爆発

 病院の駐車場に戻った頃には外はすっかり暗くなっていた。夫は無言で運転席側のドアを開け、力任せに閉めた。シートベルトを締めながら、大仰なため息をつく。

 私はとうにクタクタだった。だが、だからこそ口を開いた。


「何?」


「……別に」

 夫はいつもこの調子だ。何事も受け身で自分を出さず、気に入らないことがあってもはっきりと言わない。その代わり、不自然なほど無口になる。大きな音を立てたり芝居がかっているほどのため息や舌打ちをする。私が“察する”まで。

 昔はその都度反応していたものだ。

 私が悪いことをしたのなら治すようにするから教えてほしいと。何が気に入らないのかと。

 夫は何も答えない。

 無視をすることはない。こちらから声をかければ最低限の受け答えはする。普段とはあからさまに違う能面のような表情で。

 そして肝心の質問にだけは黙り込む。

 機嫌はズルズルと戻らず、居心地の悪い空間が続くことに耐えられずにいつも私が折れてよくわからない謝罪をする、その繰り返しだった。

 私はいつしか、夫の“ご機嫌”を損ねないように顔色を伺うようになってしまった。


 でも、今夜はいつものご機嫌取りをする気になれなかった。

 冷えた家庭にしたくなかったのは、優馬のためだ。今、その優馬はここにいない。いつ目覚めるともしれない。大っぴらな衝突を躊躇う理由が、私にはなかった。

 そしてもう、夫に対しても限界だった。


「気に入らないことがあるならはっきり言いなさいよ」

 自分でも驚くくらい剣呑な声が出た。

「…………」


 夫は黙ってエンジンをかけようとする。私の方を見ようともしない。

 たまらず、助手席の扉を開けた。降りはしない。

「車出せないんだけど」

「だから?」

 冬の冷気が車内に入り込む。

「閉めて」

「貴方が怒ってる理由を話したら閉める」

「…………」


 そこからは我慢比べだった。

 夫は私が音を上げて話題が有耶無耶になるのを期待している。手に取るようにわかる。

 家庭内だけでなく、外の世界でもそうやってやり過ごして生きてきたのだろう。

 周りが根負けしてくれるまで、目を閉じ耳を塞いで石になっていれば、何とかなってきたのだろう。


「降りろ」

 何分も待って夫から聞けたのは、その一言だけだった。

「優馬の検査が気に入らないんでしょ」

 先回りして言ってあげた。結局、私から言わねば話が進むことはないのだ。この期に及んで。うんざりする。

 霊的検査について、明日の午後に早速受ける運びとなった。

 その際にかかる費用は、数千〜数万円。医療保険はきかないので実費だという。幽霊だのお祓いだのの相場に詳しくないので高いのか安いのかは知らない。

 一度だけであれば、そう手痛い出費ではない。

 でももしも優馬に何かしらの霊が取り憑いているのだとしたら、今後それを祓うのに検査費用の数倍〜数十倍の出費になるかもしれないという。

 いきなりそんなことを聞かされていたら、私は怒る前に笑い飛ばしていただろう。普通ならば相手にもしない話だ。

 だからこそ、私達が話を受け入れやすいように院長が長い時間を取って説明をしてくれたのだ。根拠を提示して。

 検査をしてもしなくてもこれまで通りの治療を続けると約束するし、今日の話で不信感を持たれたのなら転院を考えてもらっても良いとも言っていた。

 もしかしたら、私がさっき疑ったように霊感商法なのかもしれない。

 だとしても、それなら夫は。


「……典型的な詐欺だろう。カモにされてるんだよ俺達」

 彼はガリガリと頭を掻いた。大袈裟な仕草だ。


「だったら、何で言わなかったの」


「…………」

 夫は、わかりやすいくらいに目が泳いでいる。

 自分の声が怒りで震えているのがわかる。


「言えば良かったじゃない。あの場で。私は言ったわ。思ったこと全部言った。疑問も気に入らないことも何もかも話して、院長達と話して、納得したの。だから明日の検査に進むの。」

 夫はいつもこうなのだ。家ではドスンバタンと物に当たり散らしてふんぞり返っているくせに、外の人間にはろくに自分の意見を言えず、後になってブツブツ言う。そのクレームすら私達家族にしか言えないから問題点が解決することはない。

 要は意気地なしだ。反論されるのが怖くて、反対意見のないフリをして、不満を永遠に陰で垂れ流す。

「…………」

 夫は口を閉じて足元を見つめている。

 反撃されることに対してここまで無抵抗な男だとは思わなかった。どうしてこんな奴にビクビクしていたのだろう。

 私が検査に臨むことを決めたのは、霊障云々の話を鵜呑みにしたからじゃない。優馬の現状を打破するために、自分も何か行動をしたという事実が欲しかったからだ。

 そして。

「極度のストレスで食毛を行ったのではない」と信じたかった。

 もしあの子がそこまでのストレスを感じていたのなら、その原因はきっと私達夫婦のあり方のせいだ。

 それを直視したくなかった。


「詐欺だと思ったなら何で私を止めなかったのよ。怖かったんでしょ。院長が、津久野さんが怖かったんでしょ。付け込まれてお金をむしられるかもしれないって思ってるのに自分で何も言わないでここで不機嫌撒き散らして、満足? それで何が変わるの?」


 バッグをダッシュボードに叩きつけた。夫が驚いてビクリとしたのが小気味良かった。

 貴方が散々私や優馬にしてきたことよ。


「待ってるのよね。検査して優馬に悪霊が憑いてますよって言われて、怪しい霊能者紹介されて高いお金払ってお祓いして、それでも優馬は目覚めない。その時になって『俺は怪しいと思ってたんだ』って家で暴れまわるんでしょ私をなじるんでしょそれを待ってるんでしょ楽しみにしてるんでしょその時に何て言ってやろうかってそんなことしか考えてないんでしょう!」


 助手席の扉を叩きつけるように閉めた。


「文句があるなら、貴方が、貴方の口で、院長に言うと良いわ。貴方が外で言葉にしない意見は存在しない。遠回しな態度は金輪際通じない。私を止めたいならここで止めなさいよ。できないなら車を出して。ホラ扉閉めたんだから早くしなさいよ何してんの貴方の言う通りにやってあげたじゃないの」


 夫は凍りついたように固まっていた。が、やがてエンジンをかけた。

 ノロノロと車が動き出した。

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