邂逅

 身体が重い。

 あの津久野という男に会ってから、全身の動きが鈍くなったような気がする。記憶が朧気だった。

 津久野――どこにでもいそうな特徴のない顔の男だった――が優馬の部屋の真ん中にいて、そいつに話しかけられてから何を話して何をしたのか。靄がかかったように思い出せない。気がつくと義姉さんが床に突っ伏して泣いていた。

 馬鹿みたいに「ごめんなさい」って繰り返してた。


 そう。馬鹿みたい。

 謝られたところで、何になるっていうの。

「ごめんなさい」なんて言いながら泣かれたら、泣かせた私が悪いみたいじゃない。何を許せるっていうんだろう。

 そうやって「可哀想な義妹を追い詰めてしまった悪いアタシ」に酔うんでしょうね。

 くだらない。

 死ねば良いのに。


 外はすっかり日が暮れていた。中々足が進まなくて、駅から家までの道のりが今夜はいやに長く感じる。

 自分の足音に耳を澄ませて歩いていたら、違和感があることに気づいた。

「あれ……?」


 おかしい。

 この道、こんなに人通りが少なかっただろうか。

 大通りから外れた路地とはいえ、余りにも人気がないし、静かすぎる。

 コツコツとヒールの音が後ろから聞こえて、思わず振り返った。

 髪の長い女が、こちらに向かって歩いてきている。


「ねえ」


 やたらと大きなマスクをしているその女は、私のそばまでくると話しかけてきた。


「私、キレイ?」


 は?

 何この人。不審者?

 無視して行こうと進行方向に向き直る。

 マスク女が目の前に立っていた。

「ひっ」

 そんな、今確かに後ろにいたはずじゃ……?

 私は一歩、後ろに下がる。女が一歩、近づいてくる。もう一歩下がる。また一歩、近づいてくる。


「私、呪いを食べてあげることはできないけど、人間を食べることはできるのよねえ」

 独り言をブツブツ言いながら、女はマスクを外した。マスクの下の顔は唇が耳まで裂けていた。化け物だ。

「アンタみたいに陰険で執念深い人間は、特に美味しいのよ」

 女が嬉しそうに口を開けた。真っ暗な穴が、大きく空いている。私は腰が抜けて動けない。

 足が震える、身体が重い、逃げられない。

 嫌だ、死にたくない――

 思わず目を瞑った。


 ガキン、という固い音が響いた。


 恐る恐る目を開けてみる。

 私の目の前に、人が立っていた。うっすら青く光っている。

 山みたいに大きな背中に、綺麗に纏められた長い髪が揺れている。その人の挙げた右腕に、化け物が噛み付いていた。


「邪魔しないでくれる、

 化け物が腕から口を離して唸った。私を庇った人の腕は血塗れで、地面にぽたぽたと雫が落ちる。血の臭いが一気に広がった。


「お退きください」

 青い光が消えた。私を庇ってくれた人の声は、苦しそうだ。女性みたいな声色をしているけど、こちらからは顔がよく見えない。


「私、今、お楽しみの最中なんだけど」

 化け物がイライラしているのが口調でわかる。お願い、怒らせないで、と助けられた分際で思ってしまう。

「貴女と敵対する気はありません。でも、この人を見殺しにするつもりもありません」

「良いわね、正直な娘は好きよ。でも、それは都合が良すぎるの。私にメリット無いもの。そこの女と、まとめて食べちゃっても良いのよ?」

 化け物の両手の爪が見る間に伸びていく。長く、鋭く。

 駄目だ。この大きな人がどれだけ屈強そうでも、相手は化け物だもの。すぐに殺される。きっと私も。


「ウチの若手をイジメないでやってください」


 後ろから声がした。

「津久野、さん……?」

 中肉中背の平凡そうな男が、いつの間にか暗闇に立っていた。

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