さあお行き。振り返ってはいけないよ
どうやらあの光が一番のお偉いさん。
そしてここにいるみんなは、お偉いさんにお土産を渡して、代わりに水を貰っている。
わたしは慌ててポケットのなかを探りました。遠出する予定なんてなかったので何もありません。おさかなさんを追いかける前に一つ見つけていた四葉のクローバーが、手の中でしなしなになっているくらいでした。
そうこうしているうちにわたしの順番が来てしまいました。
巨石に腰掛ける青緑の光は、わたしのことをじっと見下ろし、ふぅん、とつぶやきました。──光の言葉が聞こえたのです。あれっ、喋った、とわたしはたいそう驚きました。この青緑の光、言葉が通じるぞ。
なは、と光が訊きました。
低く、抑揚の薄い喋り方でしたが、辛うじて名前を訊かれたことは理解しました。
「みなとひなた。六歳です」
どきどきするあまり、年齢まで答えていました。
光は矯めつ眇めつわたしを観察して、ん、と掌を突き出してきます。光は光のままでしたが、わたしには光がそういう動作をしているのだと感じられました。
わたしは恐る恐る、しおれた四葉のクローバーを差し出しました。あのう、あのう、ごめんなさい。お土産がいるなんて、しらなくて。でもね、四葉のクローバーってしあわせになれるんだって。もごもごとそんな言い訳をしていると、光はフッと鼻で笑いました。
そしてまた、ん、と手を突き出します。今度は掌を上にするのではなく、人差し指をこちらに向けているようでした。先程から見ていた光景を思い出し、慌てて両掌でお椀をつくって差し出すと、光の人差し指からちょろちょろと透明な水が滑り落ちてきました。
四葉のクローバーはお土産として及第点だったみたい。ほっと胸を撫で下ろして光の前から下がろうとすると、「おや」と背後から男性の声がしました。
振り返ると、わたしよりもいくつか後ろの列に、着物姿のおじいさんと女の子がいたのです。
「きみはもしかして……」
おじいさんは前に並ぶいきものたちに失礼失礼と声をかけながらわたしのところまでやってきて、顎に手をやりじろじろこちらを見つめると、困ったように眉を下げました。
「あおあらし様、この子は一体どこからやってきたのです」
おじいさんは光を仰いでそう言いました。光はこてりと首を傾げます。
「この子は生きた人間ではありませぬか。此岸の子どもにございますよ」
しらぬ、と光が答えました。知らないだろうとわたしも思いました。だってわたしはおさかなさんに勝手についてきただけであって、この光に呼ばれてきたわけではないのですから。
おじいさんはしばらく光と話し合っていました。強い見鬼があるので間違って通してしまったのだろう、此岸の子どもは一人行方不明になると大変なのだ、昔とは違って、あなたの山にも捜索の手が入ります──などなど。
途方に暮れて彼らを見上げているうちに、両手の椀からはすっかり水が抜け落ちてしまっていました。
やがて話が終わったのか、おじいさんはフゥと息を吐いてわたしの前に膝を折ります。
「おまえは慥かに現代では稀に見るほどの見鬼の体質だが、神さまのもとへ召されるにはまだ小さすぎるね。それではご家族も浮かばれまい。此度は此岸へ帰していただきなさい。おまえの寿命が正しく尽きたときには、あおあらし様のもとへ呼んでいただくがよかろう」
さああおあらし様にお別れとお礼を言いなさい、と背中を押されてわたしは再び光の前に進みました。
光は特に機嫌を損ねた様子もなく、ただおかしそうに笑って、まいご、とわたしの頭を撫でました。ひなた、またこいよ。と言われたので「はい」とうなずきます。この光が一体何であれ、眺めているだけで嬉しくなるほど美しい存在であることは慥かでしたから、わたしも光にまた逢いたいと思いました。
「約束の証に、半分は置いていかねばならない。かわいそうなようだが……」
