目覚め

 病院の近くの喫茶店で夫と昼食をとった。

 食欲はなかったが、無理にでも何かに集中しなければ不安で叫び出しそうだったので、ひたすらサンドイッチを口に詰め込んでいった。

 霊障、呪い。自分が声に出すと、何かのごっこ遊びでもしているような滑稽な響きに聞こえる。

 水やコーヒーで食事を流し込んでいると、夫のスマホが振動した。

「……円香からだ」

 夫は私を見ずにそれだけ言うと、スマホを手に店の外に出て行った。

 昨日の言い争い――いや、ほとんど私の一方的な罵りから、夫は私に怯えている。

 チラチラとこちらの顔色を伺い、私が視線を向けると目を逸らす。その様子がいちいち私の気持ちを逆撫でするのだ。

 数分程で夫はテーブルに戻ってきた。

 円香ちゃんは優馬のことを心配して電話をかけてきたのだろう。彼女が今のオドオドした夫の様子を見たら、どんな顔をするだろう。義両親が見たら。

 今度義実家に行った時に、はっきり言ってやるのだ。「もうあんた達の言いなりにはならない」と。

 嫌なことはきっぱりと断り、失礼なことを言われたら怒りの気持ちを表明しよう。

 円香ちゃんにも、教えてあげよう。こちらが下手に出るからあいつ等がつけ上がるのだと。もう恐れる必要はない。

 くだらない妄想にふけっている私を、スマホを操作するフリをして夫が盗み見ていた。


 午後一時。再び優馬の病室に集められた。

 院長と共に待っていると、津久野が一人の女性を伴って入ってきた。

「調査・分析を私よりも得意としている者です」と津久野は紹介する。

 長身で身体が大きく、ゴツゴツした見た目の人物だ。柔道でもしていそうだ、と見上げながら思った。

波多家はだかミク】と書かれた名刺を渡された。

「ミクと呼んでください」

 ニコリともしない。年齢のわかりにくい人だが、声を聞く限り若い方のようだ。

 私達に一礼すると、ミクは一人で優馬の側に向かった。先程と同じく、私達は喋ってはいけない。


 彼女は深呼吸をすると、右手を優馬の胸の上に翳した。

 今回は御札を使わないのだなと思った瞬間、ミクを中心に青い光の輪が部屋中に広がった、気がした。光は瞬きする間もなく消えたので、私の見間違いかもしれない。

 病室の空気が先程と変わったように感じるのは、気のせいなのだろうか。無意識に声が漏れ出てしまわないように、私は両手で口を覆っていた。


「……あー、なるほど……ハイハイ……んー…………ん?」


 しばらくその姿勢のまま立ち尽くし、何やらブツブツ言ったかと思うと、ミクは手を止めて首を傾げた。厚ぼったい唇に指を当て、何やら考え込む。

 私達と一緒に彼女を見守っていた津久野が、怪訝そうな顔をして身を乗り出した。同じタイミングで彼女は津久野の方を振り返った。

「主任のフダ、一枚使わせてもらって良いっすか」

 津久野は即座に御札を手渡す。大柄なミクが持つと、御札は少し小さく見える。

 受け取った彼女は、再び優馬に向き直った。顔を覗き込んで話しかける。


「とりあえず、起きよっか。頑張ったね」


 その声はとても優しかった。ここからは見えないけれど、彼女はきっと微笑んでいる。

 ミクは御札を優馬の左胸に押し当てた。

 午前の時とは比べものにならないほどの大きな炎が、青く上がった。天井まで届くかというほどの火柱は、やはりすぐに鎮火した。

 ミクの大きな手が、優馬の顔に飛んだ灰を優しく拭う。


「……ぁ……」


 聞き間違いかと思った。望んでいたことなのに、いや、だからこそ都合の良い夢なのではないかと思わずにいられなかった。

 夫と顔を見合わせる。夫は『俺も聞こえた』と言いたげに、私に激しく頷いてみせた。

 それは、優馬の口から出た微かなうめき声だった。


「おはよ。いきなりは動けないから、しばらくじっとしてな」

 言い聞かせるように優馬の耳元でそう言うと、ミクはこちら側に戻ってきた。その表情はもう険しいものに戻っている。院長が廊下の看護師に指示を出す声が聞こえてくる。

「声をかけてあげてください」

 津久野に促されて、やっと私達は声を出した。

「優馬!」


 目を開けた息子が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。

 倒れてから半月。

 クリスマスの午後のことだった。


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