たそがれ重畳奇譚こぼれ噺

天乃律

Case.1 八月三日の神隠し

これはわたしが六歳のときのお話です。


 これはわたしが六歳のときのお話です。


 わたしの母方の祖父母の家は島根県にあり、見渡す限り山の稜線が空と大地とを分かつ自然豊かな土地に、日本家屋と広い庭といくつかの畑を持っていました。田舎、と聞いて多くの人が思い浮かべる、平坦な田畑のなかに家が点在するというまさにその風景です。年に一・二度、ゴールデンウィークか夏休みのうちに両親とわたしとで祖父母の家を訪れ、二泊ほどしていくのが恒例でした。


 母方には同年代の従兄弟がいて、松江市内に住んでいます。大抵はわたしたちの帰省にあわせて本家へと集合することが多かったのですが、それも毎日というわけにはいかないので、従兄弟たちが来る日以外だとわたしは暇を持て余していました。

 絵本も、おえかきセットも持って行くし、両親や祖父母も相手はしてくれますが、やはり子どもは子ども同士で遊ぶのが楽しいものですから。出雲のおうちには大きなおさかなさんがいたのですが、彼は姿を現したり現さなかったりするので、恰好の遊び相手というわけにもいきません。


 八月三日のことでした。

 従兄弟たちは昨日遊んで松江に帰ってしまい、その日のわたしは孤独に無聊を慰めていました。

 家を出てすぐのところにある畑の傍にしゃがみ込んで、四葉のクローバー探しをしていたのです。四葉のクローバーを見つけると幸せになるという話を、まだ強固に信じていられた歳でした。

 一人っ子のわたしが家の周辺でひとり遊びをするのはいつものことです。また縁側でお喋りしている父と祖父の視界にも入る場所ですから、この日を振り返った大人たちは口を揃えて「油断していた」と語るのでした。


 夏。

 突き抜けるような青天、とろけたアイスのような入道雲。

 庭の木や塀についた蝉の鳴き声が力いっぱいこだましていました。この前日には蝉の抜け殻探しもしました。何が楽しかったのか今となってはよくわかりませんが、集めた抜け殻は玄関に飾ってありました。

 そういう他愛のないものをたくさん見つけて、ずらりと並べるのが、あの頃はとても誇らしかったものです。


 シロツメクサの葉っぱをじぃっと見下ろしていたわたしの傍を、フと通り過ぎてゆくものがありました。

 大きなおさかなさんでした。

 おさかなさんは出雲のおうちに棲んでいるおさかなさんです。直立したおさかなの胴体、顔には鴉のような嘴があり、尾びれの辺りから二本の脚が生えています。鳥の足のような短い手も二本、お腹か胸の辺りからにょきっと出ています。お喋りはしませんが、大きなぎょろ目で何事かを訴えてくることはありました。大抵は喉が渇いたとか、お腹が減ったとかそういうので、わたしは飲んでいたジュースをちょっと分けてあげたり、食べているお饅頭を割ってあげたりしていました。


「おさかなさん、どこ行くの」


 おさかなさんは二本の足でゆったりと、畑沿いの道を歩いてゆきます。

 一度ぴたりと立ち止まり、のたのたと振り返り、澄まし顔でわたしを見つめたあと、ぱちりとひとつ瞬きをしました。そしてまたくるりと踵を返して、おさかなさんは歩きはじめました。

 どこへ行くのだろう。わたしの記憶のある限り、おさかなさんが出雲のおうちから外出したことはありません。これは何かあったに違いないと、わたしはすっくと立ち上がり、ずっと座っていたせいでぴりぴり痺れるふくらはぎを擦りながらそのあとを追いかけました。


 おさかなさんは畑沿いの道を行き、やがて近所の神社へと入っていきました。

 畑の只中にぽかりと建つ神社は、周りを背の高い木々で囲まれています。遠くから見ると、平坦な場所に突然小さな森が現れたようなかたちになっています。この神社はわたしもよく両親や従兄弟とお散歩に訪れる場所でしたので、特に不思議に思うこともなく鳥居をくぐりました。

