第五章 優しさより、キスが欲しい

 雫から白河真尋はもう生徒会の手伝いには来ないと言われ、残念ではあったが、仕方ないとも思っていた。

 省吾は自分の仕事を早めに終わらし、家に帰ろうと校門の前に差し掛かると、そこには伊織が立っていた。

「あ、兄さん」

 伊織はか細く声を出した。気丈な妹にしてはあまり見せない表情だと思う。

「どうした?」

「あたし、やらかしちゃった」

 へらへらと笑いながら伊織は頭をかく。

「……そうか」

 省吾は、その表情を見ただけで伊織の気持ちを察し、優しく頭を撫でた。

「………」

「………」

 二人の間に沈黙が流れ、省吾は伊織に言葉をかけることもなく、歩き始めた。

 伊織も黙ってついていく。

 帰り道、会話を交わすことはなかったが、省吾はコンビニに寄ると、伊織の好きなアイスを買って、手渡した。伊織も小さく「……ありがとう」と呟いて、口をつける。

 なにも言わなくても自分のことを大事にしてくれる。妹だから、小さい頃からずっと一緒にいたからだとしても、省吾の優しさは伊織にとって、とても嬉しいものだった。

 だけど……。

 こんなにも自分のことをわかっていてくれているのに、こんなにもあたしの気持ちを汲んで行動してくれているのに。

 考えるのは、出会って間もない少女のこと。

「あの、兄さん?」

 伊織は重い口を開いた。省吾の幸せを願うのであれば、家に帰るまでに伝えなければいけないことがあった。

「なんだ?」

 省吾は立ち止まり、伊織の方を向いた。きちんと伊織の眼を見ている。きちんと伊織の言葉を聞き逃さないようにしてくれる。きっと、まだあたしの気持ちが、言葉がまとまってなかったら、いつまでも待ってくれる。今、言えなかったとしても、あたしが言えるまで待ってくれる。

「………」

 あ、そうか。

 伊織はようやく腑に落ちた。

 優しいと思っていた省吾の行動はただの受け身。伊織がアクションを起こすことで、最高のリアクションをとってくれていただけ。いや、そもそも伊織が過大評価していただけかもしれない。

 今になって、真尋の気持ちがわかった。

 女の子として、省吾の臆病さはダメだと思った。

「兄さん、真尋のことはもういいの?」

 だったら確認するしかない。真尋が省吾のことをどうでもいいと思っていたり、省吾が彼女のことを諦めたのならこの問題に触れることはなくなる。

 けれど、そうじゃないのなら、伊織は自分が口を挟むのは筋違いかもしれないが、お節介を焼こうと思う。

「もういいってことはないさ」

 省吾はきちんと答えてくれた。当然、省吾も真尋への想いが消えたわけではない。

「なら、なんで距離を置くの?」

「真尋ちゃんが離れて欲しいと言ったからさ」

 相手が絶対に秘密だと言うのであれば、口にしないが、今回のことはなにも言われていない。なので、聞かれたから答えた。それだけだ。

 けれども、伊織はその淡々さに苛立ちを覚え始める。

「兄さんはそれで平気なの?」

「いいわけない。俺は許されるならずっと真尋ちゃんの近くにいたいと思うよ」

「だったら」

「けど、彼女がそういうなら仕方がないだろう」

「……なら、真尋が自分のことを諦めてって言うなら、うんって言うの?」

「そうだな、彼女がそう言うのなら仕方がない。また、あの人の生まれ変わりを捜すことにするよ」

「なら、あいつみたいに、兄さんのことが好きでもないのに付き合ってあげるなんて言われても、兄さんは喜んではいって言うの」

「もちろんだ」

 伊織は二人がどんなやりとりをして今の状況になったのかは知らない。真尋も省吾を遠ざける発言をしたのだろう。けれど、真尋は省吾からの言葉も待っていたはずだ。

 言葉だけが真尋の本心じゃない。

 真尋の表情はどうだったのか、真尋の心はどうなのか。

 省吾はきちんと真尋を見ていたのかどうか。

「なんで、そんなに言葉だけを信じるのよ」

 それなのに、省吾は言葉だけでしか、相手を判断しない。

「それは、お前も知っているだろ」

 省吾は伊織の想いをくみ取った上で考えが変わり得ないことを伝える。

 昔のことだ。アニメの中でヒロインである三日月夜宵が『口にしないとわからない』『私はあなたの言葉を信じるよ』と、作中で泣きながら言ったことから、省吾は今も言葉を絶対視している。そのセリフは一年にもわたる作品の中で一回しか発せられていないのだが、省吾の座右の銘とするには十分なインパクトだった。

「知ってるよ。だけどさ」

 甘い言葉、言葉の罠、嘘の言葉。言葉を信じて不幸になることなんて事例は調べるまでもなく、数多い。三日月夜宵だって、相手の言葉を信じて傷つき、裏切られ、大けがをしてしまった回もあった。

