楽羊の羹

 おれは震えの止まらない脚をどうにか動かして林を出た。人馬の通った後をそのまま歩いていくと、すぐに林を抜けることができた。

 家に帰って、ウィレムのことをどう伝えるべきか……悩ましいことだった。騎射の訓練をしている少年に射殺されて、その亡骸は持っていかれた……そう素直に伝えたとして、信じてもらえるだろうか。


 そんなことを考えながら歩いていると……右の方から蹄音がした。馬が角を曲がって、こちらに来るのか。


「平三」


 角を曲がって現れたのは、あの雪次だった。おれはとっさに、顔をそむけてしまった。手足がぶるぶると震えて、立っていることさえ苦しい。


「いいところで会った。ちょうど鍋をやるところなんだ。一緒に食わないか」


 そっと顔をあげると、馬上の雪次はいつもの朗らかな笑顔で語りかけてきた。雪次はおれが現場を見ていたことを知らないのか、それとも知っていて、あえて誘っているのか。もし知られていたら、おれは口封じで殺されてしまうのではないか。


「あ、あの……」


 変な様子を見せて、疑われるわけにはいかない。下手を打てば、おれもウィレムと同じように、追いかけられて殺されるかもしれない。そうなったら、逃げたってむだだ。騎馬の速さに、徒歩かちで逃げおおせるなどできるはずもない。


「ああ、腹減ったし、馳走ちそうになりてぇ」


 いらぬ不信を抱かれぬよう、おれは精いっぱいに平静を装って答えた。腹が減っているのは本当だから、うそはついていない。雪次は「こっちにおいで」と手招きをして、馬首を翻した。おれは黙って、その後をついていった。逃げようなんて、考えられなかった。

 

 たどり着いたところは、いつもの馬場の隣だった。そこには切株以外に何もない広場があって、ど真ん中には火をかけられた鉄鍋があった。


「おかえり」


 鍋の番をしていた小柄な男子が、おれと雪次を出迎えた。多分、おれより年下だろう。雪次は下馬して、その少年のところへ駆け寄った。


「平三、おれの弟の清四郎せいしろうだ」

「お、おれは平三っていうんだ。よろしく」


 清四郎と呼ばれた少年は、小さく「よろしく……」と返すと、まるで逃げ出すかのように走り去ってしまった。


「あれは内気なやつでね。無礼を許してくれ、平三」


 雪次の言葉は、ほとんどおれの耳に入っていなかった。雪次の弟の顔は、怯えでくしゃくしゃになっていた。彼もおれのように、雪次を恐れているのだろう。でなければ、あんな顔はしない。

 ぐつぐつぐつぐつと、鍋が煮えている。かぐわしい煙がゆらゆらと、曇り空めがけて立ち上っている。


「もういいだろう」


 そう言って、雪次は切株の上に置いていた茶碗に、鍋の中身をすくった。汁の中には葱類と、それから細切れになった肉が見える。


「この肉は、何の肉なんだ? 流行りの牛鍋っていうやつか?」


 尋ねたが、雪次は優しく微笑むだけで答えてはくれない。その様子で、おれは確信した。


 ――ウィレムは、鍋の具になっちまったんだ。


 雪次は初対面のとき、すでにウィレムのことを見ている。だから射殺した犬がおれの犬だ、ということは知っているはずなのだ。それをあえて、おれに食わせようとしている。そのわけというのは、一体何なんだろう。

 おれは震える手で碗と箸を受け取った。雪次は変わらずにっこりと、優しく微笑みかけている。

 受け取ったはいいものの、食う気はしない。これが野山をうろつく獣の肉だったら、すんなり食えただろう。でもこの鍋で煮込まれているのは、我が家でかわいがられていたウィレムなのだ。そう簡単に、口に入れられるはずもない。


「どうした、腹減ってねぇのか?」

「いやぁ、ちょっと熱そうなもんで……焦って食ったら、舌が火傷しそうだ」

「そうか……じゃあ食えるようになるまで、武将の話でもしようか。平三は楽羊がくようという将を知ってるかな?」

「楽羊……その名は見たことあるぞ」


 楽羊。確か……遠い遠い昔、唐の国が七国しちこくに分かれていた時代の人物だったはずだ。が、詳しいところはわからない。名前的に、史記に列伝を立てられている楽毅がくきの一族だろう。


「楽羊は七国の真ん中、の国の武将だった。当時は七国以外に中山ちゅうざんという小国があって、魏公はその国を亡ぼすべく、楽羊に攻めさせた。ところが困ったことに、このとき中山は楽羊の家族を人質にしていたのさ」


 雪次はためらうことなく汁をすすり、野菜と肉を箸で口に入れた。喉を鳴らして具を飲み込むと、話を続けた。


「怒った中山の王は楽羊の息子を殺して、その肉をあつものにして楽羊に送りつけてきたんだ。息子の入った羹を見た楽羊は、それをどうしたと思う?」

「わ、わかんねぇ。おれもそこまで詳しくねぇから……」


 雪次は一体なぜ、そんな話をするのだろう。雪次の考えが読めないことが、何よりも不気味で恐ろしい。


「楽羊は聡い男だった。息子を煮殺して作られた羹を、飲み干してみせたのさ。おれはそんな脅しで尻込みしたりせぬ、ということを、主君にも敵にも示したんだ。そして楽羊は兵を率いて、中山を亡ぼした、と」


 ふっ、と皮肉に笑った雪次は、一気に具をかき込み、汁を飲み干した。


「うむ、うまかった。平三、早く食わないと冷めてしまうよ」

「え、あの、おれ、早く帰らねぇと怒られちまう」

「あはは、そんなこと気にするのか。おれと平三の仲じゃないか。足が必要なら、おれが馬に乗せてやってもいい」


 そう言って、雪次はおれの肩に手を置いてきた。いつもと変わらぬ気さくな振る舞いが、今は何よりも怖い。すぐにでも逃げたかった。が、雪次はそれを許してくれないようだ。

 楽羊の話をしたのは、「疑いをもたれたくなかったら、黙ってそれを飲め」と遠回しに伝えているのか。勝手な解釈だけれど、状況が見事にぴったり合っている。


「わかった……」


 おれは目をつぶって、碗の中のものを一気にかき込んだ。すでにぬるくなっていたが、それにもかかわらず頬が落ちるほどうまかった。うまいと感じてしまったことに、おれは悔し涙が出そうになった。

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