赤銅の髪の魔術士【12】




 トス、と。限りなく小さな音。

 それは彼が、地面に降り立った音。

 ふくらはぎを隠すほど裾の長い袖なしの上着は炎という色彩に勝るとも劣らない鮮やかな赤色。その上着の裾も真紅の長い髪も、陽炎でゆらゆらと蠢いている。

 赤い衣服から伸びる四肢はしなやかで目を疑うほどにも色が白い。

 その肌と同じくらい白い前髪。その中から覗く緋色の目は無感情に、少しばかり離れた地面に横たわる少女を見下ろしていた。

「……」

 閉じられたままの口。

 ただ、じっと見つめたまま、彼はその場を動かない。

 さわさわと冷たい風が彼の頬を、髪を触り彼の周りを一周する。

 親しげに彼を取り巻く冷風の動きが一瞬、止まった。

「レギオンッ!」

 鋭く響いた声に、彼は顔を上げた。

 ゆっくりと振り返る。

 ようやく追いついたゼルデの形相は元が綺麗なだけ壮絶なまでに歪んでいた。その顔。表情。涙が無いのが不思議なほどだ必死なそれだった。

 駆けてくる。全身汗でびっしょりになっていながらも走ってくる。彼に向かって。

「ザレスッ……。ザレス・レギオンッ! ……ザレス」

 れかけた掠れた声で幾度も名前を呼ぶ。

 火の照り返しで赤銅に輝く白金の髪を持つ青年を〝彼〟は知っている。〝彼〟の目を通して精霊は知っている。灼熱に焼けただれていく記憶の中でその姿だけがはっきりと残っている。

 青年は何度も彼の名を叫び、駆けつけ、そして声を失った。

 彼を見て、ではなく、彼から数歩手前で横たわる少女を発見して驚きに言葉を失った。

 レギオンはただ無言で、その師弟の様子を見ている。

 横たわる弟子ファロウと。

 その弟子に駆け寄って抱き起こす師匠ゼルデティーズとを。

「……ファ、ロウ?」

 レギオンがその場を離れる気配をみせないことをいいことに、ファロウに駆け寄ったゼルデは、そっと、少女の名を呼び、彼女がなんの反応を見せないことでその優しいと定評のある綺麗な晴天の双眸を大きく見開いた。

