赤銅の髪の魔術士【09】
まさかこんな場所でと、ゼルデは未だに信じられずにいる。
あの人は国の首都たる聖王都から安易に出られるような立場ではない。だからイズリアスの口から説明されても信じていいのかわからない。
陸竜リーガルーダ。竜族ではあるまじき隻眼を隠す事無く晒す英雄王の相棒で、大国セレンシアの守護竜。
最後に言葉を交わした日は鮮明に覚えている。
ファロウに部屋にいるように言い残すとゼルデは受け付けに直行した。
受け付けに身を乗り出そうとして、受付嬢と目が合ってそこで我に返った。
カウンターに乗せた両手を無意識に握り締める。
このままなんの前触れもなく会いに行ってもいいのだろうかと、考えが脳裏に過る。
イズリアスは彼がいることだけを自分に言って「会うか?」とは聞かなかった。
会いに行って会えるかどうかわからない。
あの人は優しいが、甘えて良いのだろうかと頭の冷静な部分が指摘する。
自分が今背負っている責任を宣言どおり果たすまでという条件こそないものの、道半ばの現状で会ってもらえるだろうか。
想像し、絶望にも似た喪失感に襲われたゼルデは落胆に肩を落とす。
階段へと進む足先を無理矢理変えて、
「ゼルデティーズ」
名を呼ばれた。
振り返ると、イズリアスが不敵な笑みを浮かべて階段を降りきったそこから歩いてきた。
「外へ行こうとしていたのか?」
長い足。数歩、歩いただけで追いつかれる。
イズリアスを目の前にして、相変わらず背の高い方だと不謹慎にも思った。
伸びた手が、ゼルデの頭を鷲掴みにする。
驚くゼルデを引き寄せたイズリアスは、にやりと唇の端を持ち上げた。
「それとも、逃げようとしてたのか?」
耳障りな声で囁かれてゼルデは威嚇するように目を見開く。頭を鷲掴むイズリアスの手首を掴んだ。
「違います!」
強く否定した青年に、おお恐いとイズリアスは素直に手を引いた。その動きにゼルデも手を離す。
「違います……」
大声で否定したものの、声を荒げてもいい相手ではないことに気づいたゼルデは顔を背けて、小さく繰り返した。
イズリアスは突如と目の前で繰り広げられた美形美女の争いに圧倒されている受付嬢をちらりと一瞥し、ゼルデの腕を引いた。
その有無を言わせない力強さに、半ば引きずられる形でゼルデは受け付けとは反対側にある窓へと連れてこられる。
「イズリ……」
「太陽が沈む方角。インデリアの木の根元に建てられた石碑。風は山から海へと向かって走る」
外を見て囁いたイズリアスにゼルデはハッと息を呑んだ。
「間隔があまりにも短い……短すぎます!」
ぎろりと、二色の瞳で見下されて、ゼルデは口を噤む。
「風の動きは見ていたんだろ? ある意味タイミングもよかったしな」
言外に、次に狙われるのはこの街だとイズリアスは言っている。そしてその瞬間はすぐにでも訪れるのだ。
「一度しか言わないぞ。そして、チャンスもこれで最後だ」
「……最後」
「何故とは聞くなよ。それはおまえが一番わかっているはずだからな」
言葉にゼルデは頷く。
「被害は広がるばかりだ。しかもこの街を焼き尽くせば次は聖王都が狙われる。少なくとも俺の占いではな」
驚きに目を見開くゼルデをイズリアスは目を細めて見た。
「おまえも知っている通り、聖王都は陸竜の加護がある。そう易々と燃えはしないだろうが、あの国まで俺達の問題を広めるな。厄介事が厄介事を招く」
断言されてゼルデは顔を俯かせ拳を握り締めた。
歪む唇。閃光のように脳裏に閃いた言葉を寸でのところでゼルデは飲み込む。口に出したら最後、自分はこの男の逆鱗に触れ、最悪殺されるかもしれない。殺されるわけにはいかなかった。少なくとも自分が今抱えている問題を解決するまでは。
沈黙するゼルデにイズリアスは肩を竦めただけだった。
「ま。里の方からも色々意見やら提案やらが持ち上がっているが伝える程でもないから言わない。ただ、同じ間違いだけはするなよ」
常にない優しい言葉に弾けるようにゼルデは顔を上げた。
そんな魔導師にイズリアスは意味ありげに口端を持ち上げて、人差し指は窓の外を示す。
「せいぜい死なない様に頑張れ」
言葉とともに示された窓からは、強風ではなく、炎そのものが街を飲み込んでいく光景が広がっていた。
三日も滞在しないうちに全財産が底を尽きてしまう高級宿に泊まってしまった。
目的の為には見境がない師匠だと知っていたが、人命もああなのだから金銭感覚もあってないようなものなのだろう。
「必要経費……必要経費なのよ、ファロウ。納得しましょ」
では人命は? と自問して自答に詰まるファロウである。
同じ天秤に乗せないほうがよろしい問題だと、勝手にそわそわしはじめて落ち着けず、ゼルデの言いつけを破ってファロウは部屋を飛び出した。
「せっかくの宿だもの、色々見ないとねぇ」
こそこそと後ろを付いていくと、見かけのわりに気配に聡いゼルデにすぐに見つかってしまうので、部屋の前の廊下を端から端に往復することから始める。
「うわ、ふかふか」