 神社には出入口が三つあります。

 一つは拝殿からまっすぐに伸びる参道の出入口。石造りの立派な大鳥居があります。もう一つは参道から途中で脇道につながる出入口、こちらにも小鳥居があり、小石を投げて鳥居に乗せることができればいいことがあるという根拠のない謂れによってたくさんの小石が乗っかっています。

 最後のひとつは、拝殿を挟んで小鳥居の反対側にある木戸で、こちらは鎮守の杜を抜けて駐車場につながる小径になっていました。


 表の参道から大鳥居をくぐったおさかなさんは、途中で横に逸れると駐車場へつながる木戸を押し開け、藪の生い茂る小径へと突入していきます。

 蛇行する小径は、十メートルも歩けばすぐに神社裏の駐車場につながるはずでした。

 しかしおさかなさんのあとをついて歩くわたしは、やがて、行けども行けども小径は終わらず、そればかりかどんどん周囲の風景が山深く変わっていくことに気付いたのです。

 そこで引き返せばよかったのでしょうが、わたしもまた程々な田舎で生まれ育ち、近所の山で遊ぶこともありましたので、山道に臆することもなく素直におさかなさんを追いかけてしまいました。


 山道を進む途中、どこからともなく合流してきた道からは、さまざまな姿かたちのいきものが現れました。二足歩行で釣竿を背負った猿。白い大蛇。大きなきつね。蜘蛛。白いのっぺりとしたおまんじゅうみたいなものもいました。それらはわたしには理解できない言葉を交わしながら、時折笑い声を上げつつ、一様にどこかを目指しているようでした。


 この頃になってくるとさすがに、あれ、おかしいぞ、と勘付いていました。


 神社の木戸が駐車場につながっていることは、従兄弟と一緒に何度も遊んだので知っています。あの小径がこんな山につながっているわけがありません。ここはどこだろう、家に帰ったほうがいい気がする、でもおさかなさんが、と逡巡しているうちに、わたしは着物をひっかけたひとつ目の青鬼や酒瓶を抱えた二足歩行の牛なんかに囲まれ、道を戻ることができなくなっていました。

 鬼たちの流れに逆らえず、そのうちおさかなさんさえ見失ってしまい、わたしは途方に暮れたまま山道を進み続けます。


 やがて辿り着いたのは、周囲をぐるりと絶壁に囲まれ、大小数百もの滝が白い糸のように滑り落ちる滝のふもとでした。

 ごつごつとした岩が転がる河原に鬼たちは次々と腰を下ろします。よし戻るぞ、と思ったのですが後ろからも鬼たちが押し寄せてくるので、結局わたしは流れるまま、小さな岩の上にちょこんと座りました。

 晩ご飯の時間までにおうちに帰れるだろうか……と不安になりながら場の空気を窺っていると、滝壺を背に佇むいっとう巨大な岩の上に、ふわりと何かが現れました。


 それは、青緑の美しい光でした。

 穏やかな湖面のような、透きとおる蒼穹のような、とっておきの宝石のような光が岩の上に坐したのです。

 当時まだ此岸の生き物と彼岸の生き物との区別がついていなかったわたしにも、その光が尋常な存在でないことは察せられました。この世のものとは思えないほど美しい。けれど近付いてはいけない。きっと太陽の光のようなものなのだ。それ自身に光り輝いている自覚はなく、ある程度の距離を取っていれば見ていられるそれも、近くに寄ってしまっては燃え尽きてしまうでしょう。そういう、魅力と危険とを孕んだ光。

 河原の岩に腰掛けていた鬼たちが順番にその光の前に進み出て、それぞれが持参したお土産のようなものを恭しく差し出しはじめました。台所から取ってきたようなお魚やお料理、お墓やお仏壇に供えてあったようなお菓子にお花、子どもの玩具をこっそり持ってきたようなミニカーやお人形。彼らはそういったお土産を光へ差し出す代わりに、両手でつくった椀に、水のようなものを注いでもらっていました。


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