30 出生の記録、再生の記録、共にない
その日も、イコマは英知の壷に向かった。
楽しかった思い出に浸るために。
あれは、イコマが五十歳代の頃だった。
優と知り合ってまだ数年。彼女はまだ二十歳代。
二人の間で、ようやく「愛」という言葉を使ってもよいという雰囲気になっていた頃だった。
一人の少女を挟んで、川の字になって寝たことがある。
その夜の思い出。
イコマと優は、京都の山奥の隠れ里で殺人事件に巻き込まれていた。
事件の真相を探るため、里の少女、綾と行動を共にすることになる。
不思議な少女だった。
村の老婆、奈津に見初められ、聞き耳頭巾の使い手としての訓練を受けていた少女。
聞き耳頭巾とは、鳥の声や木々の声を聞き分けることのできる不思議な布。
おとぎ話の道具ではなく、実在していたのだ。
そんなものが代々引き継がれてきた、それほど山奥の、大昔の不思議が今もなお目の前にある神秘が充満しているような村だった。
綾。
小学生とは思えない芯の強さ。
疑うことを知らない者のみが発散させる純真な喜びを、小さな体全体で表現していた。
あの夜、イコマと優の間に寝そべった綾が吐露した不安。
小学生らしい言葉と裏腹に、聞き耳頭巾の使い手としての悩み。
けなげな一言一句が、そのかわいい唇から無理なく発せられるたびに、瞳は不思議な色合いを帯びた。
イコマはその瞳を見つめ続けた。
そこには頭の薄くなりかけた自分が写っていた。
その奥底には、子が親に見せるゆるぎない安心と信頼が静かに横たわっていた。
あの夜、イコマは、子供を持つということがこれほどの幸せに満ちたことなのか、と初めて知ったのだった。
数年後、綾は、おじさんの養女になると言って、イコマの部屋にひとり、やってきたのだった。
建築家としてそれなりに活動しているたイコマは、当時、独身の五十男。
その事務所兼用の狭いマンションの一室に転がり込んできた、自称歌手兼モデルのプータロー三条優は二十代の美女。
そこに綾を加えた三人の暮らし。
周囲にはどう見えようとも、ひとつの典型的な幸せの形だったと思う。
華々しいことは何ひとつない。
かといって、退屈かというと、もちろん違う。
イコマが施主に褒められたといっては喜び、優の歌がテレビで流れたといってははしゃぎ、綾が結婚したときにはイコマは父親として涙した。
いさかいといえば、ほとんどの場合、「私達、結婚しないん?」という優の決まり文句から始まり、イコマの「熟考しておく」で終わる。
そんな平凡な幸せの日々。
三人の暮らしは西暦2022に始まり、一時は結婚した綾が抜けたものの、戻ってきてから十年ほどは続いた。
終幕は令和最後の年。
優が部屋を出ていった。
置手紙を残して。
当時のイコマは、建築家業は続けていたものの、齢七十を回っていた。
優は四十代半ば。綾は三十代半ばの頃である。
探偵から、連絡があった。
「早いな」
「成果の乏しい仕事は、さっさと片付けて、次の仕事をしろってことだ」
「では、聞こう」
ニューキーツに住むサリという人物は三人。
一人は政府機関に勤めているアンドロで年齢は二十二。正確にはサリーという。
もう一人は囚人。
服役十年のベテランだ。こちらはマトでザリという。
最後の一人は現役の兵士。
名前はサリ。
誰の情報を聞きたい?
「兵士を頼む」
「一人だけでいいのか? 三人分聞いてもお代は一緒だぞ。特にマトで十年の服役ってのは珍しいぞ」
「服役中に兵士として、外に出られるのか? しかも数年間」
「ありえない」
「では、現役兵士の方を」
探偵の情報は貧弱だった。
本名は不明。
女。
年齢は二十。
「肌の色は白で瞳は濃いブラウン。ま、珍しくもないな。髪は金髪。というより白銀に近い。これは珍しい」
「フム」
「人種はメルキト。しかし、出生の記録、再生の記録、共にない」
「ん?」
「普通は直近の再生年月日がわかるんだが、今回はない」
「メルキトで二十歳なら、普通は数年前に再生されているはずだ。それに、今はどうなっている。十日ほど前に死んだのかもしれない」
「疑問は預かっておく。先に進むぞ」
両親は不明。
一応、ホメムとマトの間に生まれたことになっているが、真偽は怪しい。
非常に珍しいケースだからな。
両親の名は、父親の方がマトでシーザー、母親の方がホメムでアントワネット。
これも怪しい。きっとでたらめだろう。
「それは通称名か?」
「サリ本人の本名がわからないのに、親の方がわかるはずがない」
探偵がサリの住所を読み上げた。
「もちろんIDは不明。といっても、わかっていてもこれは教えられないがな」
探偵は、自分の音声は監視システムにスルーされるようになっているが、万一ってこともある、と弁解した。
「さて、先の疑問だが。どうぞ」
「まず、再生記録がないとは、どういうことだ?」
「言葉通り。記録はない。再生されたことがないという意味ではない」
「調べられなかった、というべきではないかな」
「私の調査力は、業界随一だ」
「それは失礼した。しかし、業界なんてものがあるのか?」
「あんたは私の友人であり、顧客だ。しかし、答えられないこともある」
ため息が出そうになった。
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