赤銅の髪の魔術士【10】
『忘れることができない苦しさから逃げても、別に構わないと私は思いますよ?』
『私は既に一度逃げてしまった者ですし、本当は過去に縛られるのは嫌いなんです』
師、ゼルデの声。
瞬間、ファロウは立ち上がる。
「あの!」
イズリアスに声を荒げた。
「これって、魔術ですか?」
似ていた。
初めてゼルデの目の前で発作を起こした時と。
冷たい風、遠回しな言い方。呼吸するごとに楽になっていく体。発作を起こしたとき、普段はこんなに早くはよくならない。なにかが空気に混ざって呼吸するたびに体に吸収されていく。体の中から活力が漲ってくる。体も心も回復へと向かう。
「魔術?」
彼は目を眇めた。
「魔術はおまえら人間が使うものだろう?」
何を言い出すのか。
心外だと表情を歪めたイズリアスにファロウもまた不思議そうに彼を見た。
ファロウにイズリアスは右手を掌を上向けて差し出した。
ふわり、とファロウの毛先を風が揺らす。
「おまえはよっぽど『風』と相性がいいらしい。ゼルデティーズと行動を共にしたせいか」
「ゼル?」
「気づかないと?」
何に気づいていないというのだろう。思わず首を傾げたファロウに、意地悪く唇の端を吊り上げたイズリアスはおもむろに自分の長い髪の一房を持ち上げた。
見ろと言わんばかりに示され目を向けたファロウは小さく声を洩らす。
「…… っ…」
窓から差し込む業火に、白金の髪は照り返しに赤く灼熱の色へと変じていた。
炎に照らされていない側は白金のまま。赤銅の色へと変わってしまった髪がファロウを再び追憶へと誘った。
灼熱色の現実。
十数年前の突然の大火。四方を炎で囲まれ、生き延びる術すら見つけられず、死を漠然と感じ取り、ただただ泣くしかできなかった自分を救い出してくれた存在。
大きな手と。
炎を背景に、激しく靡く赤銅の髪。
自然と、ファロウは口を両手で覆った。
「赤銅の髪の……魔術士……」
少女の命の恩人であり、少女が憧れ、再び会いたいと願った人。
「勘違いは嫌いだ」
期待に瞳を潤ませたファロウをイズリアスは切り捨てた。
人違いだときっぱりと言い放つ。
「え?」
膨らんだ想いは、冷や水をかけられて一気に萎む。
持ち上げていた一房の髪をイズリアスは優雅にさえ見える仕草で払った。
「俺は魔術など、人間がやっと扱えるあんな役に立たぬ力など興味もない」
冷めた言い草。本当に興味の欠片もないと首を振る。
「魔術士と言っていたよな? その言葉が相応しい者ならもっと近くにいるだろう? そう、俺と同じ髪の色の……」
イズリアスが誰のことを指しているのか、ファロウはわかっていた。
その可能性があることを本人から言われてはいたが、彼女は信じてすらいなかった。
「だって……違うわ。ゼルは……若いもの」
救い出してくれたのは子供の手ではなく大人の手。十二年もの昔の話。二十歳をやっと過ぎたような外見のゼルデでは話にもならない。
知識も思慮もない幼子では、魔術は扱えない。
「誰が、若いと?」
少女の言葉に、しかし、イズリアスは不思議そうに目を瞬いた。皮肉めいた、意地悪な笑みが口の端を持ち上げる。
「どこの誰がゼルデティーズをそう評価している?」
「え?」
目を軽く見開いたファロウにイズリアスは頬を歪めた。
「見かけと仕草が同じだからと誤解する。相手も同じ同胞だと錯覚を起こす。目の前の相手が、己れより遥かに巨大なる存在だとは気づかずに」
衝動に胸と喉を押さえ、身を軽く屈めてイズリアスは懸命に笑いを堪えた。
何がおかしいのか。疑問に思い首を傾げるファロウに、イズリアスは喉の奥に笑いを押し込める。
嘲りの声と眼差し。
見下す王者の視線。
尊大な態度。
そしてなにより人を小馬鹿にする意志がはっきりと見て取れる綺麗な顔が、少女の神経を逆撫でた。それでも文句も非難も一つも言わずにいられたのは、本能が警鐘を鳴らしているせいだった。逆らってはいけない、歯向かってはいけない、目の前の男はそんな相手だと抑制してくる。
