神剣

鍵崎佐吉

神剣

 俺はただ息をするのも忘れて目の前の光景を眺めていた。あの臆病者の弥助が群がる化物どもを目にもとまらぬ速さで次々に切り伏せていく。ちらりとのぞいた弥助の顔には一片の恐れも躊躇いもない。まるで鬼神か何かが弥助に憑りついてその体を操っているようだ。暗闇の中で白く輝く刃が閃くたび、どす黒い血を吹きながら化物どもがなぎ倒されていく。その時、弥助の背後から槍を持った男が突進して来ているのが見えた。

「危ない!」

 そう声を出したが俺の足は動かない。あれは人の形をした物の怪なのだ。ただの人が勝てる相手ではない。弥助は素早く背後を見やるが、その刀は目の前の化物に突き刺さったままだ。これでは間に合わない——そう思った。


 この山奥の村には取り立てて珍しいものなど何もなかったが、一つだけ他所にはないものがあった。それは無心流という古流剣術の道場だ。そこの師範でありこの村の村長でもある善一郎さんは、とても気立ての良い人で周りに威張り散らすようなこともなかったので村の皆から頼りにされていた。ところがその一人息子である弥助は呆れるほどの意気地なしであり、そして俺の幼馴染でもあった。

 俺より一つ年上だが体は小さく、それ以上に肝も小さい。野山に遊びに行こうと誘っても、外は危ないからだとか父上に怒られるだとか言ってなかなか出たがらない。剣術の稽古だっていつもへっぴり腰でまるで勝負にならない。あれが本当に善一郎さんの子なのか、と本気で疑う者もいたほどだ。だがその善一郎さんは人の前で弥助を叱ったりするようなことは一度もなかった。弥助の方もそんな父のことを心から慕っているようだった。周りの者は道場の将来を不安に思いながらも、善一郎さんに口を出すわけにもいかず、ただ二人を見守るばかりであった。

 ある日俺は思い切って善一郎さんに言った。

「弥助には任せておけない。俺を跡継ぎにしてもらえませんか」

 道場の中では俺が一番腕が立つという自信があった。それを聞いた善一郎さんは怒るでも喜ぶでもなく、ただ少し苦笑しながら答えた。

「お前にはそう見えるかもしれんが、あいつはあいつなりに努力しておるのだ。どうか弥助のことを助けてやってほしい」

 そう言われてしまうと返す言葉はなかった。


 それは信じ難い光景だった。弥助はおのれに突き出された槍のその穂先を素手で受け止めていた。さらにそのまま槍を握りこんで思い切り引っ張ると、同時に反対の手で刀を引き抜き、体勢を崩した化物の首をさっと薙ぎ払った。槍を受け止めたその左手は赤く染まっている。剣筋には少しの狂いもない。だがその立ち回りは狂っているとしか思えない。俺は目の前の化物どもに似た不気味さを弥助に感じた。

「おう、おう。お主、本当に人なのか?」

 暗闇の向こうから声がした。ゆっくりと姿を現したのは黒いぼろきれをまとった大男だ。確かに人ではあるようだが、化物と同じ虚ろな目をしていた。弥助は男に向かって刀を向ける。

「この化物どもと共に立ち去れ。でなければ殺す」

 普段の弥助からは想像もできないほど殺伐とした声だった。しかし男は怯んだ様子もなく、にやりとその口を歪ませる。

「それはできんのう。無心流に伝わる神剣とやらをいただくまではなぁ」

 男の背後から刀を携えた浪人風の男が一人現れる。その浪人は明らかに他の化物とは異なる気を放っている。死人なのか、それとも妖の類なのかはわからないが、相当な手練れであることは確かだ。弥助はただ静かに正面を見据えていた。


 ある日村に妙な男が訪ねてきた。どう見ても貴人には見えぬような出で立ちであったが、やけに血色の悪い付き人を幾人か連れていた。村の長に会いたいと言うので道場へと案内したが、どうにも胸騒ぎがしたのでこっそりと様子をうかがうことにした。男は善一郎さんに向かって言った。

「この無心流には古の時代より伝わる神剣があるとうかがった。是非ともそれを譲り受けたいのだが」

「……はて、何のことやらわかりませぬな。うちはしがない田舎道場、そのようなものはございません」

「そうか、そうか。それならば仕方がない」

 男がすっと指を動かすと側に控えていた付き人がいきなり善一郎さんに切りかかった。間一髪それをかわした善一郎さんは切りかかって来た男の手を取ってそのまま放り投げ、床に倒れた男の首を踏み砕いた。しかし絶命したはずのその男は手足をばたつかせてなおも抗おうとする。

「……この者、人ではないな。さては妖術師の類か」

「御名答」

 その瞬間、投げ倒された男の腹が裂けて中から大ムカデが這い出てくる。予想だにしないことで、善一郎さんの反応も一瞬遅れた。俺が慌てて道場に駆け込んだ時には、善一郎さんの足にムカデが食いついていた。

「師匠!」

「私にかまうな! 平太、そいつを切れ!」

 善一郎さんは男の手から刀をひったくってそれをこちらに投げてよこす。どうにか受け取って刀を構えるが、その切っ先は震えている。真剣で人と切り合ったことなどない。おまけに相手は妙な術を使う得体の知れぬ奴だ。生まれて初めて死の恐怖を目の当たりにした俺は動けなかった。

「どうした? 来ぬのか? ならばこちらから行くぞ」

 男の影がゆらりと揺れたかと思うと信じ難い速さでこちらに踏み込んでくる。刀を振る暇もなく俺は突き飛ばされ、道場の外へと転がっていく。どうにか気を取り直したときには男は俺の目の前にいた。

