第一編 王国編
第一章 王城からの脱出
第1話 攫われた死の商人
かび臭く少々ほこりっぽい空気が鼻をくすぐる。
嗅ぎ慣れてはいるものの、トラブルが絡む類のよくない匂い。
目覚めは最悪だ。
どうにも記憶がはっきりとしないが、背中を押し返す固すぎる質感。
ここがアジトでも定宿のどこかのホテルでも無いことは明らか。
いや、そもそもベッドですらない。
そう、打ちっぱなしのコンクリの上、と言われれば納得だ。
酔いつぶれた記憶はないし、恐らく敵の手に落ちたのだろう。
一気に覚醒していく思考の中、耳が微かな衣擦れや息遣いを捉えた。
どうやら近くに人が複数居るらしい。
人を誘拐した連中だ。どう考えても友好的な相手ではない。
しかし情けないな。
死の商人とも呼ばれるまでになってこのザマか、いい歳して何をしてるんだか俺は……。
部下たちには散々に揶揄われるだろうが、さっさと逃げて酒をしこたま煽って忘れるしかなさそうだ。
はぁ……とにかく情報だな。
意識が戻っていることを気づかれないように、ほんの薄っすらと目を開ける。
電気が来ていないのか火の影が天井に揺らめいている。蝋燭か何かだろう。
自然光は感じられず、おおよその時間すら分からない。
まぁ、おそらく地下だろうな。
仕事の都合上、こういった類の場所にやたら縁があったから何となく分かる。
しかし……参ったな、いつどこでやられたかすら覚えてない。
あぁ、確かイスタンブールの郊外で受け渡しのはずだったか。
空港を出てタクシーでの移動、ホテルのチェックインも済ませていたはず、だよな。
ちっ……妙に記憶が曖昧だし頭もはっきりしないな、薬でも使われたか。それにしても分からん……なぜ今俺を誘拐するんだ。
取引はグレーどころかほとんど合法で軽いものだったし、近頃は敵らしい敵も居なかったはずだ。
となると、残るは政府の連中か。
いや、安直すぎる。大体そんな下手は打っていない。
金も人も必要なところにちゃんと振ってあるし、奴等にそう易々と俺を捉えられる訳がない。
それにそもそもが、仮に痕跡を捉えたとしても俺を捕まえるだけの資源を投入するメリットが存在しないはずだ。
「気がつかれましたか?」
高く透き通るような声が耳に届く。若い、それもまだ大人とは言えない年頃の女の声だ。
まぁ、バレたのなら寝てるフリをしていても仕方がない。
拘束されていないことは分かっていたが、まさかこのような声の主に起こされるとは。
こちらを容易に制圧できるから手足を自由にしてあるのだろう、そう思っていただけに軽く驚きだ。
てっきり、無駄に図体がデカいだけの、知性を一ミリも持ち合わせていない男に叩き起こされるものだ、と割り切っていた。
まぁ、どちらがいいかは比べるまでもない。
「ああ、今起きたところだ」
身体を起こしてそう広くない部屋を見渡すと、天井と代わり映えのしない石造りの壁に蝋燭が並んでいる。
その壁に沿って俺を囲むように、全身ローブ姿で頭から爪先まで隠した者たちが十数人居て、彼らよりずっと近く俺の足元にあたる位置に声を掛けてきたであろう女が立っていた。
前言撤回、筋肉だるまに胸倉掴まれて叩き起こされる方がよかった。
「お加減はいかがでしょうか?」
「……どうだろうな」
おいおい……こいつらは一体何なんだ、見覚えどころか心当たりすらまったくない。そもそも灯りが十分でないし一人を除いて顔も見えないが、あまりのことに頭がパニックを起こしそうだ。
「いやはや……」
なんというか、フードを深く下ろし足元まですっぽりと隠れる揃いの白いローブ姿の連中に囲まれるのは、単に銃を頭に突きつけられるのとはまた違った恐怖感がある。
……俺も今度どこかで試してみるか。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、まぁな」
少し落ち着いてきた……気がしないでもない。
しかしこの女、いや少女と言う方が正しいか。彼女の服装も周りと同じくまともとは言い辛い。
人を攫っておいて、これから何かしらのパーティーにでも行くのか、と聞きたくなるようなドレス姿なのだから。
そのドレスもあまり見慣れないデザインだ。
白を基調として露出は少なくどこか教会のシスターを彷彿とさせられる。
まぁ、造り自体はかなりいいがシスターでは無いな。
胸元にあんな豪奢な首飾りをつけていれば信者も寄付する気を失いかねない。
「ここは、どこだろうか?」
実行犯は周りの連中かもしれないが恐らく指示した奴はここに居ない。
そう当たりをつけ、もたらされる情報を信用できるかは別にして、きっかけでも掴めればと少女に話しかけてみた。
「イーデルベルク王国の王都にある王城です。私は前王の娘で神託の巫女を任されております。イリアリア=イーデルベルクと申します」
……聞いたことない国名だな。
どうにも嘘をついているように見えないが、これは『そういう』連中に連れ去られたと考えるのが妥当か。
それにしても……ため息が出るほど滑らかで艶のあるブロンドの髪、光をはじく海のように輝くブルーの瞳、そして天女ですら羨むほどの白い肌。
余人の容姿の好みなど些細な問題にすらならないほど美しい少女なのに……可哀相に、どっぷりハマっているようだ。
オカルトや宗教関連は面倒だから普段なら可能な限り避けていくが、周囲に援けは無いし自分の命に関わっては困る。
億劫だが、しばらく乗っかるしかないか。
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