去ぬ追物

 あるとき、ウィレムが脱走した。家の中にも、その周りにも、どこにも姿がないのだ。父は「珍しい洋犬だ。すぐに見つかる」などと言っているが、その声色には怯えがある。誰かに盗まれてしまうかもしれない、とでも心配しているのだろう。おれだって心配だった。

 おれは時が経つのも忘れて、ひたすらウィレムを探して回った。多摩の片田舎に名札をつけた洋犬なんかがうろついていたら、ちょっとした騒ぎになりそうなものだ。でも、そうはなっていない。もしかしたら、すでに誰かに捕まってしまったのかもしれない……

 そんなことを思いながら探していると、いつの間にか、全く知らない林の中に迷い込んでいた。日も傾いてきていて、おれは胸の奥がざわめき出すのを止められなかった。


「ここ……どこだ?」


 左右を見渡してみたが、人の気配はない。遠くから獣の鳴き声が聞こえてきて、おれは体の震えが止まらなくなった。

 早く、早くここを出たい……そう思っていると、さく、さく、と落ち葉を踏み分ける音がした。


「ウィレム!」


 遠目でも、見間違うはずもない。柏の木の陰から現れたのは、ウィレムだった。珍しい洋犬で、遠目とはいえ首から下げた名札も見える。あれはウィレムで間違いない。ウィレムは慌てたように走っていった。

 おれはすぐに追いかけようとした。が、突然、ドドドドドッとものすごい勢いの足音が近づいてきて、おれの足は止まってしまった。足音の主はウィレムを追っていて、ウィレムは逃げているようだった。


 ややあって、弦の高鳴りが足音に交じった。ウィレムを追っていたのは人を乗せた鹿毛馬で、馬上の者が矢を放ったのだ。そのとき、おれはすぐに取り返しのつかないことが起こったのを知った。


「あ……ウィレム……」


 ウィレムの首には深々と矢が刺さっていて、だらりと舌を垂らして地面に横たわっている。首からとめどなくあふれる血が、落ち葉を朱色に染め上げていた。おれはすぐにでもウィレムに駆け寄って抱き上げたかったが、彼を射殺した犯人が近くにいるせいで、かしわの陰に隠れざるをえなかった。

 ウィレムの亡骸に、人馬一対が近づいた。あれはウィレムのかたきだ。その顔をひと目でも見てやろう。そう思って、おれは馬上の横顔をにらみつけた。


 おれが見たのは、角笠と狩装束、そして麗しい黒髪……あの雪次だった。この白皙の美少年は、冷たい視線を犬の亡骸に向けている。


 雪次は弓掛ゆがけをぎゅっと引っ張ってはめ直すと、おれに目をくれることなく下馬して、ウィレムの首根っこをつかんだ。そして網のようなものに亡骸を放り込むと、それをかついで馬に飛び乗り走り去った。


 薄暗い林の中に、がっくり膝を折ったおれだけが残された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る