「そうさな、では村の者を一人ずつ殺していくとしよう。何人目で神剣の在処を吐くのか見ものだのう」

 男が腕を振るとあたりに黒煙が立ち込めまるで夜のように暗くなる。闇の中から幾人もの土色の肌をした鎧武者が現れる。俺は声を上げることもできずにその場にへたり込んでいた。もうおしまいだと思った。

「平太!」

 その時、聞き馴染んだ声が聞こえた。闇を切り裂き疾風のような早業で男を蹴り飛ばしたのはあの弥助だった。


 浪人が刀を抜くと息の詰まるような強烈な殺気があたりに満ちる。浪人の背後に回った男はけたけたと笑いながら弥助に語りかけた。

「これはかつて名のある剣豪だった者でのう、わしの傀儡の中では一番強い。これに神剣を持たせれば、もはやわしに敵う者はおらん」

「神剣だと……?」

「無心流に伝わるという神剣、それを寄越せば命だけは助けてやろう」

「……なるほど、そういうことか」

 まさか弥助は神剣についてなにか知っているのだろうか。しかし仮に神剣が存在していたとして、こんな奴に渡してよいはずがない。弥助は刀についた血を振り払うと男に言った。

「ならばその神剣、今から見せてやろう」

「なに……!?」

 その瞬間、弥助は浪人に向かって駆けていく。勝敗は一瞬で決した。弥助の肩には深々と刀が突き刺さっている。浪人は無表情のままだ。無表情の生気のない顔が張り付いた首が宙を舞い、ごとりと地面に落ちた。

「これは、なんということじゃ」

 男の虚ろな瞳にかすかに驚愕の色が浮かぶ。無造作に刀を引き抜き放り捨てた弥助は、流れ出す血を気にも留めず口を開いた。

「これが無心流奥義・神剣『皮切り』……人を超えた神の剣だ」

「なんだと……?」

「無心流に伝わる神剣とは刀のことではない。その血とそれを継ぐ者、つまり俺自身のことだ」

 淡々と語り続ける弥助は、戦いに勝ったにも関わらずまるで何かに打ちひしがれたかのように見えた。

「無心流の極意は無心の境地、恐れを捨て去ることにあると開祖は説いた。だが俺のご先祖であるこの人はただの人ではなかった。開祖は生まれながらにして痛みを感じぬ体の持ち主だった」

 痛みを感じぬ体と、その血。俺の中で弥助と過ごした日々が大河のように流れていく。弥助はひどく臆病で弱虫で軟弱な奴だった。だが一度も弥助が泣いているところを見た事がない。「痛い」という一言すら聞いた事がない。

「人の身では恐れを完全に消し去ることはできぬ。痛みを感じればどんな強者でも動きは鈍る。だが痛みを知らぬ者は恐れを知らぬ。それこそ無心流の極意。神剣『皮切り』は最小の守りで致命傷を避け、己が肉を断ちつつ必殺の一撃を叩き込む業。人の身では成し得ぬ、開祖の血を引く者のみに許された奥義なのだ。お前がどうこうできる類のものではない」

 黙って話を聞いていた男はやがて呆れたように首を振った。

「やれやれ、これは当てが外れたのう。ならばこんなけち臭い場所に用はない。お主の言う通り帰らせてもらおう」

 そう言うと男はゆっくりと闇の中に消えていく。あたりの景色が元に戻った時にはすべてが幻のように消え去っていた。

「弥助」

 そう呼びかけるといつもの柔和な笑顔で弥助は応えた。その表情に苦悶の陰は微塵もない。

「無事だったか、平太。父上も大事ない。早く手当てして差し上げなければ」

 それは強がりでも気遣いでもなかった。弥助は自らが負った傷の深さすら理解できていないのだった。俺の表情を不思議そうに眺めて、そしてようやくはっとしたように苦笑した。

「まずは自分の傷を塞がないと、血が出過ぎて死んでしまうな」

「……本当に痛みを感じないのか?」

 弥助はゆっくりと頷いた。

「我が家には代々開祖の血を引く者が生まれる。俺のひい爺様もそうだったらしい。だが父上が言うには、これは才ではなく病なのだそうだ」

「病? なぜだ?」

「見ての通りだ。痛みを感じないから、俺は自分の負った傷に気づけない。小さな怪我でも命取りになり得るのだ。だから無茶なことはするなとずっと言いつけられてきた」

「だがどうしてずっと隠していたんだ?」

「……無心流は開祖が悟った無心の境地を、普通の人々にも広く伝えるために開かれたものだ。だがその奥義は決して常人には会得できぬ。それが知られれば無心流はすぐに廃れてしまうだろう。奥義を伝承できる者は開祖の血を引く者と最初から決まっているのだからな。厳しい修練を重ねる甲斐がない。それを悟られぬよう嘘を重ねて、いつしか神剣の話だけが独り歩きしていったのだろう」

 そこまで言うと、弥助は不意に俺の方へ向き直って頭を下げた。

「頼む、平太。このことは誰にも言わないでくれ。……無心流がなくなるのはいい。だが父上が嘘つきと罵られるのには耐えられないんだ」

 こいつはずっとそんな思いを抱えて生きてきたのか。自分よりも他人が傷つくことを恐れて、ただ一人蔑視と嘲笑に耐えていたのか。あの日善一郎さんの言った言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。

「わかってる。それより早く傷の手当てをして来い」

「ああ。すまない、平太」

 遠ざかっていく背を見送りながら俺は考えた。俺ではあいつを守ってやることはできないかもしれない。だがあいつが傷ついた時、側で支えてやることはできる。俺も弥助の後を追って一歩踏み出した。


 後に「神剣」と謳われる伝説の剣豪の傍らには、常にその友が付き従い、彼のことをよく支えたと伝わっている。

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神剣 鍵崎佐吉 @gizagiza

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