あの後、どうやって帰ったのか、おれはよく覚えていない。気づけばおれは寝床で泣いていて、母ちゃんに背中をさすられていた。おれはこの日起こったことを家族の誰にも言えぬまま、ただ泣くばかりだった。


 あんなことがあってから、おれは雪次のところへは行っていない。あの馬場の近くにある川は絶好の釣り場だったが、そこにも通わなくなった。

 ウィレムは未だに行方がわからないままだ。家族はみんなウィレムの帰りを待ち望んでいるけれど、きっと内心では諦めているに違いない。そうだとしても、亡骸を見つけてそれを葬るまでは、生きていると思い込むしかないんだろう。


*****


 それから一年が過ぎた。初冬のある日、おれは薪拾いを仰せつかって、小山に分け入っていた。落ちた枝を拾っては、竹で編んだ籠に入れる。ふと顔を上げると、枯れ草の間から丸々と太った鹿が見えた。あれだけ肥えていれば、きっと冬も越せるだろう。鹿はこちらに気づいたのか、そそくさと走り去っていった。


 薪を集めるだけ集めて、さあ帰ろう、というとき……おれの左側から、蹄の音が聞こえてきた。そのときおれは、胸の奥をぎゅっとつかまれたように感じた。


「おや、平三? 久しぶり」


 馬上の男……雪次は屈託のない笑顔でおれに手を振った。おれは何も答えられなかった。角笠と狩装束、そして竹弓を携えた雪次は、前と変わらず美しい。馬の尾のような総髪に、女子よりも麗しい顔立ち……その美しさが、何よりも恐ろしかった。


 おれの足は、自然と動いた。走り出して、高い草の生い茂る中に飛び込んだ。草をかき分けかき分け、必死で逃げた。葉っぱが顔に当たって、頬が切れる。それでも、おれは足を止められなかった。


 そのとき、勢いのよい弦の高鳴りが聞こえた。矢が空を切り、何かに当たった。おれの目の前に、矢の刺さったさぎがどさっと落ちてきて、おれは「わっ!」と声をあげてしまった。

 

「どうだい平三。親父には下手だと言われてるけど、おれの弓も上手くなっただろう」


 背後から声がしたが、答えずに草をかき分けた。射落としたのは鷺だったが、矢をこちらに向けて放ったのは脅し以外のなにものでもない。「このまま逃げたら、お前も鷺のようになるぞ」と言われている気分だった。それでも、おれは馬の通れない高い草むらの中を必死に逃げた。


 草むらを通り抜けた先は、見慣れた砂利道だった。おれはわき目もふらずに薄暗がりの道を走って、ほうほうのていで家に逃げ帰った。あまりにおれが震えていたものだから、心配がった母ちゃんが布団を敷いてくれて、おれは朝まで寝込んでしまった。




 それ以降ずっと、雪次の姿は見ていない。

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追物射 武州人也 @hagachi-hm

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