第七話 桃院尚哉の覚悟
桔梗は、せめて、自分が恋心を理解した年までは、帝をそっとしておくことにした。
もちろん、絆の力によって、心は惹かれる。
思春期の身体の変化も相まって、耐えがたいこともあった。
それでも、帝が懸命に、これまでの内田家の人間とは違う生き方をするために学んでいるのを、邪魔したくはなかった。
何より、絆師を取りまとめる役割を担っている一族の長になる人間が、私利私欲で一絆師の今後を左右してはならない。
そんな、桃院家の次期当主としての自覚もあった。
帝は、小学校五年時、
学友との時間は特に不要、と、自ら主張し、可能な限り絆師としての勉強をした。
小学校六年時には、それまで師事した全ての師に学び、絆師としての基礎を身につけた。
中学校へ上がるなり、
人を殺めることもある。
内田家の跡継ぎとしての立場ではなく、内田家がどのようなことをしてきたのか。
外部の者から曖昧な情報を聞かされるより、真実を目の当りにした方が良い、と、
時に、言霊師と組んで仕事をすることもある、内田家。
絆を無理に切っても、二度と相手に興味を持たないようにしなければ、再度絆が結ばれることがある。
催眠術とは違うが、言霊によって相手に対する悪辣なイメージを植え付けることで、絆を結ばせないようにする。
そのやり方は、正に
あまりにも強い言霊は、精神を壊してしまう。
内田家のやり方に強力出来るような言霊師が、存在している。
呪われた一族が存在しているのは、何も絆師の世界ばかりではない。
言霊も、使いようによっては人を死へと向かわせることが可能だ。
死に対する渇望を植え付ければ良い。
そうして、不能犯によって、何人もの人が暗殺されてきた。
歴史の闇には、そういった特殊能力を持った存在が関わっていることが多々ある。
中学生になり、そんな闇を見せつけられる毎日に、嫌気が差した
本当はいない友達の存在を理由に、
幼い頃から、女の子に間違われていた帝は、中学生になると美しさを持ち始めていた。
少年を愛好する者は、一定数存在している。
時は一九八八年、帝が中学二年生になったばかりのある日。
街中で、人の良さそうなサラリーマンに声をかけられた。
「お腹空いてない? 喫茶店でケーキでもおごるよ。」
と、言う言葉を疑いもせず、帝はサラリーマンへついていった。
導かれて辿り着いたのはホテルのラウンジ。
帝は、特に疑問に感じることなく、進められるままに紅茶とケーキを口にした。
しばらくして、とてつもない眠気に襲われる。
「あれ…」
目をこする帝が、徐に倒れ込む。
ホテルのラウンジに据えられたソファは、それを受け止めるだけの余裕があった。
帝は、制服を着ていたから、周りが訝しんでいたけれど。
「親戚の子なんです。どうしたんだろう、疲れちゃったのかな。」
などと言いながら、帝を慣れた手つきで背負い、予め取っておいた部屋へ上がろうと、エレベーターへ向かおうとしたその時。
「この子は私の知り合いなんだが、あなたはどなたかな。」
と、声をかけた五十代の男性。
「俺は、この子が具合が悪そうだったから、部屋で解放しようと…」
しどろもどろになるサラリーマンから、四十代くらいの男性が、あっさりと帝を奪う。
「私はこういう者だ。警察に知り合いがいるから、連絡して来てもらおうか。」
名刺をサラリーマンに差し出すが、サラリーマンの方は慌てた様子で受け取ろうともしない。
「し、知り合いならよかった。俺も困ってたんだ。あとは任せるよ。」
慌てて逃げるようにその場を離れるサラリーマン。
「あの~」
話しかけてきたホテルの従業員へ。
「お騒がせして済まなかったね。私はこういう者だ。」
サラリーマンが受け取らなかった名刺をそのまま差し出す。
「この子は内田帝と言う子でね。赤ん坊のころから知っている。先ほどの男性は、この子に対して良からぬことを企んでいたようだが…」
部屋に連れ込もうとしていたのを、危うく見過ごすところだったな。
と、言う意味を含ませて話しているのは、桃院尚哉だ。
本当に偶然居合わせたのである。
「くれぐれも、今後は目を光らせておくことをおすすめしますよ。どうしますか? 警察に届けるのなら、私たちはこちらで待機しますよ。この子に睡眠薬が使われたことを確認出来た方が良いでしょうし。」
煮え切らないホテルの従業員に尚哉が静かに詰め寄ると、そこへホテルの支配人が駆け付けた。
「桃院様、この度はありがとうございます。」
