赤銅の髪の魔術士【16】
少女は何が起こったのかわからなかった。
たまぎるような悲鳴が響いて、光が爆発して、何も見えなくなった。
音も色も全てが消失した。
ゼルデとレギオンの姿が視界から消し飛ばされ、背後からのザレスの絶叫に思わず耳を塞いでいた。
それでようやく何かが起こったということが理解できた。
ゼルデが己の力を使ったのだということが理解できた。
爆風が先に、次いで爆煙が収まった頃、目の前にいたはずのゼルデの姿が消えている。
代わりに、
「え?」
一歩の距離も無い、近距離で自分を見下ろしているレギオンと目が合った。
向けられている掌の指の間から見える彼の目は無機質な光だけを反射して、硝子のようだった。
鼻先に触れるか触れないかのレギオンの掌に急速に熱が集まっていくのをファロウは感じる。
本能的に殺されると悟る。が、あまりに突然のことで後ろに逃げるということすら頭に浮かんでこない。身じろぎもできず、ただじっとレギオンを見仰いだままだった。
「死ぬ気か馬鹿野郎!」
ファロウの視界が空を捉えた。後ろに引き寄せられた服に首を締め付けられて息が詰まる。背中に強い衝撃。
「起きろ!」
呆けるなと、怒鳴る声にファロウは我に返った。襟を掴まれ力のままに引き倒された形で地面に転ばされた体を無理に起すと、師の見慣れた背中が見えた。その向こう側にレギオンの姿もあった。
師はレギオンと互いの両手を組み合い、力比べをするように炎の精霊を牽制している。
「ファロウ!」
名を呼ばれて少女は反射的に返事を返した。
「俺に続けよ」
師ゼルデの口調が変わっていることにファロウは気づいた。が、声に滲む有無を言わせない気迫に気圧されて言われるままに従う。
「 陰徳の賢者が秘めし 隠匿されし闇の影 」
レギオンの両掌を掴み、押さえつけている彼と、彼の声に続く少女の声が夜陰に響いた。
「 在れば無し 無し在らば 無き 痕跡消去 」
「の応用だ」と彼が続ける。
「 闇の影は 影に戻れ 」
そうしてファロウは影を模した闇に飲み込まれた。
「てことで邪魔者は追い払ったぜ?」
背後にあった少女の気配が消えたのを確かめてから、力比べをしている相手に汗を浮かばせた顔で笑いかける。
「なぁ、ゼル」
呼ばれる名で呼ばれた炎の精霊は、毛先を揺らがせる炎と風を鎮めた。
精霊自身の戦意を向ける相手がいなくなったことでその意思がなくなり、なんとか自分の意識を優先できるようになったゼルデは、両肩を揺らし安堵の息を吐いた。
「ありがとうございます。ザレス」
硝子の瞳は硝子のままで、見慣れない白の前髪と赤の後ろ髪に、戸惑いを隠せないザレスは顔を歪ませる。
そして己の現状。
〝体が入れ替わった〟ことはすぐに察した。
どうしてだ。と、言おうとして、
「返してもらっただけです」
口を噤む。
「貸していた体を返してもらっただけです」
竜の術は同族の目すら欺く。
ゼルデは自分とザレスとそれぞれに互いの体に変化の術をかけて、その上で魂と精神の交換をした。
簡単に説明しているが、人の領域では変化の術ですらまともに扱えない。
ゼルデは過去にザレスを助ける為、半竜であるが為に持ち得た知識と力を使って、半人であるが為に実行に移すという暴挙に出た。
世界の規律に逆らわない竜では無理だし、人間では端っから駄目だったゼルデの理想。
抱えて夢見ていた理想の中では一番に最低なものだったが、危険を犯しただけはあって、契約違反に怒りを孕み彼を苛む精霊すらも騙しきった。
にへらと脂汗を滲ませて笑う赤髪のゼルデに白金の髪のザレスは捉える手をひたすら強く握り返した。
「結果、自分の首絞めてれば世話ねーぜ」
指摘にゼルデは苦笑した。
「一見してオカシイんだよ。いくら風と火は相性がいいからって、命じたのがおまえだからって、レギオンを風どもが護るとも思えんし、俺にも炎の精霊にしても聖王都を目指す理由が無いっつーのによく押し通したな」
別の見方をすれば、ゼルデが竜の力を思うように扱えなかったのも道理だろう。知識故に魔力は扱えただろうが、人という器では竜特有の巨大な力は己を破壊してしまう危険性がある。元より友人の体を粗末には扱えなかっただろう。
ゼルデは完全にザレスが精霊に飲み込まれる前に、自分達の体に変化の術をかけ、肉体の入れ替わりを試みた。竜である自分ならば精霊のもたらす苦痛は程度が知れているだろうし、何より自分は半分とはいえ竜族だ。逆に精霊を滅する事も出来るだろうと考え、最悪死を覚悟して行ったそれは、しかし、失敗に終わった。彼の体を奪う前に、精霊は彼の魂をその身に取り込み喰らっていたゆえに。
器の質を変えただけで、現状はなんら変化しなかった。
それは何も出来なかったのと同じだった。
ただ、竜の肉体という頑丈なる器だったからこそ、許容に耐えられず粉々になるはずだった体は崩壊を免れ、亡霊のような者ではなく、生者として世界に留まっていられたということだろう。
風は聖火の属性になってしまった主をなおも慕い、レギオンは意思無く衝動的な破壊活動をしながらも、王都を目指すという明確なる目的を持ってしまっていた。
