第三章 初めの一キロが中々痩せない

「では、はじめようか」

 省吾は優しく囁きかける。

「あの、でも、ワタクシ、どうしたらいいかわからなくて」

 真尋は困った表情を浮かべながら、視線を下に向けた。

「大丈夫、俺の言う通りにすればいいから」

「でも」

「真尋ちゃんの悪いようにはしないから」

「……わかりました」

 真尋は意を決して、省吾を正面に見据える。

「なら」

「兄さん、なんかやらしい」

 二人のやり取りをむすっとしながら見ていた伊織は思わず声を出さずにはいられなかった。

「そんなことはないだろ」

「そんなことあるよ。今のやり取りを文字に起こしたら、絶対に勘違いされるよ。今だって、周りから白い目で見られてたの気づかなかったわけ?」

「他人の視線など気にするな」

「いや、気にしなよ」

 人の視線に過敏な伊織にとっては、省吾の行動でさえ気にしてしまう。

「そんなに文句を言うな。それに、お前までくることはなかっただろう」

「真尋が来て欲しいっていうから、来たんです。それに、兄さんなんかと二人きりにさせたら、真尋が危険だもん」

 今日は真尋に助けを乞われたという大義名分の元、二人についてきている。まぁ、そんなことがなくても、黙って尾行しようとしていたことは秘密だ。

「それで、あの、今日はなにをするんですか?」

 兄妹の楽しげな会話に真尋がおずおずと割って入る。けれど、その瞳には絶対に痩せてやるという決意がにじみ出ていた。それにはきちんと理由がある。

 それは雫のイベント告知に由来する。

 昨日のお風呂上り、姿見鏡を前にして、去年に購入した水着を着てみようとした。けれど、真尋は鏡に映る自分の姿を確認することはなかった。理由は簡単だ。着た瞬間に違和感があった。それは自分にしかわからないほどの小さな違和感。破れるくらいまでだったり、とても無理しているとかならギャグにもできるが、無理なく着れるが、着心地が悪いというのは誰にも話せない。たしかに、受験勉強に必死だった冬のせいでつまむほどのお肉が付いたかもしれない。他の女の子に話したところで気のせいと言われるだけで終わるかもしれない。けれど、気づいてしまえば、違和感を覚えてしまえば、どこまでも気持ち悪い。

 どうせなら、去年の自分よりも綺麗になりたいと思うのは、真尋が特別でなく、すべての女の子の望みだろう。

 それを見計らってかは知らないが、『痩せなきゃ!』と、決意した瞬間に、省吾からメールが届いた。そのメールには『明日、十時に駅前集合。動きやすい格好で昼ご飯は持参して下さい』とだけ書かれていた。

「頑張らなきゃ」

 気合いを入れて、ここに来たのだが、あれだけのメールではなにをするのかはわからないし、目の前の男はダイエットを始める素振りすら見せてくれなかった。

「あぁ、ごめんごめん。けど、そんなことより真尋ちゃんに伝えたいことがある」

「は、はぁ。なんでしょうか」

 せっかくの決意を削ぐような物言いに、真尋は脱力してしまう。けれど、省吾はそんな真尋の気持ちはわからずに、ジャージ姿で大きなリュックを背負う真尋の格好をじっと見つめた。

「あ、あの、なんなんでしょうか?」

 省吾に見つめられ、真尋は少し恥ずかしくなる。

「そのジャージは自分で買ったものなのか?」

「は、はい」

 黒を基調に白いラインが入っている。背中にはワンポイントで猫のイラストが描かれていた。

「制服姿も魅力的だけど、今日の格好もいい。冴えないはずのジャージが真尋ちゃんの手にかかるとおしゃれアイテムに変わるね。正直、学校のジャージはデザイン性が皆無だから、今度の会議では変更を提案しよう。というより、制服も含めてすべてのものを真尋ちゃん基準で考えよう」

「それは止めてください!」

 昨日のこともあり、自分のせいで生徒を振りまわして欲しくはなかった。

「そうか、それは残念だ。それにしても、その服はいいね。真尋ちゃんが自分で選んだものはやはり合っている。今だって、思わず言葉をなくして魅入ってしまうほどだったんだ。君があと五キロ痩せていたのなら、俺は、いや、君の姿を見た男たちは、その眩しさに倒れていただろうね」

「……最後にそんな言葉を付け足して、ワタクシが素直に喜ぶとでもお思いで?」

 真尋は引きつった笑みで省吾に応対するが、肝心の相手には自分の表情の意味をまったく気づいてくれない。

「ちょっと、兄さん。真尋に好かれようと思うなら、もうちょっと言葉には気をつけようよ。そうじゃないと、嫌われちゃうよ」

 伊織の注意に真尋はほっとした。伊織を誘ったのは、省吾と二人きりになるのが嫌だとか心配だからという理由ではない。省吾の誘いに乗るということは、自分の気にしていることを、躊躇なく指摘されることだ。相手に悪気がないことも、自分のことを想って言ってくれているだろうことも頭では理解しているが、だからといって、我慢できる問題ではない。自分が思わずな行動をする前に伊織が間に入ってくれれば自分も落ち着けるはずだ。そう考えて、伊織を誘った。

 現に今も、伊織のおかげで真尋は助かった。

「むっ、そうか。嫌われるのは困るな。他の誰に嫌われてもいいが、真尋ちゃんに嫌われるのは困る」

 けれど、省吾はそんな真尋の考えを知る由もなく、なにやら対応に困るようなことを言ってきては、真尋の心臓をドキドキさせる。

「そういうことを本人の前で言えるのはすごいと思うけど、だったらもうちょっと言葉には気をつけようよ」

 伊織も溜め息を吐きながら、省吾をたしなめる。

「けど、なにに気をつければいいんだ?」

「自分が言われたら嫌なことを言わなければいいんだよ」

「そうか。けれど、伊織よ。俺は真尋ちゃんや三日月夜宵が悪く言われなければ嫌な気分にはならないぞ。そして、真尋ちゃんや三日月夜宵を悪く言う奴なんてこの世にいない」

「自分で言ってるって、自覚はないわけ? ほら、五キロ痩せろとかさ」

 伊織は真尋をチラチラ盗み見ながら、最後は小声で省吾に問うた。

「どうしてだ? 目標を言い聞かせるのは悪いことではないだろう。俺が志望校に合格するためにはあと十点上積みしないといけないと担任に言われても嫌にはならないぞ。お前は頭が悪いと言われれば、さすがにカチンとくるかもしれないが。同じように、真尋ちゃんには俺の理想になるために五キロ痩せて欲しいといっているだけで、太っていると罵倒しているわけではないから問題ないだろう」

「そうだよね、兄さんってそうだったよね」

 伊織は頭を悩ます。これは、省吾を説得するよりも真尋に気にしないようお願いする方が楽なのかもしれない。

「なんの話をしているんですか?」

 真尋は呼吸を落ち着けてから、二人の会話に再度、割って入った。

「いや、真尋ちゃんは別に太っていないということを確認していたんだ」

「なに話してるんですか~!」

 真尋は誰が見てもわかるくらいに怒ってしまった。

「伊織よ、真尋ちゃんはなにを怒っているんだ?」

「……兄さんの無遠慮な言葉に対してでしょ」

 伊織は兄のために行動しようと決意しているが、改めて、前途多難だと思った。

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