかった。それまでは、頼む」
省吾も自分のするべきことを見つけたのか、伊織に真尋を任して、急いで走り出す。
「わかってるよ。ほら、真尋、行こう」
「いえ、ですから、ワタクシは」
「大丈夫。ほら、兄さんの顔を見てみて」
伊織に言われ、真尋は横目で省吾の真剣な眼差しを見た。
「真尋ちゃん! 待っていてくれ」
あまりにも気を張っている表情に真尋も頷くことしかできない。
真尋たちと別れた後、省吾が急いで向かった先は放送室だった。
行事の連絡や全校集会などで触れる機会が多いのか、慣れた手つきで機材を作動させていく。
『坂下省吾です』
件の人物の声に、全校生徒はスピーカーに耳を傾ける。全校生徒を巻き込むのなら、こっちだってのっかってやる。
『え~、みなさんにとても重要な連絡が坂下省吾からあります』
一つ深呼吸が入る。それは緊張からではなく、決意の表れだった。
『白河真尋。俺は君が好きだ。今から迎えに行く。絶対に俺は真尋ちゃんをあきらめない。邪魔する奴は邪魔しにこい!』
叫ぶような、挑発するような物言いで、省吾の宣言は終わった。あとはきちんと迎えに行くだけ。
けれど、はい、そうですか。と聞き分けのいい生徒はいなかった。放送室の前にはすでに人だかり。無理やり扉を開けようとするが、中から鍵をかけているので、手間取っている。
「さて、行くか」
省吾は放送室の窓を開けると、入り口に待ち構える生徒たちをあざ笑うかのように、飛び降りた。
「兄さんもこんなに回りくどいことしなければいいのにね」
忙しない校内と対照的に静かな通路を歩きながら伊織は呟いた。省吾と別れ、真尋のカチューシャを自分一人で守り切れるかは心配ではあったが、物陰から陽菜の手招きに誘われ、秘密通路のような場所へ案内された。たしかに、ここなら誰にも邪魔はされないだろうが、誰がなんのために、いつ造ったのかは深く聞かないことにした。
「でも、こんなことで相手に気持ちが伝わったら苦労ないよね」
「………」
相手の反応はないが、独り言のように言葉は続ける。
「でも、真尋。今の真尋の気持ちはもう一度考えてあげて」
「………」
真尋はずっと黙ったまま。自分の気持ちを整理しているのかもしれない。
その気持ちが恋じゃないなら、きっとこの世界に恋なんてないよ。なんて、言葉は胸の中にしまう。伊織だって、なにがんでも二人の恋路を応援しようというわけじゃない。けれど、見守るだけということはできなかった。
「……わかっています」
真尋は言い聞かすように、言葉を発した。
「あら、今年の一年生は積極性に欠けるわね」
雫は生徒の反応を感じるために、各教室を見回っていたが、とあるクラスで足を止める。
三年生から順に確認していくが、ほとんどの生徒が出払っていた。残っている生徒がいても、雫が顔を出すと、思い出したように席を立つ。しかし、一年生のクラスでは半分ほどの生徒がまだ教室に残っており、雫の姿を確認しても軽く頭を下げるだけで席を立つようなことはしない。
学校生活を楽しむためには、企画も大事だが、それに楽しみながら参加するという気持ちが一番重要だと考える雫にとって、目の前の光景はあまりいいものではない。
「はい、は~い。みんな~、ちゅうも~く」
雫はこめかみを引くつかせながら、ありったけの笑みを目元、口元に集めて、教壇に立った。
「いま、せいとかいしゅさいのいべんとをおこなっているんだけど、みんなもさんかしませんか~?」
雫は省吾の顔写真も公開し、わかりやすく、丁寧に生徒を呼びかけるが反応はいまひとつ。中にはスマートフォンから目線を上げない生徒もいた。
「あれ~、みんな~、はやくきょうしつからでないとおいてかれちゃうよ~」
「なんで、そんなことしないといけないんですか」
一人の生徒が当然の疑問を口にする。これは強制イベントではない。だったら、ここにいるのも自由だろう。残りの生徒もその発言に頷いた。
「参加したら楽しいわよ」
「そんな面倒なことしたくありません」
久しぶりに現れた、自分の言うことを聞かない生徒に、雫はニヤリと悪い笑みを浮かべてしまう。
「わかったわ。なら、ゲームをしましょう」
雫は一つの提案をはじめ、「だから、俺たちはそんなことすらしたくない」なんて、文句を封殺する。
