17 記憶の駅
記憶は、その前日に遡っていく。
車窓には単調な白い景色が広がっていた。
ここ数年、日本に雪が積もることはなくなっていたが、今年は例外で、関西でも時折雪が舞った。
この雪景色が隠しているもの。
大地の様子を、生駒は知っていた。
生駒だけではない。日本中の誰もが知っていること。
かつての豊かな田園地帯と陽光溢れる街々。多くの観光客を集めた著名な温泉地。
そんな郷愁を生む風土だけではなく、道路も信号機も、家々も、そして人々の姿も、何もかも、雪が覆っていた。
サンダーバード号は、特急列車とはお世辞にもいえないギクシャクした動きで、ノロノロと雪を掻き分けつつ北陸の地を進んでいた。
生駒は、前に座った綾の顎の辺りを見つめていた。
横顔に夕陽が当たっている。
痩せた頬。
美しい顔立ちに似合わない、がさついた肌。
長い髪は健在だが、少女の頃の艶やかさはもうすでにない。
「雪よね」
大阪から列車に乗り込んでから、はじめて口を開いた綾は、目の前に広げた食べかけの弁当に蓋をした。
「ああ、珍しいね」
「おじさんとの旅行も、これが最後になるのかな」
生駒はなにも応えることができなかった。
最後……。
そう、かもしれない……。
「死にやしないよ」
「うん」
「何しろ相手は、女神なんだから」
女神という言い方に、綾は久しぶりに目を合わせて、少し笑った。
もう、どれだけ話し合ったことだろう。
この旅は、自分が行かなくては。いや、自分のための旅なのだから、と主張し続けた生駒。
私の出した結論に、自分で決着をつけたいという綾……。
三ヵ月間、準備の傍ら、その議論は膠着し、こうして二人して日本海に沿って北上している。
列車は加賀を過ぎた。
もう何年も前に無人化された列車に、到着駅のアナウンスはない。
そもそも、このあたりになると、乗客は数えるほどしかいない。二人が乗る車両にも他の人影はない。
窓の外の景色が、微妙に変化し始めていた。
「ほら、見て」
綾が声をあげた。
「雪が」
深く降り積もり、白一色だった雪原に変化が起き始めていた。
家屋の残骸が垣間見える。時折、かつては田園であったと思しき地形が見えたりする。
雪解け……。
山の緑が濃くなったようにも感じる。
陽の光が少し強くなったようにも感じた。
「こっちは暖かいんだ」
終着駅、金沢まで後四十キロほどだろうか。
金沢駅。
日本中、地方都市はどこもそうだが、しんと静まり返っていた。
改札はおろか、プラットホームにもコンコースにも人影はない。
駅だけではない。
街中に、動くものの気配は感じられなかった。
かつてはあれほど賑やかだった大きな天蓋のある駅前広場には、崩れかけた数台のバスや車が放置されたまま。
もてなしドームと呼ばれた門や、歩行者通路の屋根のポリカーボネートはすべて割れ落ち、寂しく骨組みだけを残す。
それさえ錆び付いて、薄暗くなりかけた空に黒い残骸を晒すのみ。
店という店、ビルというビルはシャッターを降ろし、あるいは略奪の跡を残したまま、既に廃墟と化していた。
雪は全く積もっておらず、むしろ蒸し暑いとさえ感じた。
ただ、空だけは冬空らしくどんよりとして、今にも降り出しそうな雲行きだった。
天空のただ一点を除いて。
生駒は駅前広場への階段を下りようとはせず、街の様子を観察した。
大通りを遠く、ぼろをまとった者がふらふらと横切っていくのが見えた。
人、か。
コンコースへ戻った方がいいだろう。
自分は老人である。連れは女。
この街の住人に好奇の目で見られて、良いことが起こるとは思えなかった。
今晩は、コンコースの人目につかないところで眠ることになるだろう。
「どこに行くのか」
唐突に呼びかけられて、生駒は思わず躓きそうになった。
綾が生駒のコートの影に身を隠そうとした。
そのまま逃げ出したい衝動に駆られたものの、体が自然と振り向いた。
「聞こえないのか。質問している!」
戦闘服に身を包み、武器を携えた男が二人立っていた。
「……」
若い兵士がゆっくりと軽機関銃を水平に構えるのを、上官らしき方が押し留めた。
「我々は、陸上自衛隊中部方面隊金沢駐屯地の者である。改めて聞く。どこに行こうとしているのか」
肩の力が抜けた。少なくとも、この男達は自分達に危害を加えるものではない。
しかし、生駒は嘘を言った。
「故郷なのでね」
この街の住人ではないことは、この自衛隊員の目に一目瞭然なのだろう。
自分達を誰何する目に、強い不信が表れている。
しかし、本当のことを話したところで、理解してくれるとは思えなかった。
むしろ、自分達の目的を阻まれることは目に見えていた。
「観光に」
この街に、なんと似つかわしくない言葉だろう。
見え透いた嘘に自衛隊員が納得するとは思えなかったが、それ以外にいい言い訳は思いつかなかった。
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