しかし、表情まで心の制止は効かなかったらしい。不満と警戒と悔しさを露にし、口ほどに心情を吐露する少女の瞳の輝きにイズリアスは更に喜色ばんだ。
イズリアスは悔しさに歯噛みする姿を眺めるのは嫌いじゃないし、素直な人間も嫌いじゃない。
なんて嫌な人なのだろう。そう言いたくて言いたくて仕方がないといったファロウの声が今にも聞こえてきそうな気がして、イズリアスは己れの気分が高揚していくのを認める。
この場に彼の知り合いが――リーガルーダかゼルデがいたらさぞかし驚いたことだろう。イズリアスは珍しく機嫌がよかったのだから。
「ひとつ、教えてやらんでもない事柄がある」
機嫌をよくしたイズリアスの唐突な提案に驚くというより、その高慢な態度にファロウは不機嫌に輪をかけて、ついに眼の前の男を睨んだ。
少女の刺すような視線にイズリアスの口角はますますと吊り上がる。
「ゼルデティーズは俺の甥だ」
突然の紹介にファロウは全ての気勢削がれ唖然としてしまった。
「へ?」
間の抜けた聞き返しにイズリアスは破顔した。
「一番下の弟の一粒種だ」
笑い飛ばしてから言葉とともに悪態を吐き出す。
「結局、俺を連れ出したのは血縁で一番関係が深かっただけのこと」
忌ま忌ましげに舌打ちしているが、少女はその悪意が誰に対して向けられたものなのかわからなかった。
「はっきり言って手を貸すのは嫌なんだよ。いくら血が繋がっているといっても片親だけだろう……半分同族にしろ、人間には関わりたくはない」
一転して不機嫌になったイズリアスをファロウは驚きの目で見つめた。
薄々と彼女も感じ始めた。
徐々に理解していく。
人では持ち合わせることのできない、
綺麗な顔。
知性を秘める瞳。
本能を脅かす目に見えない威圧感。
胸を騒がす予感。
脳裏に閃く、黒と赤の警鐘の点滅。
存在自体の格の差。
大陸最強種族。
ファロウは小さく喘ぐ。
「……竜、ぞ、……く?」
まさか。と自分の考えを否定したがるファロウがいた。
そんな種族なんて伝承の中でしか少女は知らない。
動揺に頭の中が真っ白になって、重心を崩したファロウはそのまま尻餅を付いた。腰抜けた少女を見下ろし、イズリアスは下唇を左手の親指の腹でゆっくりと撫でた。
「イズリアス。そう名を聞いてピンとはこなかったようだな。ま、守護竜様よりは知名度も低いし……ちょうどいい機会だ。特別に自己紹介というものをしてやろう」
イズリアスが不遜に笑う。瞳に畏怖の念を滲ませて混乱するファロウを面白がっていた。
少女は欠片も疑わずにイズリアスが竜族であるという事を頭から信じた。それが何よりも面白かった。
証である竜の姿を見せるのも一興であったが、それをしてしまったら少女は恐怖で気絶するかもしれない。恐ろしさに引きつる顔を見るのは好きだが、すぐに気絶させてしまっては面白みもなにもない。イズリアスは愉しみはあとでたっぷりと味わおうと、奥の手はとっておくことにした。
だから、一番人間の間に広がっているだろう、もうひとつの自分の名を少女に名乗り上げる。
「〝右目の風竜〟」
その二つ名は人々の前に姿を現した色違いの瞳を持つ風竜の通称。それならば勿論ファロウも知っていた。
なぜそんなのがこんなところに。しかも自分の目の前にいるのだろうか。そのことにファロウは愕然とする。竜は偽ることをしない。偽る理由がどこにも無いからだ。だから、愕然とした。
「そして、ゼルデティーズは俺の甥だ」
人間だと思っていた。まさか、人外だったとは。
両手で頬を包む。
「待って。ねぇ、ちょっと待ってよ」
混乱しつつもファロウは必死に考える。
彼女は、自分の中の知識という辞書から風竜の項目を選び、抜き出した。きょときょとと瞬きを数回繰り返し、顔を上げイズリアスを見る。見上げて、確認して、瞬きを繰り返す。
物言いたげな視線に彼は不愉快そうに目を細めた。無言でファロウを促す。
「〝右目の風竜〟は、まぁ、別として。風の竜は人に変化するとき、必ず白金の髪に金の瞳だと聞いたわ。でも、ゼルは青い目よ?
