対価
「真っ直ぐで良い娘でしょう。ウチの優秀な若手なんですよ。ミクさん、自己紹介して」
津久野は私を庇ってくれた人を促した。
「
ミクと名乗った人物は化け物に一礼すると、津久野に譲るように道を開けた。
津久野太一。最寄り駅のホーム、近くのコンビニ、病院の待合室――どこにいたとしても違和感の無い、どこにでもいそうなスーツ姿の中年男。
お世辞にも美形と言える容姿ではない。かといってどのパーツもその配置も崩れていない。姿勢は良くも悪くもなく、口角はほんの少し上がっていて、あまりにも棘のない佇まいをしている。
この男に街角でいきなり道を尋ねられたら、誰もが無警戒で答えてしまうだろう。そして、同じ無防備さで、全ての秘密を話してしまいそうだ。
「久しぶりねえ」
化け物の伸びた爪が、一瞬にして短くなる。
「ご無沙汰してます。こんな時じゃなかったら、ゆっくりお茶でもお誘いしたいんですがね」
津久野は前に進み出ると、化け物ににこやかに話しかけた。まるで世間話でもするような物腰だ。
「僕からもお願いします。今日のところは、退いていただけませんか」
「……もう、私がボウヤに弱いこと知ってて言ってるでしょ。ズルい大人になっちゃったわねえ、昔はあんなに可愛かったのに」
化け物の態度が明らかに軟化した。甘えるような声で津久野の腕を取る。
「はは、もうすっかりオジサンになっちゃいました」
津久野は困ったように笑って頭を掻いた。まだ血の臭いが漂っている生臭い場で、彼のその仕草はあまりにも“日常”だった。そして、それが逆に異質で狂気的だ。この状況でどうして笑うことができるの。化け物よりも、この男の方がずっと恐ろしい。
「今回だけよ、感謝しなさい。それと、お茶する時には喫煙席のある店にしてね」
「タピオカ奢ります」
「もうちょっと流行りのモノにして」
化け物がそう言うと、突風が吹き抜けた。ゴオという風に紛れて、めきゃ、ごき、と鈍い音と呻き声が耳を掠める。
「主任!」
ミクが鋭く叫んだ。
目を開けると、化け物は消えていた。そして、津久野の両手が血塗れになっていた。
全ての爪が剥がれ、全ての指があり得ない方向に曲がっている。
「はは……眼とか、耳とか、持ってかれないだけ……良かったよ……この程度で、許してくれるんだから、優しいヒトだね……」
津久野は両腕をだらりと垂らし、顔は汗びっしょりだ。痛みをこらえるように眉根を寄せ、肩で息をしている。
――それでも、津久野は笑っていた。私は歯の根が合わないほど震えているのに。
ミクが、自身も腕から出血しながら津久野の身体を支えた。
「救急車呼びます、じっとしててください」
「ありがとう、世話、かけるね……」
津久野は道の端にズルズルと座り込んだ。いつの間にか遠くを走る電車や車の音、住宅から漏れる生活音が辺りを満たしている。
「円香、さん」
私はまだその場から動けないでいた。
「貴女がしたことはね……こういう世界に、足を踏み入れるようなこと、なんです……人を呪っている……と、思わぬ怪異を、呼び寄せてしまう……今日は、運良く、命拾いした……けど……だから、どうか」
「はい……ええ……わかってます」
何度も頷く。私はとっくに泣いていた。皆まで言われなくたってわかる。
私は初めて、自分がいかに恐ろしいことをしていたのかを知った。
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