35 お花が咲いていたんですよ
やっと終業時刻。
夜十八時、仕事帰りの人波の先頭に立って、バードは何食わぬ顔で街に出た。
トゥーアロードのもっとも賑やかな街角で、ボックスに入った。
IDを打ち込む。
指が震えている。
何を、どう話せばいいのか。
あの会話の断片を見つけてから、そればかり考えていたのだが、最初の呼びかけ方が分からない。
心を決めかねていた。
すでに、五百年ほどの年月が流れている……。
業務の空き時間に、現在のおじさんの思考を盗み見ることはできた。
しかし、そうはしなかった。
もちろん作業記録が残り、それを見た者に不審を抱かせるかもしれない。
それに、自分の父親代わりになってくれた、愛してやまない人のIDをデータベースに打ち込むことはとてもできなかった。
なにより、おじさんに謝らなければいけない。
どんなことがあっても私が守ると言ったにもかかわらず、わずか百年も経たぬうちに、その存在も、名も、そして何もかも忘れてしまったのだから。
声が震えた。
「こんにちわ」
そんなありふれた言葉で、おじさんに話しかけた。
モニターの向こうには、初老の男性が写っている。
頭髪は半ば禿げ上がり、貧相な体格をしている。
しかし血色はよさそうで、かすかに微笑んでいた。
昔と同じように墨色のTシャツを着ている!
私の容姿は、おじさんが覚えている昔の私のままだろうか。
「はい。こんにちわ」
声が返ってきた。
ああ……、おじさん……。
思わず声になりそうになったが、あくまで他人行儀な挨拶を。
「お久しぶりです。パパ」
バードはコンフェッションボックスの機能と、そこで交わされる会話を監視するアラートシステムの癖を熟知している。
どんなアルゴリズムの場合も、会話の最初の段階が重要なのだ。
「ん? どなただったかな?」
「以前、街でお会いしました。お礼を言いたくて」
「へえ」
「道を教えていただいて、助かりました。ありがとうございました」
フライングアイに道を聞く人はいないだろうが、しかたがない。
冷や汗の出るでまかせだったが、システムの監視モードがランクダウンするのは、約二千文字以降。
また、無言が続いたり、脈絡のない話もまずい。
唐突に地名や人名などの固有名詞が出るのもNGだ。
「昨日、面白いことがありましてね」
「……」
「街角にお花が咲いていたんですよ」
「……」
「珍しいでしょ。あるお店の前で。そのお店の主人か奥様が、育てておられるんでしょうね」
実際、街の中で植物を見かけることは少ない。
私が勤めているセンターなど、政府系の建物の中庭などでは芝生や花壇があったりもするが、花を育てる個人はごく稀だ。
切花は生産されているが、一般市民にとってはまさに高嶺の花。
この話題を選んだのは、おじさんが興味を持ってくれるのではないかと期待したから。
植物や自然が好きだったから。
木々の話ならなおさら良かったが、残念ながら、街中に樹木というものがない。
お入り、と言ってくれなければ、部屋に入ることはできない。
モニターの画面を見つめるだけだ。
おじさんはまだそう言ってくれない。
肉体のないアギでも、たとえバーチャルの空間であっても、見ず知らずの人を自室に招じ入れることはまずない。
しかし、かえってそれは良かったかも。
なまじ完璧なリアリティを伴って面会すれば、我慢できずに取り乱してしまうかもしれない。
自制心を最大限に発揮して、無難な話題が途切れないように気遣った。
おじさんも、他愛のない言葉を、もう少し発してくれればいいのだが……。
「へえ、どこで?」
地名を口にするしかない。
「ハンプット通りの西の方」
もっと辺鄙な街の、何の変哲もない地区の名前を口にしたかったが、おじさんには私がニューキーツの街からアクセスしていることが表示されている。
嘘の地名を使うわけにはいかない。
「そう。じゃ、僕も見に行ってみようかな」
「ええ」
花を見たというのは事実。
コンピュータはスルーするだろう。
「場所は?」
できるだけ文字数を使うように、たった一輪の花のありかを説明した。
ついでにそれがどんな花なのかも。
「ところで、貴女は……」
おじさんの声に緊張した。
いよいよだ。
懐かしさがこみ上げてきた。
涙声になるのをこらえて、答えた。
「おじさん……。私、本当にごめんなさい……」
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