バンっと、少女は見えない壁を叩いた。
呪文の形から高等存在消去の魔法だと信じていたのに、これは一体なんなのだ。
存在を隠匿する以上に空間が分断隔離されている。分断されているのに分離されず安定し、しかも共有がなされている。こんな現象は初めてだった。
何度も障壁を叩き戸惑うファロウの耳には、二人の会話が届いている。なのに、こっちは姿も声も見えるし聞き取れるのに、あっちには少女の姿はおろか声さえ届かないのか。
やたら深刻に、楽しそうに、親密な会話を繰り広げる二人の表情をはらはらとした気分で少女は見ていた。
ファロウも魔術士の端くれである。
自然の力と人工の力、精霊と竜の力の違いくらい肌で感じ、ある程度までなら測ることもできた。
竜と人と精霊との混ざり合った力が二人を取り巻いて小さな渦を描いている。見習いの目から見ても、危険だと思えるほど禍々しく膨れ上がっている。
視認できている。その事実に鳥肌が立ち、不安が増した。
「奇跡だったのは……」
歪む顔でゼルデは呟く。
「奇跡と思えたのは、貴方が、ザレス、貴方が貴方として精霊と分離されていたことだった……」
「ああ」
頷くザレス。
「おまえとの最後の再会のあとから、俺は精霊が作り出した俺の精神空間に閉じ込められていた」
永遠にと。竜だけでなく、精霊にも心寄せられていた。その事実にザレス自身が一番驚いている。
ゼルデの苦しげに歪んでいた唇が、小さく小さく、苦笑めいた笑みを象った。
「はは、もう、精霊を騙すのは困難になってきましたね……流石に」
焦点の合わない硝子の目にゆらりと炎が揺れた。
精霊が執着してるのもまたザレスと言う男だった。肉体さえ拘束し、彼の存在軸を多次元――ここでは精神空間か――に移せば永遠に得られるものと信じていたのに、単純なる単語で検索されピンポイントで引き抜かれ、偽者まで用意されていたことにゼルデの意思で押さえつけていた精霊は、その無表情を顕わな怒りに変えつつあった。
獲物を留めて置けない役立たずな檻は要らない。それが、炎の精霊の意思となる。
奥底で、ぽつりと灯火が揺れた。
灼熱を体の
空の系統の風の属。風竜の血を持つとはいえ、片親は人間で、肉は半分以上侵され、自由意志さえままならず、ゼルデはただ内部から焼け爛れて行く事を静かに感じ、耐え、受け入れるしかなかった。古代種でもなく、純血種でもない混血のゼルデでは自然物の調教は容易くない。ただ流されるままに受け入れるしかなかった。
ゼルデはザレスの右腕を掴む。縋る様に。
掴まれた手の熱さに、ゼルデが内包する魔力の濁流にザレスは知られずに息を呑んだ。
その身が精霊に蝕まれるのと共に、ゼルデを途方もない眠りが襲っていることを察した。彼が人であるが故に、その事象からは逃れられない。
ザレスは胸中で舌打ちする。同じと言うわけじゃないが、術を使う者同士、少しでも油断した友人に怒りさえ込みあがる。
「ザレス」
名を呼ばれた。苦痛に歪む昔は友と呼んだ彼の顔を覗きこんで、
「わかってる」
熱に浮かされ潤む焦点の合わない目に、ザレスは頷いた。わかっていると、自分が何をすればいいのか、ゼルデが何を望んでいるのか、わかっていると頷いた。
「楽に逝かせてやろう」
破滅の呪は心得ているとザレスは応えた。
ゼルデの顎に指を掛け、上向かせる。
掌はゼルデの胸に。確実な死を与えるために、心臓の真上にあてがった。
「でもそれは俺の役目でしょうね」
言葉と共に、一本の腕がゼルデの身を貫いた。
ザレスは両目を張り裂けんばかりに見開いた。
突如出現した存在に体が震えて、視界さえ揺らぐ。
目前に生えた腕に、その持ち主を見て、戦慄く唇が名を綴る。
「リーガ、るーダ……」
囁きにぴくりとゼルデの指が動いた。
ゼルデが視線を上げる。そこには抉り出されてなお鼓動を打つ己の心臓が高々と掲げられていた。急激に内部を迫り上がった血を堰き止められずゼルデは全てを吐き出す。
「りーがるー…ダ」
噴き出すように吐血したゼルデの姿にザレスは目を瞠り、先細る呼び声のその奥に秘められた響きにリーガルーダも口を閉ざす。
返り血を浴び半身を血で染まりながらゼルデの姿のザレスを見る陸竜の鳶色の瞳。その穏やかさにザレスは息を詰めた。
知人の胸を貫き、生きたまま心臓を抉り出したとは感じさせない穏和な表情に、ザレスは強烈な違和感に襲われた。これが現実なのかと自分の目を疑った。
「リー……る、ァ」
短い呼吸の中、それでも言葉紡ぐゼルデにリーガルーダは痛ましそうに顔を歪ませ、悲しく頬笑んだ。片腕を廻しゼルデを抱き締める。
「お疲れ様でした。 ――やすらかに」
音はなかったように思えた。ただ、耳が音を拾うことを拒んだだけかもしれないが。
それだけ、現実味を欠いていた。
握り潰され飛び散った血が視界一杯に広がる。
しかし、それはザレスではなくゼルデ本人が見ている光景だったのかもしれない。
ザレスの意識はゼルデの血を浴びるか浴びないかの瀬戸際で暗転していた。
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