「あなたたちはこのイベントが終わるまで誰か一人でもずっとこの教室にいたら勝ち。全員がこの教室から出て行ったら、私の勝ち。報酬は、そうね。金一封なんてことは言わずに、この学校での望みを私がすべて叶えてあげるわ。授業に出ないでも単位が欲しいならあげるし、体育の授業を多くして欲しかったら、それも叶えるわ。で、私が勝ったら、そのままイベントに楽しく参加しなさい」
生徒たちは周囲と目配せをし、そのくらいならと雫の提案に乗ってしまった。本を読んでおけば大丈夫、多少うるさくされたところでせいぜい一時間くらい我慢すればいいなどと思ってしまった。
「では、今からゲーム開始ね。用意、スタート!」
雫はカチンコを鳴らす真似をしながら、ゲームを開始する。生徒たちはそのまま自分のことに没頭し始め、雫は一度教室から出て行った。
『早く、終わらないかな』
生徒たちはぼんやりとそんなことを考えながら、自分はなにを要望しようかなんてことを考え始めている。
「こ~んにち~わ~!」
再び雫が現れた時には、右手に金属バット、左手に爆竹。服装も厚手の防護服に変わり、頭にはゴーグルをつけている。それだけでも今からなにが起こるのか、不安にさせるには十分だった。
「イッツショータイムだお~!」
雫はゴーグルを装着すると、おもむろに爆竹を投げ、金属バットで空いている机やイス、窓ガラスを全力で殴り始める。
「ちょっ、な、なにしてん」
「あぶなっ」
キャハハハハッと笑いながら、危険行為を始める雫に全員が席から立ち上がってしまった。そうなると後は簡単。爆竹を投げ続け、一人一人追いかけ回し、教室の外へと誘導すればいい。
ものの二分もかからずに全員が廊下に逃げ出した。
雫の圧勝だった。
「はい、私の勝ち~。はい、全員ダッシュで坂下省吾を捕まえてきなさい」
慌てて走り始める賭けに負けた生徒たち。雫の危なさに逆らってはいけないと肝に銘じ、だったら、楽しむしかないかと観念するほかないような気がした。
新たな敵が誕生した頃、省吾は廊下を全速力で走っていた。猫耳を着けた男子学生を追う集団。傍から見れば異様な光景もこの学校ではさして珍しくはない。
前方に立ち塞がる生徒を、ヒラリヒラリと交わしながら、省吾は真尋の元へと向かう。
真尋は隠し通路を通り、先に校長室に到着していた。
「これが夫婦地蔵? たしかに、気持ち悪いかも」
金七十五パーセントで鋳造された置物は、粗悪なものでも混ぜられたのか、ところどころ黒光りし、とてもじゃないが仲の良さそうな夫婦像には見えない。
「この裏のありそうな笑みが、打算的に一緒にいる夫婦を如実に表していると、校長は絶賛していたわ」
「そんなものにご利益とかあるんですか?」
「今、妻が浮気しているけど、校長という立場から離婚は体裁が悪いと、割り切って夫婦しているらしいよ」
「全然ご利益ないじゃないですか!」
伊織から説明を受け、触りそうに伸ばした手を思わず引っ込める。
「そうね。でも、この像に触ると意中の相手と結婚できるという噂はあるのよ」
伊織の言葉に、「そうなんですか?」と、真尋はもう一度地蔵を見入るが、下品な笑みがどうしても好きになれそうにない。
「あの人と是が非でも結ばれたいと願う女子には、結婚という事実だけでも手に入れられたらいいみたいよ。事実、この地蔵のおかげで彼とできちゃった結婚しましたみたいな報告は多いみたいだし」
「それは、反応に困りますっていうか、なんでそんな三十代独身みたいに焦っている人が多いんですか?」
「そりゃ、自分に自信がないなら藁にもすがって、チャンスは逃したくないって思うんじゃない?」
「……そういうものでしょうか?」
「そういうものなんじゃない」
そこまでして誰かと結ばれたいと思うのだろうか。
真尋は自分の気持ちを確かめようと、地蔵を見ながらもう一度、一人の異性を頭に浮かべたところで、校長室の扉が勢いよく開いた。
「白河真尋~!」
現れたのは坂下省吾。
校長室の前で防波堤になっていた生徒、向かう途中に立ちはだかった生徒を退けてここまでやってきた。
相手が誰であろうと真尋を手に入れる。その気持ちは後ろの死屍累々の山を見れば感じ取れる。まるで、自分がプリンセスになったかのような錯覚に陥ってしまう。
ドキドキ、ドキドキ。
真尋はその場に佇んでいるだけなにの、心臓の鼓動は早くなる。視線の先には一人の男の子。
あれだけ気持ちが冷めたにも関わらず、改めて省吾がかっこいいと思ってしまった。そうなると、恋する少女の思考は暴走してしまう。
