34 警告ランプが点滅しなければ
ニューキーツ政府治安省情報局の一室。
バードがコーヒーカップを手に自席に戻ると、コンピュータが警告ランプを点滅させていた。
自動監視がマーキングした人物コードを送ってきている。
要注意Eレベルとある。
担当している市民の数は数万人。
一人の監視員が特定人物群を担当するのではなく、監視員は重なり合っている。
したがって、世界中の誰もが三人のオペレータから監視されている計算になる。
人の目による監視の前に、コンピュータによってスクリーニングされるのだが、そのアルゴリズムは日々変更されている。
何らかの言葉が、あるいは行動がアラートシステムの人工知能に引っかかると、監視員に知らされるのだ。
人工知能がなぜ要警戒、要注意と判断したのかは、ほとんどの場合、知らされることはないが、今回はその理由が明示されていた。
「英知の壷 訪問異常」
誰がどこに何回行こうが、いいじゃない。
と、心の中で毒づいてから、その人物IDにアクセスした。
英知の壷で見る夢は、その人自身の過去であることが多い。
監視員も同じものを見ることはできるが、さすがに気が引ける。
会話を盗み聞きするのも同じようなものだが、それでも文字としてデータ化されていることで、罪の意識は薄まる。
しかも、この人物は要注意Eレベルでもあるし、緊急度は低い。
まず、その人物が誰かと交わした会話のアーカイブを表示させた。
はいはい。あなたは誰?
誰とどんなお話をしたの?
適当に選んで、ひとつのデータを開いた。
それにしても、まずいコーヒーね。
本物のコーヒー豆を挽いて淹れたコーヒーの味や香り。とうの昔に忘れてしまったけど。
アーカイブの中には、兵士との面会時の会話が並んでいた。
ひとつのフレーズが目に飛び込んできた。
バードは思わず叫びそうになり、カップを取り落としそうになった。
「かつて愛した二人の女性を、僕はずっと探し続けている」
「ええーっ、ふたりも!」
「ハハ、ひとりは恋人。もうひとりは、なんていうかな、娘といわせてもらってもいいだろう」
「へえ! なんていう人? 私はすぐに忘れてしまうけど、パパなら何百年経っても覚えてるんでしょう」
「もちろん忘れるものか。サンジョウ ユウ。そして娘は、タチバナ アヤという」
バードはこの部分を何度も何度も、読み返した。
「サンジョウ ユウ」と「タチバナ アヤ」
橘 綾……、……、私の名前……。
本名を……。
この男性は……。
何度も読み返した。
様々な記憶が、一気に押し寄せてきた。
忘れていた!
えっ!
どういうこと!
まさか!
そんな!
今の今まで、忘れていた!
私が誰か、ということを!
ああ、もう間違いない。
これは……。
この男性は……。
涙が頬を伝った。
やっと……。
会える……。
おじさん!
同僚に悟られないように、すばやく涙を拭き取ったが、次から次へとこぼれ落ちる涙をこらえることはできなかった。
気を取り直し、この会話を交わした二人の人物のIDを凝視した。
監視室には筆記用具は持ち込めない。
他人のプライバシーを盗み見る場所だ。
いかなる理由があっても、データを持ち出すことは許されない。
もちろん、自分のモバイルにも、どのような形であれ、記録に残すことはできない。
どこで探知されてしまうか分かったものではない。
おじさん!
今すぐ会いたい!
それが無理なら、今すぐ声を聞きたい!
コンフェッションボックスに駆け込みたかったが、省のそれは利用できない。
不良な「アギ」を接触監視するため、あるいは囮捜査として使用するものであって、確実に利用記録が残る。
勤務時間が終わるのを、今か今かと待った。
覚えた二つのIDを忘れないように、繰り返し繰り返し反芻しながら。
頭の中を、いろいろな記憶と思いが駆け巡った。
出会いの日々。
楽しかった日々。
失意の日々……。
そして、おじさんと話し合ったこと。
おじさんはアギ。つまり、記憶のヒト。
私はマト。つまり、肉体のヒト。
本当はアギになりたかった。
その方が性格に合っていると思ったから。
でも、私達にはひとつの目標があった。
そのためには、おじさんと私は別々の道を進んだ方がいい。
そのことを決めるのに、議論の必要はなかった。
おじさんがマトになって、良いことはひとつも無かったから。
言われるまでもなく、私はマトになることを選んだ。
しかし、想像していた以上に、マトの、つまり私の記憶力は貧弱だった。
どんなに頑張っても、思い出せない事柄が多かった。
というより、思い出さねばならないことがある、ということ自体に思いが至らなくなっていった。
そしていつしか、おじさんのことを忘れ去った。
おじさんと交わした約束も。
そして、自分がマトになった理由も。
今日、警告ランプが私の前で点滅しなければ、大切なことを忘れたまま、薄っぺらな思考力の中で小さな生を繰り返していただろう。
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