「目を開けなさい、ファロウ・スペンドッ」

 響き渡る怒号。それでも少女は目を開けない。指先を動かすとか瞼を震わせるとかの反応も無い。

 驚愕で目を見開くゼルデの背後で脆くなった建物が、彼の衝撃をあらわすかのように崩壊する。

 降りかかるはずの大量の火の粉は見えない壁に阻まれて、温度差で生まれた風に運ばれ、空へと舞い上がった。奇しくも少女が体験した状況に似ている。

 見えない壁。

 それは、イズリアスがファロウに与えた守護の風か、それともレギオンを取り巻く守護の風か。

「レギオン」

 少女を地面に横たえて、ゼルデは立ち上がった。

 ふわり、と赤銅の髪が揺れ動く。赤の光を反射させる青の双眼は動かず、ひたすらにレギオンを見据えている。

「聞きたいことがあります」

 声音は、どこまでも静かだ。怒り、ではない。ただ、淡々としている。

「レギオン……貴方は……――」

 しかし、問いかけの声は途中で切れた。

 自分を見据える緋色の瞳は、どう足掻いても決して焦点を合わすことなく、現実を見出そうとはしない。

 レギオンとは人であることをやめた人間であり、精霊を嘲笑った人間である。その事実は今更変わるものではなく、また簡単には変わらないのだ。

 その身が精霊の意思によって動かされていても。

 その瞳が世界を認識しなくても。

 ゼルデは拳を握る。

 機を逸して出したくても出せずにいた質問を口内を湿らせた唾と共に飲み込んだ。

 見据える緋色の瞳はどこまでも遠くを見つめ、その焦点を合わせない。

 引き結んだ唇を、葛藤に歪めた後、

「それが貴方の出した結論だったらよかったんですけどね」

 ごめん。と、音も無く、唇が動いた。

 指で剣印を結び、ゼルデは腕をまっすぐに挙げて、

「私は風竜の血を引く者です」

 地面と垂直に、ただまっすぐと縦に一線を引く。

「レギオン……。私は貴方を処分しなければならない」

 地面と靴底を滑らせ、一線を引いた空間を無造作に両手で掴んだ。

「   風の王の片腕よ 今我が名において汝を 引き寄せん   」

 微かな手ごたえを確認し、片腕で見えぬ弓の弦を引き絞る。

 ゼルデの周りにたくさんの光が出現した。

 派手な動作で攻撃性を伝えても、レギオンは一向に興味を示さない。

 ゼルデはきつく、きつく唇を噛み締める。血が滲むほど強く。

「   音より速き 刹那の光 閃光 幾千の雨となれ   」

 同時に弦を掴んでいた手を離せば、ゼルデの周りで出現した千単位の光の矢が、長い線を残して、全てレギオンに突き刺さった。




 そこがどこか、と聞かれたらファロウは答えられない。

 言葉で表すのはとても簡単そうではあるものの、それを相手に想像さえるのは難しいと思えた。。

 そう。表現するのは簡単なのだ。

「不思議な場所……」

 胸の前で両掌を握り合わせたファロウは小さく、囁く。

 そして発せられた言葉と共に口からは白い霞が吐き出された。

 ファロウは思わず自分の口を掌で覆う。けれど留めおくことはできず呼吸する度に指の隙間から靄が漏れていく。

 不思議な場所。

 ファロウが一人で立つこの場所を表現するのならこの一言が一番適している。

 上も下も前後左右の全てが白濁の世界だった。

 頭上より降り落ちる光の煌き。

 呼吸をするごとに漏れる白い靄。

 体を包み込む浮遊感。

 何もかもが、経験したことのない不思議。

 その世界の中で少女は狼狽えて、戸惑って、途方に暮れる。

「私は少しでも近づきたいんです!」

 突然響いた涼やかな声にファロウは弾ける様に体を捻った。

 色が無いと思っていた光の粉が、そこの場所だけ、微かに灰色を帯びて降っている。

「だからって死ぬこたぁ、ねーじゃねーか!」

 長くも無い白金の髪を乱暴に掴まれた彼が激しい抵抗を見せる。

 綺麗な造作の顔を歪め抗う彼は自分の髪を掴む、これまた同い年くらいの黒髪の青年の顔を睨みつけた。

「貴方には関係ありませんっ! いい加減にしてください、邪魔をしないで!!」

 悲鳴のような叫びが世界に響いたと思った刹那、振りかぶった拳が彼の横顔を殴りつけていた。勢いあまって吹っ飛ぶ彼を追い、殴った青年が威圧を込めて横たわる彼の襟首を掴み、その驚愕で見開かれた金色の瞳を覗き込む。

「どんな理由があるかしらねーが、なんでそんなに自棄になってんだ? 死のうなんて滅多なこと考えんじゃぁねぇッ!」

 言うのと同時に掴んでいた襟首を前に押し出すと、彼は投げ出された重心をとっさには戻せず無様に尻餅をついた。

 彼が転んだのを合図にしたのか、ゆらりと二人の青年の姿が霞に溶け込み、消える。

 降ってくる灰色の煌きが純粋な光に戻った。

「私は、決して望めない出会いを望んでいるんです」

 一拍を置いて、今度はファロウの右の方で声が響いた。

 灰色の燐光が現れた二人の青年を囲む。

「なんで望めない出会いなんだ?」

 彼は座っていて、もう一人の青年は立っている。

 構図的に先ほどの続きかと思ったが、着ている服装が違う。

 聞かれた彼は両手で挟んでいた湯気の立つカップを握り締めた。

「望んではいけないんです」

「はン?」

 青年が腰に両手を当てて聞き返す。

 彼はばつが悪そうに顔をしかめて青年の視線から顔を逸らした。

「それが、私たちの間にある暗黙の決まりだからです」

 消え入りそうな声で彼が囁き、二人の姿が再び消える。

 見ていたその場所にはもう明るく輝く光の粉しか降り落ちてこない。

 ファロウは緩やかに波打ち始めた興奮でじんわりと汗が滲む掌を胸の前で握り締めた。

 灰色の光の気配に彼女は体を反転させる。

 今度は立ち位置が変わっていた。

 彼が座り込んでいる青年に手を差し伸べて、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

「おめでとうございますね」

 言う彼に、青年はげんなりと肩を竦める。

「おい、信じられるか? 俺が精霊術士だぞ?」

 頭を抱える青年に苦笑した彼はその場にしゃがみ込み、相手の頭を撫でた。子供扱いかよとすぐに払われる。

「悩むだけ悩んでください。戸惑うのは当たり前です。悩んだあとは考えてください。考えて考えて、考え抜いた結論を必ず私に教えてくださいね? できるだけ手を貸しますよ」

