雪次
この晩は眠れなかった。眠ろうとして目をつぶっても、まぶたの裏にはあの疾駆する騎馬の姿があった。
現実離れした、不思議な光景だった。馳せ馬の背で跳ね、結わえた総髪を揺らしながら、長い竹弓を構える。弦がうなり、
「雪次……」
寝床で、不意に口から名が出た。彼が男子だからだろうか、年頃の
次の日の昼すぎ、おれは釣りにかこつけて雪次に会いに行った。ウィレムを連れて歩く道中、何だか不安な気分になった。もしや、自分はあのとき狐に化かされていたのではないか……雪次も馬場もまやかしで、ただ荒れ地が広がっていたらどうしよう……などと考えていたが、馬場はちゃんとそこにあった。けれども、あの鹿毛の馬と雪次の姿はなかった。
「まだ来てないのか」
そう思ったので、ひとまず川へ赴き、釣り糸を垂らした。何度かいい当たりがあったが、惜しくも大物は逃してしまって、雑魚が少しばかり釣れただけだった。
そろそろ日が傾きかけた頃、おれは帰り道にあの馬場の前を通った。するとそこには、昨日と同じように、砂を蹴立てて疾駆する人馬があった。漆を塗ったような黒髪が馬の尻尾のよう揺れ、放たれた矢が藁束に刺さる。見事な騎射だった。
「平三」
雪次の声を聞いて、おれは我に返った。気づけば、鹿毛馬のつぶらな瞳がすぐそこにある。雪次は慣れた動きで、するりと下馬した。
「あ、今日も見事なもんで、見とれちまった」
「はは、そうかぁ。平三は素直だなぁ」
そう言って、雪次はおれの肩に手を置いた。おれは何だかこそばゆい気分になって、「あ……」という気の抜けた声しか出なかった。
「唐の国の李広将軍なんて、よく知ってるなぁ」
「叔父さんから漢籍とか仏典とか……色々教わってるんだ」
「それはいい。こんな弓なんかより、学問の方がよほど身になる」
そう言って、雪次は竹弓を高く掲げて見せた。大きくて立派な弓だが、小銃と大砲の席捲する戦場では無用の長物だ。そんな虚無感を抱えながら、雪次は騎射の訓練に明け暮れていたのだろうか。
「いや……雪次の弓は、ちゃんと役に立ってる」
「……何に?」
「ええと……おれがかっこいいと思った、じゃあだめか」
答えになっていない答えだった。おれはこんなことを口走ってしまったのが恥ずかしくて、穴があったら入りたかった。
「あはは、嬉しいなぁ」
そう言って、雪次はおれの頭をなでた。なでられた頭は何だか熱くなって、おれはのぼせたような気分になった。雪次に触れられると、どうにも調子が狂ってしまう。
「そういえば、そこのお犬さん、昨日も連れていたよね。ここらでは見かけない犬だけど……なんて犬なんだい?」
「おれも知らねぇんだけど……西洋からきた犬らしい。おれの父ちゃんが買ったんだ」
「へぇ、洋犬かぁ……洋犬なんて、見るの初めてだ」
そう言って、雪次はウィレムの頭をなでようと手をかざした。が、ウィレムは触られる前に大きく吠えて、その手を牽制した。
「わっ、怒らせてしまったかな?」
「こらウィレム。何てことを」
ウィレムは牙をむき出しにして喉をうならせ、雪次を警戒している。おれと違って、ウィレムは雪次のことを気に入らなかったようだ。
「あはは、おれはあんまり、お犬さんには好かれねぇみたいだ」
「すまねぇ雪次。こいつへそ曲がりだから、どうにも」
……おれはうそをついた。実はウィレムはかなり人懐っこい犬だ。知らない人にも走り寄ってじゃれつくぐらいに、人見知りをしない性格だ。だからウィレムが雪次に威嚇したとき、おれは珍しいものを見たと思った。
「おれ、また雪次の弓が見てぇ。今度はこいつ連れてこねぇから」
「そっか。お犬さんに嫌われちゃったのは残念だけど、平三にそう言ってもらえるのは嬉しいよ」
そう言って、雪次は
「またね、平三」
雪次は去り際、おれに向けて手を振った。おれは手を振り返したが、ウィレムは相変わらず牙をむき出しにして、ぐるるるる、とうなり声をあげていた。が、雪次が遠ざかると、ウィレムはおれに甘えるかのように飛びかかってきた。しゃがんで抱き上げてやると、舌でおれの頬を舐めてくるものだから、くすぐったくて仕方がなかった。
それからおれは、暇さえあれば釣りにかこつけて、あの馬場をのぞきに行った。もちろんウィレムは連れていかず、散歩は弟にやらせた。ウィレムはかわいいけれど、あれを雪次に会わせるわけにはいかない。
会えるときもあれば会えないときもあったが、会えたときにはたわいもない話をするのが常だった。雪次は武将の話が好きで、あるときは衛青や霍去病の話をしたり、またあるときは義経や楠木正成の話をしたりした。
雪次は名前に反して陽気な男だった。いつもからっと笑って、おれのことをなでてくれる。雪次以外の男になでられても、いら立ちこそすれ嬉しいなどとは思わなかっただろう。でも雪次になら、とことん心を許せてしまう自分がいた。
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