Case.2 八月三日の邂逅

#1 ボケッとしてんじゃねぇ、ブス

 困った。迷子になってしまった。

 無人の千本鳥居の下で立ち止まり、わたしは腕組みをした。

 ──うん、迷子だ。

 これは紛うことなき迷子。

 さっきまでの京都の伏見稲荷大社を歩いていたのに、いつの間にか道を逸れてに迷い込んでしまったらしい。


 その証拠に、夏休み真っ只中だというのに辺りはしんと冷えているし、古びた赤い鳥居の隙間から覗く東雲色の空には月と太陽があって、さっきまで観光客でいっぱいだった参道には人っ子一人歩いていない。無風なのに、ワンピースの裾が揺れる。お香のような匂い。上下左右に雪の壁が聳え立つような強烈な孤独感。


「……どうしよう」


 恐怖より、途方に暮れた。

 物心つく前から人間じゃないものが視えていたわたしは、生きた人間じゃないものがたくさん生きている世界が隣り合わせに息衝いていることを知っている。実を言うと多分、迷い込んでしまうのもこれが初めてではない。けれど子どもの頃の一件は、助けてくれた人がいたから元の場所に戻れたのだ。

 二度目はきっと助けられない──あのときわたしの手を引いてくれたかず志はそう言った。

 今回は木戸を開けたわけじゃないのだけれど、これも二度目になるのかしら。


「かず志」


 緋色の着物を着た少女を思い出す。あの子が人間だったなら、きっと美しい女性になったことだろう。

 ……とはいえ、ここで物語みたいにあの日の彼女が助けに来てくれるほど、人生ドラマチックじゃないことをわたしはもう知っている。

 ともかく出口を捜すしかない。

 当て所なく歩きだしたわたしの手首が、そのとき何者かに掴まれた。


「わあっ」


 後ろに引かれて体勢を崩す。背後に立っていたその何者かに頭をぶつけて、かぶっていた麦わら帽子が地面に落ちた。慌てて腕を引き戻そうとするが、思いのほか強い力で握られている。

 人間だ。それも男。


「なんでこんなとこに一般人がいんだよ」


 不機嫌そうに言ったのはわたしよりいくらか身長の高い細身の少年だった。

 黒い髪で右目を隠した蒼白い容貌はどこか人間離れしていたけれど、わたしの手首を掴む力ははっきりと強い。やわらかそうなベージュのシャツに黒いスキニーとスニーカー、やっぱり生きた人間だ。


「そ……そっちこそ何、放してください」

「出口そっちじゃねぇ」

「はなして。──触らないで」

「うるせぇ黙れ」


 自分の意思とは全く関係ないところで体が震えはじめる。知らない人間に体を触られるのは嫌だ。彼はわたしの震えが伝わらないわけがないのに強引に腕を引いて歩きはじめてしまった。

 わたしが向かおうとしていたのは反対方向だ。

 出口そっちじゃねぇ、ってことはこの人は出口を知っているということなのか。


「あ、待って、帽子……」

「振り返るな」

「ちょっと待ってよ!」

「振り返るなっつってんだろブス!」

「ブッ…………」


 唖然としたわたしに構わず、彼は痛烈な舌打ちを洩らして歩き続ける。赤い鳥居の参道を幾らか下ったあと足を止め、鳥居と鳥居の間の隙間にわたしを捻じ込むように肩を押した。彼も続けて追ってくる。

 すると、そこはもう生きた人間の行き交う千本鳥居の下だった。


 ざわざわと喧騒が聞こえる。観光客は楽しそうに笑みを交わしながら参道を上ってゆく。立ち止まるわたしと彼に、何人かがぶつかっていった。彼が嫌そうに顔を歪める。

 呆気にとられるわたしの耳に、「ひな!」と友人の呼ぶ声が聞こえた。

 彼はわたしの後方から人波に逆らって参道を下りてくる友人の姿を捉えて左目を細める。そしてハァッと大きな溜め息をつき、友人とすれ違うようにして観光客の流れに紛れようとした。


「あの……」

「視えてんならボケッとしてんじゃねぇ、ブス!」


 ま、またブスって言った……。

 あまりの衝撃にビシリと固まったわたしの横で、友人のほうがなぜか「ひなは可愛いだろうがテメェの目は節穴か!!」とキレた。

 気性の荒い彼女は中指まで立てていたので、そっと隠した。




 高校一年、夏、八月三日。

 七月末までかかった進学補習に出席し終えて、二日の息抜きを挟んだあと、わたしは友人と一緒に二泊三日の京都旅行に来ていた。

 計画としては、一日目が京都伏見稲荷、二日目が鞍馬山と貴船神社、三日目が四条大宮と八坂神社。宿は市内のビジネスホテル。まず新幹線で京都駅に到着したわたしたちはホテルに荷物を預け、JR奈良線に乗って稲荷駅に向かった。そうして辿り着いた伏見稲荷大社の千本鳥居をくぐりながらあの世に迷い込んだというわけだ。


「なんだよあのいけすかねぇヤツ。ひなの知り合いか?」


 と思いっきり顔を顰めたのは旅の同行者、一宮希歩だ。高校に入ってできた友人で、髪の毛が銀色で両耳にピアスが三つずつついていて服装はいつもゴシックパンク(わたしたちの通う高校には制服がなかった)。

 まれほはいつも「きほ」と読み間違えられる自分の名前の漢字が嫌で、あと少し変わった響きなのも気に入らなくて、メールするときは平仮名で書けと言う子だった。我ながらタイプが違いすぎて、なんで仲良くなったのか今でもわからない。


「いや、全然。転びかけたところを助けてもらった……的な」

「あー、そゆこと。つか先に行くなよ、焦ったろ」

「ごめん」


 しょーがねぇなぁ、とまれほはお姉さん風を吹かせてわたしの手を握った。彼女のこういうところにはわたしももう慣れっこなので、大人しく手をつないでもらうことにする。それに、また迷子になったら大変だ。


「ひな、帽子は?」

「あ……失くしちゃった」

「何やってんだよ」


 まれほは目を丸くすると、つないでいない方の手で自分が被っていた黒いキャップを脱ぎ、わたしの頭にぽふんとかぶせる。

 あの世で落として、そのまま来てしまった。彼が振り返るなと怒鳴ったから。


「まれほ、いいよ、大丈夫だから」

「いいからかぶっとけ。日焼けするぞ」


 まれほは有無を言わさずわたしの手を引っ張った。人の話を聞かない強引さで言えば、さっきの少年もまれほもいい勝負だ。

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