31 自分のままでいることが難しく
探偵は信頼できる男である。
イコマが友と呼べる数少ない人物でもある。
精神が壊れかけたアギが多い中で、この男は六百年間も調査会社を経営し続けている。
イコマは探偵としてこの男と知り合ったのではなく、この男が書いた数百年前の人類の大量地球退避事件を痛烈に批判する論説を読んだことがきっかけだ。
イコマは、その論説に賛同の意見を寄せたのだった。
正義の男であると思っている。
しかし言葉に、妥協や思いやりがなく、刺々しい。
イコマ自身もそうだが、アギとなって数百年も経つと、元の自分のままでいることが難しくなってくる。
言葉が刺々しいくらいはいい方だ。
アギの義務として課せられているマトらとの面会を除いて、社会との接点を捨ててしまった者も多い。
以前は盛んに連絡を取り合っていた者も、多くは消えていった。
自らデータを消去してしまったのか、政府によって削除されたのかわからないが、思考のみの存在で生き続けていくことは、思いのほか難しいことだった。
たとえ聖人君子であろうと、世界的に有名な学者であろうと、稀代のエンターテイナーであろうと。
残っている者も、忍び寄る狂気に立ち向かわねばならなかった。
今の自分の思考が、正常な状態で連続したものなのかどうか。
それが、わからなくなっていた。
普通なら、昨日の思いは今日に引き継がれ、明日に繋がっていく。
決められた起床時刻に、コンピュータのスイッチが入り、思考が始まり、時間になるとスイッチが切られて思考は中断される。
起床時や就寝時は、人として生きていたときと同じように、ゆっくり覚醒していき、眠りに落ちるがごとくに思考が薄れていくようにプログラミングされている。
とはいえ、その決まりきったパターンに、誰もが正気を失っていく。
生きた肉体を持つマトにも、同様のことが言えた。
アギほどではないにしろ、彼らには彼らの悩みがあった。
本人達は悩みと感じていないかもしれないが、次々と失われていく記憶に、本来の自分を見失っていったマトをどれほど見てきたことか。
綾とて例外ではなかった。
彼女がマトとなり、アギとなったイコマと連絡を取りながら、ユウの手がかりを求めて生きたのは、わずか百年。
しかし三度目の再生を機に、綾の記憶から、イコマやユウの部分が失われた。
記憶のなくなった綾。
再生した綾を探し出すことはできたものの、これまでのいきさつを話しても、彼女が以前の綾に戻ることはなかった。
そしていつしか、行方がわからなくなった。
思い出すことを止めた者。
考えることを諦めた者。
自分が何者かを思い出せなくなったとき、人は往々にして人間としての尊厳さえも失っていく。
アギにとってもマトにとっても、よほどの強い生きる目的がなければ、退行はあっても進化はない。
そんな彼らとの面談。
縁もゆかりもない「息子」や「娘」との会話。
アギとしての義務であるが、それは苦痛ではなく、逆説的ではあるが、イコマにとって自分の正気を保つ意識付けとなっていた。
イコマにとって、唯一の希望。
生きる目的。
それは、幸せだったあの三人の暮らしを取り戻すこと。
同じような暮らしは望めないまでも、どうしてたと言いあって、笑いあうこと。
記憶をなくした綾はもう無理でも、ユウだけはなんとしてでも探し出して……。
きっと彼女は、どこかで生きているはずだから。
そんなちっぽけな望みだけを頼りに、生きている。
建築家としての夢や、様々な望みはすべて消え去った。
あの幸せの感情を一瞬でもよいから味わいたい。
ただそれだけを胸に、変わっていく世界を見つめているのだった。
サリという兵士を詳しく知りたいと思ったのも、サリのしぐさがユウのそれに似ているような気がしたから。
ただそれだけのことでも、イコマは望みを繋いだ。
そうして、自分の生きる力を振り絞っていた、といってもよい。
英知の壷に向かうのも、記憶を味わうためだけでもない。
六百年ほど前、日本の金沢郊外で、光の柱の守人、当時は女神と呼ばれる存在となったユウに出会った。
あの頃と今の光の柱は、機能も規模も大きく変わっている。
しかも、日本のそれは今はもうない。
ユウが今もどこかの光の柱の守人である証しはまったくなかったが、もしやひとかけらのヒントが落ちてやしないか、と思うのだった。
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