「私は、この子を守りたかっただけですから、お気になさらず。」
「このお礼は、後日必ず。」
尚哉は、軽く会釈を返し。
「大山、行くぞ。」
「はい。」
「旦那様、帝様をどういたしますか。」
「ああ…。目が覚めるまで家で保護するべきか…このまま
「…父なら」
大山は反射的に言葉にしてしまい、ハっとした。
「大山、君は根に持つタイプか?」
「いえ…旦那様と信頼関係を最も信頼関係を築いているのは、父と考えているだけです。」
塚本が当主の座を大山に譲ってから既に三年が経っている。
だが、大山は、未だに尚哉の従者として相応しいのか、自信がない。
「言っておくが、俺にとって盛太さんは、いまも昔も初恋の人なんだ。」
塚本の本名で話す尚哉に、ドキリとした。
つまり、惚れた欲目が入っているから、従者として比べるな、と、言いたいらしい。
「初恋の人は、忘れられない、と、言う事でしょうか。」
「私に言わせれば、初恋の人には、いつまでも恋をし続けるんだ。」
「…」
「ともかく、塚本の意見がどうこうなどと、考える必要はない。」
「…はい。正直なところ、この状態の帝様を桃院家に連れて行くのは、賛成しかねます。かといって、内田家にこのまま連れて行くのは、問題があるかと。」
「そうだな。
「はい。向かいます。」
「まったく、帝さんは、どうして内田家に産まれて、これほどに純粋に、素直に育ったんだろうね。」
「まったくです。」
追家に着き、呼び鈴を押すと、工氏郎の孫、
「夜分に突然失礼いたします。桃院尚哉と申します。ちょっとお願いがありまして。」
「…はい。」
由己が戸を開けて招き入れると、帝を見るなり慌てて。
「じいちゃん! 帝が!」
「はいよ。おやおや、帝さんはどうしたんだい?」
「突然申し訳ない。帝さんを、とある場所で保護しまして。桃院家に連れ帰るわけにもいかないし、このまま
「…こっちで詳しく聞かしとくれ。」
「帝は大丈夫なんですか?」
由己が心配そうに大山へ訊ねる。
「眠っているだけですから、横にして休ませて差し上げたいのですが。」
「布団を敷きます。こちらへ。」
大山が帝を連れて由己の後をついていき、初代のままでいる工氏郎が居間へと尚哉を招き入れた。
「で、どうしたんで?」
「悪い男に引っかかったようで。薬を盛られて眠らされたところに、幸い居合わせました。」
「…未遂ってぇわけかい。」
「ええ。」
「あのなりだからな。そういう目に遭う事が、あるかもしれねぇとは思っていたが。」
「あの子は、良くも悪くも素直すぎますね。」
「その口ぶりは…
「はい。」
「よぉく考えてみなよ。内田の子供は、親に言われるがまま、禁忌の技を使い続けてきたんだ。素直な良い子、だと思わねぇか?」
「…言われてみれば、確かにそういう考え方も出来ますね。」
「とにかく事情はわかった。
「お願いします。…少々お痩せになりましたか?」
「ん? まぁな。最近、ちぃと具合が悪い。帝さんは遠慮してあっしのところには来なかったんだろうさ。」
「帝さんは、どうしてこんなことに巻き込まれたんでしょう?」
「あの子が中学に上がってから、
「…
「いつでも遠慮なく頼れる誰かがいりゃあ良いけどね。あの子が頼れる人間は八家の人間くらいだろう。」
特に工氏郎が一番頼れる存在だろう。
初代になったからと言って、それは変わらないはずだ。
ほとんど、工氏郎だけ、と、言っても過言ではない。
「もう由己も中学生だし、今更劣等感を感じるでもなかろう。帝さんはしばらくうちで預かるよ。」
「ありがとうございます。」
「桔梗さんと、会わせる気はないのかい?」
「当人たちの問題ですから、私はどちらにせよ手も口も出すつもりはありませんよ。」
「そうかい。それを聞いて、少しは安心したよ。余計な話をせずに済んで何よりだ。」
「余計な話、とは?」
「余計なんだから、聞くんじゃあねぇよ。」
苦笑いをする工氏郎を前に、呆けている尚哉。
「絆師は、肉体関係を持った者同士を見ればわかる。知ってるだろう?」
「…あ…」
工氏郎は、尚哉が桔梗と帝を会わせないと言った日には、塚本との関係を持ち出すつもりだったのだ。
と、悟った尚哉は。
「な? 余計な話だろう?」
と、おどけて見せる工氏郎の表情に項垂れた。
「お前さんは、少なくとも男同士の関係に偏見があるわけじゃねぇ。妻があっても、会いたいなら会えばいい、と、考えているだろ?」
「はい。」
「じゃあ、もう、あっしはお前さんに言う事は何もない。」