省吾は雫に率いられた生徒の群れをヒラリヒラリと交わし、真尋の名前を叫んでは、合わせて気持ちを伝えてくるが、真尋の耳にはもうなにも聞こえない。
ここまで自分を好きになってくれる人がいるんだ。それはとても嬉しいことだし、これから、こんなにも自分を好きになってもらえることなんてないかもしれない。
でも、省吾は自分の容姿だけしか興味がないのかもしれない。自分のことが好きといいながらも、あのアニメキャラと比較されるのかもしれない。
でも。
それでもいい。いや、それでいいわけはないけれど、そんな感情はあとで処理すればいい。
チャンスを逃してはいけない。
視界の先の省吾だけをかっこいいと思ってしまった。
さすがにここまでくれば、もう自分の気持ちに迷いはない。幻滅しても、ずっと頭の片隅に省吾がいたのはなぜか。今も彼の姿しか、目に入らないのはなぜか。
「もう、なんか、どーでも、いい……かも」
真尋のぽーっと顔を赤らめ、両手を恥ずかしそうに頬に当てる仕種を見ると、横にいた伊織はやれやれという表情を浮かべた。
「俺は真尋ちゃんが大好きだ。それ以外の言葉は出てこない」
省吾は真尋の正面に立ち、片膝をついて彼女の顔を覗き見る。
「………」
省吾の告白に、真尋は黙り込んでしまう。
「このくらいじゃ、俺の気持ちは伝わらないかな?」
省吾も今回に懸けていた。これで真尋から返事がもらえなければ諦める。だからなのか、黙る真尋を見ていると不安になってしまう自分がいた。
「やっぱり、俺じゃダメかな」
省吾の呟きに、真尋はふるふると首を振った。
なにも言えないのは自分でもどうしていいかわからないから。
あんなにも省吾をないがしろにしてしまったのに、今さら自分の方が省吾を好きになりすぎたなんてことを表現しようと思ったら、どうしていいかわからない。
だからなのか。
「先輩。ワタクシも先輩のことが好きです」
真尋は目を瞑って、勢いよく唇を重ねた。
好きという言葉以上の意思表示。真尋は躊躇なしに、省吾の元へと飛び込んだ。
その瞬間、たしかに時は止まった。
省吾は真尋のこと以外、なにもかもが意識の外に追い払われ、二人を見ていた衆人もいきなりのことに言葉をなくす。
時間にして数秒の出来事。それでも、その場全員の感情を狂わすには十分だった。
「これなら、さすがにワタクシが先輩のことを好きか、わかってくれますよね?」
真尋はゆっくりと唇を離すと、蠱惑的な笑みを浮かべて「誰にだって、こんなことするわけじゃないですからね」と、もう一度、省吾の唇を奪う。
省吾はただされるままに幸せを感じていたが、そんな夢見心地な時間も長くは続かない。
「兄さん?」
伊織は二人の間に割って入り、強引にゼロ距離から離す。そして、口元を引きつかせ、にっこりと笑いながら「それはちょっとやりすぎじゃないかな?」と、聞いてくる。
「坂下くん? いくらなんでも見せつけすぎじゃない?」
省吾がなにかを言う前に今度は反対側から雫が声をかけてくる。振り向かなくてもわかる。彼女もまた、今の行動に憤っている内の一人だろう。
「ねぇ、兄さん。あたしね、兄さんと真尋のことは応援しようと思うよ。だけどね、いきなり、そんなことするとかはないんじゃないかな?」
笑顔の圧力が怖い。彼女がこうなってしまってはなにをいっても効果はないし、後ろにいる雫は物理的に自分へ危害を加えようとするだろう。合わせて、美少女とキスをした省吾への敵意や嫉妬は生半可なものではない。
なにが起こったのか把握できたのか、背中からは阿鼻叫喚の騒ぎが聞こえる。今、この場に留まってもいいことはなにもない。間違いなく今から暴動が起きるはずだ。
「真尋ちゃん、逃げるぞ!」
「は、はいっ」
省吾は真尋の手を取り、イベントが終了したにも関わらず、今にも爆発しそうな校長室から逃げ出していった。
「あ、兄さん、待ちなさい! まだ話は終わってないからね」
「なんでもいいから、坂下省吾を捕まえなさい! カチューシャがなくても金一封ぐらいくれてあげるわ」
騒がしい喧噪も、当事者がいなくなれば一気に静寂へと変わる。誰もいなくなった校長室で、カチューシャをつけた地蔵がにっこりと笑った気がした。
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