白金の髪かもしれないけど目の色は綺麗なスカイブルーよ?」
確かに、人間ではありえない綺麗な顔の持ち主なのかもしれない。
あの若さで魔導師を名乗れる程ではあるが、この世界に女みたいに綺麗な男の人はいるし、子供の魔術士――さすがに魔導師はいないが――も極稀にいた。
竜族は己が司る力の大きさに影響されて変態した時、特定の色を持ってしまうということをファロウはゼルデから聞かされている。
風竜が白金の髪と金の目であるように。
陸竜が金の髪と鳶色の瞳であるように。
だから、変だと少女は口走る。
色違いの眼を持つイズリアスは、本人の態度から理由など伺い知れず聞けないだろうから別にしておくとして、ゼルデの瞳はどう説明するのだろう。
彼は青い瞳の持ち主なのだ。
おかしいわよ。と、疑惑の目を向けるファロウにイズリアスはゆっくりと目を眇めた。
「結局、人間は人間か……」
ぽつりと零された言葉が理解できずに、少女は目を瞬かせた。
そんな少女に、風竜は背を向ける。もう、付き合ってはいられないと。
「
颯爽と歩きだす。長い足で歩幅が大きいため、男のその姿は見る間に遠く、廊下の角を曲がろうとしていた。
「あの!」
消えていくその背を、少女は知らず大声を張って引き止める。
気怠そうにイズリアスは振り返った。艶めいた動作に、ファロウは一瞬動揺した。が溜まる唾を嚥下して両手を体の両側で広げる。
広げて、言葉を発しようと口を開けて、
「…………――っ」
言葉が、無かった。
声が出なかった。何を言い出そうとしたのかわかっているのに、言葉が出なかった。
タイミングを逸して声を詰まらせるファロウを数秒間だけ待っていたイズリアスは、小さく鼻を鳴らすと歩きだしてそのまま廊下の角を曲がって消えて行った。
茫然と、ファロウは座り尽くす。
「ゼルが……竜族…………」
囁いたファロウの、首にぶら下っていたゼルデの髪を結って作られた首飾りが、ぱさりと絨毯の上に落ちた。
自分は外出するからと、ゼルデがファロウの首に回したものだ。
結ばれた魔術の印で強化された滅多には切れない白金の髪が切れ落ちた。
落ちた首飾りの面影を残した髪を見下ろし、ファロウは恐る恐る麻の強度を誇っていたはずのそれを絨毯から拾い上げる。そして、窓を見た。
赤々と燃える窓の外の風景。外は突発的な大火で惨劇と化している。
ゼルデは火事が起こると予測していたのだろうか。ファロウが精神的発作を起こすと知っていたから、ゼルデは彼女にこれを託したのだろうか。
多分そうだろう。彼の目的がまさにそれなのだから。
知らず一筋の白金を握り締める。
「ゼルが……赤銅の髪の……人?」
燃える炎になぶられ、熱気に翻る赤銅の色。白金が映し返す炎の色。
十二年前、自分を救ってくれた、人。
否、竜。
そうだ。彼が竜だとしたら、辻褄が合う。
幼かった自分を救ってくれたのが青年であったことも、ゼルが若いのに一目を置かれる魔導師であることも。竜の成長と人間の成長の差を比べれば納得できる。
少女は立ち上がる。
窓の外を見ても、発作が再発する気配はなく、体調は不思議と落ち着いていた。
少し恐いと感じるが、これは恐怖心からの感情ではない。どちらかと言えば畏怖に近い。身体の奥に静謐が宿っている。
それが少女に与えたイズリアスの影響とも知らず、ファロウはただ自分に起きた変化に驚き、疑問に首を傾げた。
では、何故ゼルデの目は青いのだろうと。
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