おじいさんは失礼と断ってからわたしの髪を一本抜きました。イテテと頭皮をさするわたしの右手を取り、薬指に髪を巻きつけ、ふぅっと息を吹きかけます。
すると、とんっと体に軽い衝撃が走りました。胸の辺りを指一本で押されたような、そんな程度。身構えていなかったため二歩ほど蹈鞴を踏んだわたしが顔を上げると、先程までわたしが立っていたその場所に、一人の女の子が立ち尽くしていたのです。
麦わら帽子、白いワンピース、背中まで伸びた髪。
まるでもう一人のわたしのような後ろ姿。
おじいさんはその女の子を自分の背に隠すと、それまで黙って傍らで様子を見ていた緋色の着物姿の女の子に声をかけました。
「かず志。この子と一緒に山を下りてあげなさい。小径のつながる先へ、この子が入ってきた扉があるはずだ。おまえはその手前まで送り届けたあと、ここまで戻ってくるんだよ。できるね」
かず志と呼ばれたその女の子はこっくりとうなずくと、わたしの手を握りました。
「さあお行き。振り返ってはいけないよ」
彼女は動きにくそうな着物の裾や袖をものともせず、足元も草履だというのに足取り軽やかに山道を下りはじめました。慣れない山道に幾度か足を取られながら、わたしは彼女とともに藪の中を歩いていきました。
光との別れはなんだか寂しかったし、そういえば出雲のおうちのおさかなさんの姿も見失ったままですが、とりあえず晩ごはんの時間までには家に帰らなければなりません。
かず志は道中、一言も喋りませんでした。
ただ、わたしが転びかけるたびに立ち止まり、振り返り、むすっとした顔のまま見下ろしました。
終始機嫌はよくなさそうだったけれど、わたしを置いていくようなことはけっしてありませんでした。
わたしもかず志に話しかけませんでした。
年上のように見えるかず志に何を話しかけたらいいのか解らなかったというのも理由の一つですが、何よりも、自分に起きたことに対する不安が大きく、口を開くことができなかったのです。
おじいさんに息を吹きかけられて、衝撃があったと思ったら、自分にそっくりな女の子がもう一人現れた。その女の子と別れて今はかず志と歩いていますが、あのときおじいさんが右手の薬指に結んでくれた髪の毛が、いつの間にか消えていたのです。
代わりに薬指はじんじんと痛みはじめました。
それに、山道を下る体が妙に軽くて、ふわふわしているような気がするのです。
まるで体の中から何かのパーツがひとつ抜け落ちてしまったかのようでした。
わたしは一体どうなってしまったのだろう。不安のままかず志の手をぎゅっと握りしめると、彼女は言葉こそ発しませんでしたが強く手を握り返してくれました。しっとりと温かい、わたしと同じように生きた子どもの感触がしました。
互いに無言のまま小一時間も歩いたでしょうか。
小径の先に、見覚えのある木戸が現れたのです。
「もうおまえは、この木戸を開けちゃいけない。二度目はきっと助けられない」
かず志にトンと背中を押されてよろめき、木戸に手をつきました。素っ気ない彼女の声に振り返ると、かず志は颯爽と山道を戻ってゆくところでした。
その後ろ姿を見送っていると、彼女がぱっと半身を翻し、「さっさと行け」とでもいうように右手をしっしと振ったので、わたしは慌てて木戸を開けたのでした。
そして古びた扉を開けるとそこはもとの神社で、ちょうどわたしを捜しに来ていた祖父と目が合い、痛いほどに抱きしめられたのです。
おさかなさんはいつの間にか素知らぬ顔で祖父母の家に戻っており、その後は一度も家を出ることはありませんでした。そしてわたしはかず志との約束を守り、二度とあの神社の木戸に触れることはありませんでした。
何かの手違いで再びあの山に招かれたならば、わたしはきっと今度こそ神さまのもとに召されてしまうでしょうから。
Case.1 了
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