「それでも、俺は真尋ちゃんの言葉だけは信じたい」

 大事に想う人だからこそ、言葉で語り合いたい。

 気持ちは痛いほどわかる。伊織もできるならば恋人とはなんでも話せる間柄でいたいと思うし、好きだと言う気持ちを言葉にできない男とは一緒にいたくない。

 けれど、真尋に憤っていた伊織も彼女の気持ちを最後の最後に知ってしまった。自分の心を殺し、乾いた作り笑顔を浮かべていたが、想いは溢れていた。誰にもばれたくないと思っても、坂下省吾を想う者同士であればわかってしまうレベルで溢れてしまっていた。

 伊織でも気づいてしまう感情に、想いに気づかない坂下省吾ではないはずだと伊織は思う。

「もう一度、真尋と正面を向いて話してみたら?」

 伊織は兄のために提案する。もうあの時のような失敗は繰り返さない。この二人なら大丈夫だと。

 そう思った。

「でも、全部話してくれるだろうか?」

 カチンときた。

 今になっても相手の言葉だけを信用しようとする受け身な男に未来なんてない。

「兄さんはどうなの? 真尋のこと好きなの?」

 伊織の言葉じりも上ずっていた。

「好きだよ」

「だったら、その気持ちをちゃんと伝えればいいじゃん」

「伝えてるさ」

「伝えてない。兄さんは最後まで貫いてない」

 相手が望む時に自分の気持ちを伝えられないのは恋人になりたいと願う男のすることじゃない。

「真尋はフリーなんだよ。世界中の男が兄さんのライバルなんだよ。そんな気持ちで勝てるわけないじゃん。それに、今の真尋は」

 孤立している。

 クラスで嫌われ、手伝っていた生徒会から離され、友だちから見限られ、好きな人を遠のけた。

 周囲に残ったのは自分のことを好きだとのたまう有象無象の集まりだけで、ずっと拒否していけば、それもすぐにいなくなるだろう。

「……兄さんだって知ってるんでしょ?」

 真尋のころが好きであるなら、今の状況を知らないはずはない。ほんとに知らないのであればバカであるし、見ていて助けないのはもっとバカだ。

「兄さんは彼女がピンチになっても助けないの?」

「………」

 無言が答えをはっきりと告げていた。兄さんは相手の助けてと言う声を待っていた。

「相手に押し付けんなよ!」

 伊織の声も荒ぶる。

 一時間前、クラスの女子が真尋だけでなく省吾も憶測で侮蔑しだしたことで、伊織はクラスメートを口汚く罵り、ケンカした。たまにきついことも言うけど、話しやすい綺麗な女子高生。伊織がモデルを始めてから、心がけてきた自分へのイメージを崩壊させてでも守りたかった兄の威厳は今、目の前にいる男からは感じられなかった。目の前の男は自分の知っている、誇れる兄とは別人の、薄っぺらな嫌味を言われても仕方がない人物に見えた。

「女の子が嫌な奴と一緒にいるわけないじゃん。なんで真尋が今も告白を断っていると思ってるのよ」

 真尋にとって、自分がどういう存在であるかを認識して欲しかった。

「兄さんは自分に自信がないんだ!」

 今の自分が選ばれなければ仕方がない。もっと努力して自分を磨こう。心がけは立派であるが、伊織には体の良い口実にしか聞こえない。

 昔、自分を立ち直らせてくれたような、あの、押しつけがましい坂下省吾に戻って欲しい。泣いている女の子をむりやり立ち直らせてくれたあの頃のむちゃくちゃさが帰ってきて欲しい。

「女の子一人も笑顔にできないのかよ! そんなん坂下省吾じゃないだろ!」

「………」

 省吾はなにを言われようと口を開かない。

「そんなん、兄さんじゃないよ。なんで、迷ってるのよ。迷ってたら、迷った時間だけ重要な機会を失っていくんだよ」

 喉の奥から絞り出すような声だった。

 伊織だって、こんなことは言いたくない。けれど、言わせているのは誰だ。悲しませているのは誰だ。

「………」

 省吾は黙って、一つ深呼吸をした。

『女の子を泣かすなんて、私は絶対に許さない』

 頭の中に聞いたことのある言葉が流れ始める。

 省吾は三日月夜宵が好きだ。この世に彼女が存在しないなら自分が三日月夜宵になろうともした。けれど、やっぱり違う。だったら、彼女の言葉を守ろう。彼女のような容姿にはなれなくても、崇高な精神だけでも省吾は近づこうとした。

 自分は真尋のことが好きで、真尋に喜んでもらいたくて距離を置いてと言われたから従った。けれど、その結果はどうだ。

 省吾だって、今の真尋がどういう状況かは知っている。それでもなにもしなかったのは真尋からこれ以上嫌われたくないという臆病さと、なにより伊織の言う通り自分への自信のなさが起因している。

 行動を起こさないと何も変わらない。欲しい結果があるなら、それ相応の行動を起こさないといけない。

 頭ではわかっているが、実行できなかった。いつから自分はこんなにもごちゃごちゃと悩むようになったのかと、省吾は笑う。

「わかった」

 省吾は伊織に向かって、なにをとは言わなかったが、決意した。

 たった一言。有言実行が服を着ている男の言葉に目頭に熱いものを溜めて、伊織はやっと笑った。

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