くるぶしまで埋まってしまいそうなほど柔らかい絨毯に思わず歓声を上げ、ゼルデが消えた逆の方向へと歩きだしたファロウは廊下に並ぶ数々の絵画や壷、タスペトリーを眺め、ただただ感嘆の声を漏らす。それらは少女の旅の良い思い出と記憶に刻まれていく。
「なんだろ、生きている次元の違いを目の当たりにしているわ」
窓の外を眺めると木々や草花が強風に煽られ、弓なりにしなっていた。なのに、窓は沈黙したままだ。それだけしっかりとした作りなのだろう。ただの強風ではびくともしない。
それが不思議に見えて、窓にへばりつくファロウ。
その一瞬後に窓の外の世界が赤く染まることを少女は知る由もない。
炎が街を飲み込んだ次の瞬間には身を翻し外へと駆け出したゼルデを見送り、突然の火事に慌てて逃げる者達とは逆の流れで階段を登っていたイズリアスは、階段を登り切り廊下を曲がった先で窓枠を掴んで呼吸困難に陥っていた少女を発見する。
胸に両手を当てて必死に喉をひくつかせている姿はイズリアスには見覚えがあった。
ゼルデティーズを師と仰ぐ人間の娘。魔術士見習いとして面倒を見る為に行動を共にすると、イズリアス達と疎遠になった理由のひとつ。
「――ッ!」
少女の俯いて見えない顔を思い出したイズリアスの腕を掴む者がいた。
弾けるように振り返ったイズリアスは転じた視線の先で必死の形相を浮かべている従業員を見た。ついでだから反撃にと固めていた拳から力を抜く。下手に騒ぎを起すと自分を人里に引っ張ってきた者が煩くなるのを思い出して、それだけはできれば願い下げだと興醒めた。
「早くお逃げください! 火の回りが異状なほど早いのです!」
逃げるならこっちだと、掴んだ腕を引っ張る従業員をイズリアスは鼻先で笑った。
「ここは良い宿屋なのだな。普通なら我が身可愛さに誰よりも早く逃げ出す」
炎の回りが早いと知っているのなら尚更だ。
こんな状況下で誉められた従業員は唖然と彼を見るが、すぐさま我に返った。
「お願い致します。お逃げくださいませ!」
繰り返す従業員はしかし、誰かの手が必要な状態になっているファロウには目もくれていなかった。イズリアスもそのことには気づいている。
彼は掴まれている腕を大きく払った。
力づくで振り解かれ、目を瞠る従業員に彼は背を向ける。
「安心しろ」
逃げようとしない我侭で火事に対し動揺しない客にどう対応していいのかわからず戸惑う従業員にイズリアスは一言を向けて大きな身振りで腕を払った。
澄んだというにはあまりにかけはなれた耳障りな音を立てて、窓硝子が爆ぜて割れる。
廊下を駆け抜けた強風にただの飾りとして置かれた花瓶や壷が薙ぎ倒されて粉々に砕け散った。
熱気じゃない、冷風。
右手で窓枠に縋りつき、左手で胸を押さえ、蹲っていたファロウは、頬を擦り抜けて、髪や服の裾をはためかせる冷たい風に苦しさに細めていた目を見開いた。
顔を上げる。
窓枠を掴む右手は熱いのに、廊下は吹き抜けていった風のおかげなのか、ひんやりとして涼しい。
「落ちたか……脆いな、はやり」
割れた窓から雪崩れ込む熱風に髪を激しく靡かせる男が一人。
まともに風の塊を受けて窓を割って屋外へと飛んでいってしまった従業員に軽い一瞥を向けてから、イズリアスは再びファロウに視線を戻した。
じっと、少女に向けられた視線。
金色と鳶色と、色違いの二つの印象を他者に与える不思議の瞳。一つは冷たく傲慢めいた色で相手を圧迫し、一つは優しく優雅な色で相手を心和ませる。そんなちぐはぐな視線の感触に、いつしかファロウを苦しませる発作は治まっていた。
胸から左手を離す。呼吸は気にしなければ気づかないほど自然な動きで、先ほどまでの苦しみが嘘のようだ。
熱風に煽られているイズリアスは煩わしげに目を細めると片手を軽く目線の高さまで挙げ、静かに降ろす。
「割り切ってしまえ」
男が腕を上げ下げしただけで空気の流れが止まった。
イズリアスの髪を揺らしていた熱気は零下の温度まで一気に下がる。廊下は霜さえ降りてもおかしくないほど凍えた。
「過去は変えられん。心の傷だがなんだか知らぬがそんな物生きていく上で必要ない」
一歩、近づいたイズリアスにファロウは薄く口を開ける。
「あの……」
「精霊の生み出す炎は聖火。全てを焼き尽くす。人間なら生き延びただけでも幸運と思え」
一歩一歩、確かな足取りで近づくイズリアスは、ただそれだけの動きでさえ彼女を圧倒させ、威圧感でファロウの心臓を掴みあげた。
「過去の幻影に振り回されるほどおまえは暇か?」
「なに、を……」
少女は生唾を呑む。
「苦しむのが嫌ならすり替えてしまえ。苦しみ不自由を強いられて無駄にしてしまう時間が惜しくはないか? 後悔はしたくないだろう?」
居丈高に少女を見下ろす彼の質問に彼女は目を瞬かせる。
何を伝えようとしているのかファロウにはわからない。
そんな少女の脳裏に何かが閃いて、通り過ぎた。
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