第5話 ジャスティナという存在

 ――病院からの帰り道、緑さんが運転する車ではラジオが軽快な音楽を流していた。しかし、私たちの間には、一切会話がない。

 結論から言うと……私は心臓の大動脈に異常が生じていた。症状は既に重症で、手術を要するとのこと。手術をしていない現時点での余命は五年らしい。 幸い、手術の成功率は大体九割程とのことだったが……実際に自分が手術を受けると考えたら、それだけで震え上がるように怖かった。あまり詳しい話を覚えていないが、手術では一度心臓を止めるらしい。

 九割の成功率で、到底安心なんてできなかった。これまで九割が大丈夫だったのだとしても、一割は亡くなった方がいる。それに、マツショクにおいてジャスティナが戻ってきた描写もなかった。

 手術を受けなければ、五年後には死んでしまう。だから、どんなに怖くても手術は受けなくてはならない。でも、もしも手術が失敗したら……私は五年も持たずに死んでしまう。

 頭に浮かぶのは、MaTsurikaのメンバーのことだった。私は、彼らが活躍する瞬間をこの目で見ることができるのだろうか。

「……あの、緑さん……」

 重苦しい雰囲気の中、口を開く。思ったよりもか細い声が出て、気を取り直すように深呼吸をした。

「緑さん、私は社長を辞めようと思います」

「……本気ですか?」

「はい。それと……しばらく手術は受けずにいようかと」

「! 何を、言ってるんですか?」

 当然の反応だ。重症で、九割の成功率の手術があるのなら、手術すべきに決まっている。手術して、また社長に戻ればいいだけなのだ。

 私だって、……前世の、佐藤茉莉だって、きっとそう思うだろう。

 だけど、私は加藤ジャスティナだから。今ならば、マツショクでジャスティナがあんな言動をした意味が理解できる。

「私は、MaTsurikaを信じてますから……」

 自分が治療や手術の期間だけでも社長を休めば、事務所内で味方の少ないMaTsurikaは不遇になるだろう。それが、手術の失敗後だと思えば尚更。ならば私が元気なうちに他事務所に移籍させ、無事デビューさせられるように手を回した方がいい。大手だと埋もれてしまうアイドルでも、弱小事務所ならば唯一のアイドルになれる。大手からの移籍となれば、期待も大きくなるだろうし、マネジメントにも力を入れてくれるはずだ。それに、今の佐藤茉莉の記憶がある私には、彼らがその道を辿れば上手くいくという確信もある。不確実なジャスティナの生死に頼るよりも、MaTsurikaの確実なデビュー取るのが正しいと思えた。別に、社長職にそれほどこだわりがあるわけではない。手術が成功したならば、その時はその時で第二の人生を歩めばいいのだ。

「すみませんが、行き先を会長のもとへ変更してもらえますか」

「……、……ジャスティナさん」

 車が路肩に停車したかと思えば、懐かしい呼び方が優しく耳朶を打つ。数年前、社長になる研修と称して、緑さんの部下として一年だけ働いたことがあった。言ってしまえば親のコネで入社した私に、彼だけが真剣に仕事を教えてくれ、難しい立場である私に、優しく何度も名前で呼びかけてくれていたのだ。

 社長として気張っていた心が、緑さんのその一言で溶けていく。

「本当は……怖いです、凄く」

 つい、本音が零れる。彼は、ほっとしたように息をついた。

「それは、当たり前ですよ……」

「ですね。……死にたくありませんし、今所属しているアイドルを導く存在でありたかった……」

「過去形にする必要なんてないですよ。社長代理を立てて、療養後戻ればいいんです」

 彼はあくまで柔らかく、加藤ジャスティナという存在を守ろうとしてくれる。だけど、私は首を横に振った。

「……それじゃあ、必ずアイドルたちに病気のことがバレちゃうじゃないですか」

「まさか……言わないつもりですか?」

「はい。余計なことは考えずに、アイドルのことだけを考えていて欲しいですから」

「どうして、そんな……」

 言葉を失った緑さんは「とりあえず、一度Id∞lに戻ります」と、車を再発進した。彼は優しく心配性だ。会長に相談をする前に、まずは彼を説得するのが大変そうだなとつい苦笑いしてしまう。私は、眠るふりをして、マツショクの各ルートを改めて思い返すのだった。


***


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 ――恋愛END 海のように深く――

 

 ――IDGPでの優勝から、はや一週間が経った。私はいつも通りMaTsurikaのレッスンのため事務所でひとり準備をしていたのだが……息を切らしながら、蒼がこちらに向かって走ってくる。

「……桃菜っ、これ見てくれ」

「……! これって……」

 蒼が差し出した一枚の便箋。そこには、MaTsurikaの活躍を褒める文章が連ねられていた。文末には『加藤ジャスティナ』の文字。

「ジャスティナが、謝ったんだ」

 私が見上げれば、普段は海のように深い色をした彼の碧眼がじわりと滲み、潤んだ光を浮かべる。

「ジャスティナが……俺たちを、俺を……認めてくれたんだ……」

 見られたくないであろう泣き顔を隠すように、彼の背に手を回した。いつもよりも速い蒼の鼓動に、耳を傾ける。

「……良かったね、蒼」

 彼が家族のように慕っていたというジャスティナ。そんな存在に裏切られ、苦しみもがいたこの一年は、今ようやく報われたのかもしれない。どんな賞より、私の存在より、たった一枚の紙に彼は救われたのだ。

「(……ちょっと、ジャスティナに妬けちゃうなぁ)」

 でも、同時にありがたいと思う。蒼をアイドルにしてくれたのは、間違いなくジャスティナなのだから。いつかジャスティナとも、直接話してみたいと思う。

「桃菜」

「ん? なに?」

 心地よい呼び声に返事をした。顔を上げて欲しいと言われ、言われた通りに彼を見上げる。潤んだ彼の瞳に、私が映りこんだ。

 

「時間は、戻らない。俺がジャスティナに……捨てられた事実も変わらない。それは、今でも凄く苦しいことだけど……」

「お前に出会えたから、いまこうして、残酷な現実が、少しだけ良いものになったんだ……」

「俺、お前と出会えて、お前を好きになれて……本当に良かった」

「桃菜、俺を選んでくれて……ありがとう……」


 蒼と私の距離が、さらに縮まる。重なった唇は、想像よりも深かった。

「ん……っ」

「っ桃菜、大好きだ……」

 不思議と刹那的にも感じる愛の言葉に、心臓がキュッと痛くなる。私は、離れた唇を追いかけるように背伸びをした。普段ならば絶対にしない私の行動に、蒼の虹彩がぐっと開かれる。

「……。……蒼のこと、私、もう離さないからね」

「……あぁ、絶対、離さないでくれ」

 再び、私たちの距離がゼロになる。アイドルとしての蒼も、恋人としての蒼も、どちらも私が幸せにするんだと、そう心に誓った。


 ――thankyou for playing――

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