「菊乃にも、すっぱり諦めさせることが出来ればいいんですが。」
「そらぁ、お前さん、無理ってもんよ。女の執念を背負ってるあっしが言うんだから、間違いねぇよ。」
「私が菊乃をあそこまでにしてしまったんでしょうかねぇ。」
「まあ、ちぃとは関係あるだろうが、全てがお前さんのせいってことはないだろうよ。」
「失礼します。」
「大山、帝さんは?」
「まだ、もうしばらくは眠っているかと。いま、由己さんが付いてくださっています。」
「悪いけど、あっしはそろそろ休ませてもらうよ。あんたらは適当に帰っとくんな。」
「はい。ありがとうございます。」
由己の母が茶を運んできたのを合図に、初代工氏郎はそう言って自室に戻って行った。
「すみません。あんな言い方を。」
「いえ。あれは、帰る時に顔を出さなくて良い、と言う意味でしょうから。」
尚哉の言葉に、意外そうな表情を返す。
由己の母親とは、つまり工氏郎の娘だ。
絆師として産まれなかったことを、むしろ幸いと感じている。
「帝さんは、知らない人について行ったらいけない、と、教わっていなかったんですね。私、気が付かなくて…」
「内田家のご子息ですから、一般常識とはかけ離れていて当然です。一つ一つを確認することはできませんから、今後も、驚くような常識外れを見せるかもしれません。」
「そうですね。なるべく、気を付けてみます。」
「
尚哉は、絆師の一族については名前を全て把握している。
工氏郎の子供は、
工己は絆師と関わり合いになりたくなくて、家を出た。
「わたし、帝さんのことは、由己の弟のように感じているんです。息子のように、というのとはちょっと違うんですよ。」
「ええ。」
「本当に、ここ二、三年のことですけれどね。以前は、由己にとって、あまり良い存在じゃない、と、感じていましたから、なるべく関わらないようにしていたんです。」
息子に悪影響を与える存在を脅威に感じるのは、どこの母親も同じ。
「もっと早く、いまのように思っていたらこんな目に遭わなかったかもしれない、と、どうしても考えてしまって。」
「そんな風に考える必要はありませんよ。」
「そうかもしれませんが、せめてこれからは、危ない目に合わないようにできることをしたいです。」
「どうか、叱らないでやってくださいね。心配している人がいる、と、優しく教えてやってください。」
「…え」
「おそらく、由己さんが、帝さんを叱責するんじゃないでしょう。なぜ強く言われるのか、帝さんにはわからないと思いますから、それを教えてあげてください。」
「はい。わかりました。」
冬己は、少々テンポが遅い。
会話の展開が早いと理解できずに置いて行かれる。
だが、そこで焦ったり、負い目を感じたりしないマイペースな人。
もちろん、疑問があるまま適当な返事をしたりはしない。
怒られるのは、誰でも嫌だろう。
何をしたら怒られるのかを学び、怒られることをしなくなっても、行動原理が「怒られたくないから」のままでは、あまりにも不憫だ。
怒られるのと、叱られるのは違う事だが、その違いを強く言われる側が正しく認識するのは難しい。
まして、帝のような環境であれば尚更だ。
帝の周りにいる大人は、帝の知らない所でばかり心配している。
帝が素直に育つことが出来たのは、帝が周囲の大人から、知らず知らずのうちに、守られ続けたからに違いない。
幼いうちは、それでいい。
成長するにつれ、だんだんと気が付くものだ。
放っておいても、気が付き始める年ごろ。
幼い頃に、両親なり、両親に相当するような周囲の大人から、わかりやすい愛情を注がれていれば、容易に気が付くだろう。
しかし、帝はどうだろうか。
あなたの事が大切だ、とか。
あなたのことが可愛くてしかたがない、と、有り余るほどの愛情を、少しも受けていない子供は、一体どうなるだろう。
きっと、帝にいま一番必要なのは、桔梗だ。
と、尚哉はふと思う。
あなたが無事で本当に良かった。
と、心底感じて、言葉にして、全力でそれを伝えられる人は、間違いなく桔梗だ。
「大山、私たちができることを、しようと思う。」
先ほど、初代工氏郎に対して、手も口も出さないと言ったばかりの尚哉は、自嘲気味に言葉を発した。
「…はい。」
具体的な話をその場でする気はないだろう、と、考えた大山は、何をすると言い出しても受け入れる覚悟を持って返事をした。
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