 慰めの呟きが終わるのと同時に、二つの影が消える。

 だんだんわかってきた。

 ここが、どこなのかわからなくても、自分が見せつけられているものがなんなのかは、わかってきた。

 ごくりと、少女は溜まっていた唾を飲み込む。

 場面はあっさりと変わった。

「貴方は私に教えてくれたじゃないですか。死ぬ以外の道があるということを」

 足下で藻掻き苦しむ人影。

 見下ろす白金の髪の彼。

「だから、今度は私が貴方の助けになりたい。死ぬ以外の方法を貴方に提供したい」

 切なげに囁いた青年が腕を振り上げて。

 そのまま、その場面は消える。

「ゼルなんだ」

 どんなに待っても、場面は現れない。

 呟いたファロウはその場で体を一回転させる。

 どこまで見渡しても白濁の世界。

 下も上も、右も左も、無い。

「……ゼルなんだ」

 繰り返す。

 短い白金の髪。

 青くない金色の瞳。

 多少の幼さを残した、少女の師。




 灰の嵐だ。

 雪よりも細かくて、砂よりも鬱陶しい。

「   遡る……げほっ」

 呼吸するたび喉の奥にへばりつく燃え滓に咳を起こし、呪文詠唱の中断を余儀なくされるゼルデは内心うんざりしていた。

 額に浮かぶ汗も、その汗を吸い込んで重たくなる衣服も、肌に張り付く自分の長い髪も、全て煩わしく胸の奥がざわついて気持ち悪い。

「っそ」

 柄にもなく悪態をついてしまうのは自分に不利な今の現状ではなく、予想以上に変わってしまった目の前の男の姿のせいなのかもしれない。

 千にも近い光の矢に貫かれながらもレギオンは死ななかった。

 ただ、白い前髪と真紅の後ろ髪を熱風と攻撃の余韻でなびかせて、何事もなかったかのようにその場にただ佇んでいた。

 特段あの攻撃だけでレギオンを倒せるものだとはゼルデは思っていない。

 人差し指と中指を立てて印を結び、右手を横、左手を縦に、胸の前で十字を切り、一度息を止める。

「   遡る世界の大地に根を張りし世界樹の如き 天空を制した白の翼の戦乙女の主 一瞬の継続 永遠の崩落 世界の原理に触れようとする愚かなる賢者に 不死と不老の命題を与えた者よ 今我が名において   」

 詰めた息を細くゆっくりと吐き出しつつ、呪文の一節が終わるごとに両手で組み合わせる印の形を複雑なモノへと変えていく。

 その間もレギオンはそこを動こうとはせず、ただじっと、ゼルデを見ていた。

 違うと、唇の端を噛み切る勢いでゼルデは自分の考えを否定し、奥歯を軋ませた。

 レギオンは自分を見てはくれないと勘違いしそうになる自分を叱咤する。

 決してそうなることはないのだから、不要な期待を抱いてはいけない。

 バンと、両手を打ち鳴らせるゼルデ。

「   目撃を許したもう 原初の大地を貫いた 光の矢   」

 両掌をレギオンに向けた。

「 発雷!! 」

 視力を無残に奪い取っていく光の塊が、轟音を引き連れて、目を細めようともしないレギオンに向かって突進していく。

 が、

「っち」

 似合わない舌打ちをして、ゼルデはその場から右飛び退いた。

 二秒ほど遅れて先程までゼルデが立っていた場所に向かって、ゼルデが放った雷の塊が駆け去っていった。

 跳ね返されたのだ。ゼルデティーズという魔導師が扱う相応の強力な魔法が。

 彼はそんなことには構わず、両腕を体の横に広げ、鋭く呼気を吐き出し、

「   精練された純金 地中に埋もれる輝石 天に十字の星を浮かべ 大地より悪魔を呼び出した英雄ランリアトよ   」

 握り締めた拳の人差し指と親指を互いにつけ合わす。

 たらりと、火事の熱気のせいか、己の集中力のせいか溜まる汗がゼルデの肌を流れ落ちた。

「   その生涯を共にした聖剣 風の王子を宿したグレスミの面影を我が手に   」

 密着させていた二つの拳を、鞘から剣を引き抜くように水平を保ったまま離すと、

「   喚剣   」

 有らん限りの声で力ある言葉を発したゼルデの両手拳の間に刃が出現する。

 淡く光るガラスに似た刃身。

 リィィーン。

 鈴にも似た音が周囲に場違いなほど涼やかに響き渡った。

 透明な硝子色の魔法剣。

 重さなどないと語る軽すぎる剣を中段に構えたゼルデは腰を屈め、己の靴底を地面に擦りつける。

 常に己を召喚させた術士の体力を喰らう剣。

 握り締めれば握り締めるほど、力めば力むほど、貪欲に術者の命を削る剣。力を欲するその代償を如実に、そして明確に教える剣。

 力。

 そう、ゼルデは今、無性に力が欲しかった。

 魔導師として魔力との駆け引きを極めているゼルデ。これ以上の奇跡は望めないほど成長しきった彼は対峙すれば対峙するほど互いの力の差を見せ付けるレギオンに果てしない苛立ちを感じていた。

 望めない力を願い、叶わない約束をした自分を呪う。

 戻すことも消すこともできない。

 浮かんでは消える自分の中に秘め続ける言葉に、噛み締めた唇から鮮血が滴り落ちた。

 レギオンの金の目を見据え、ゼルデは泣きそうなまでにその綺麗な顔を歪めるのだ。

「私にはもう竜の力はないのですよ?」

 囁きは空気よりも重く、重力に逆らう術も無く地面へと消えていった。

 ゼルデの赤銅色に染まる白金の髪が揺らめき、レギオンの真紅の髪が熱気で煽られる。

 ただじっと、レギオンは見つめていた。

「私は貴方を救いたいのに」

 その焦点の合わない瞳で見つめていた。

「――救いたいのに」

 語るゼルデの姿をすり抜けて、その金色の視線は地面に横たえられた少女へと真摯に注がれていた。

 竜の力はないと告白するゼルデを無視して。

 救いたいと語るゼルデの言葉を受けとめもせず。

 ただ、じっと。

 見つめていた。

 ファロウを。

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