第9話 ときめき、そして逆転へ

 狭い六畳の部屋の中には宅配ピザのチーズ臭と、あんまし馴染めそうも無いブランデーの匂い。

 ちっさなテーブルの上には、食べ散らかしたスナック菓子の袋。

 その向こうには爆睡中のエゼが、相変わらず軽いイビキをかいていた。

 そして俺の隣には、アルコール臭いシルがぴったりと寄り添っていた。

 とろんとした目つきで俺のことを見上げている。

 相当、眠たそうに見えるほど、目は半開きだ。

 先ほどシルから、とっても魅力的なお誘いを受けた。

 男として当然夢見た楽しいことに加えて、ポイントまで貰える。

 逆転は無理だと悲観し、諦めかけていた俺に、生きる希望を見事に復活させてくれた。

 悪魔見習いだけど、天使に見えた。

 それにちょっと可愛いし。実はまあまあタイプだし。

 セコく頑張ってた俺を、ちょっとだけ好きになってくれたシル。

 悪魔ではなく、人間だったら末長くお付き合いしたいくらいだ。

 では時間もあんましないことだし、早速頂きますか。


「シル、い、いいんだよね」

「もう、恥をかかせないで……」


 妙に艶っぽい声で囁かれて、また舞い上がった。

 胸の高鳴りが半端ない。

 肌が上気しているせいか、幼いくらいに見えていたシルが、なんだか妙に色っぽい。

 もし人間の少女だったら間違いなくNGだが、悪魔枠なので許される。

 さあ行くぞ。今更やっぱり嫌って言ったってもう遅いんだからな。

 エゼがすぐ近くにいるのは流石に気になったが、そんなことも障害にならないくらい俺は燃えていた。


「シル!」


 ガバッと抱きついて押し倒した。

 俺の下には頬を赤く染めたシルがいる。

 眠たげな眼差しで俺を真っ直ぐに見ている。

 これから起こるであろうすごいことに、まだ心の準備が出来ていない感じで恥じらっている。

 やっぱり可愛いじゃないか。


「来て……」

「いただきます」


 シルの小さくて柔らかそうな唇に、俺の唇がゆっくりと近づいて行った。

 そして俺は本当の漢に……なるはずだった。


 ドン!


「なんだ!」


 地震でも起こったのかというぐらいの大きな音と振動がやってきた。

 何事かと思い、取り敢えず一時停止して成り行きを見守る。

 振動は一瞬だった。多分地震ではない。

 隕石でも近所に落ちたのだろうか。


「いったい何なの……」


 絶対起きないとシルが言っていたのにも拘らず、目をこすりながら、エゼは辛そうに起き上がった。

 そして窓の外を見て慌てだした。


「シル。大変だわ」

「え? どうしたの?」


 シルは上になっていた俺を押し退けて立ち上がると、エゼの覗き込んでいる窓の外に目を向けた。


「二人とも、どうしたんだ?」

「ここで待ってて下さい」


 すっかりいつもの調子に戻ったエゼは、そう言い残して、急いで部屋を出ていった。

 シルも後に続く。


「シル!」


 シルは一度振り返って手を合わせた。


「ごめんなさい。続きはまた今度」


 そう言ってシルも慌てて出て行った。


「いや、もうすぐタイムリミットだし……今度はないんだよ……」


 もうその気になって、一匹のオスになってしまっていた俺は、この不完全燃焼な感情のやり場をどうにもできなかった。



 エゼとシルが部屋を飛び出してからしばらくして。

 待っていろと言われていたが、残り時間も少ないことだし、俺は二人の後を追いかけることにした。

 家を出て周りを見渡したが、二人の姿は見えなかった。

 俺は何だか急に不安になった。

 死を目前にして落ち着いていられたのは、あの二人がいてくれたからだと気が付いた。


「シルー! エゼー! どこにいるんだー!」


 言いようのない恐怖に駆られるように、俺は家の近所を彷徨った。

 子供の頃から住み慣れた住宅街。

 おおよそ知らない場所のないこの一帯を、俺は声を枯らしながら二人の名を呼び、走った。

 エゼの行なった天使の奇跡が、この一帯の住民を眠らせてしまっているからなのだろう、俺がいくら泣き叫んで喚いても、誰も怒り出す気配は無かった。


「シル、エゼ、返事をしてくれ……」


 しばらく二人を探し回ったあと、肩で大きく息をしながら、涙に濡れた顔を拭うことも忘れて、俺は路上に立ち尽くし呆然としていた。

 その時、俺はシルの声を耳にした。

 大慌てで俺は声のする方へと駆け出した。

 角を曲がってすぐ目に飛び込んできたのは、誰かに絡まれているシルだった。


「許してください。お願いです……」


 シルは涙を浮かべながら懇願していた。

 シルの前には大柄な男がいて、丁度こちらに背を向けていた

 その手はシルの肩を掴んでいる。

 俺は一瞬で逆上した。


「てめー、その汚い手を放しやがれ!」


 後ろを向いているため、どんな奴だか分からなかったが、俺はそいつの肩をぐいと掴んで、振り返りざまを思わず殴っていた。


 バシッ!


 高い音がした。

 拳に骨ばった肉の感触。

 生まれて初めて人を殴った。

 怒りのせいか、それとも激情に駆られて誰かを殴ってしまったせいかは分からない。

 俺は小刻みに体が震えるのを止められないまま、倒れ込んだ男の顔に目を向けた。

 薄明るい街灯に照らされた男は黒い服を着ていた。

 ガタイが良かったので若い男だと思っていたが、どうやらけっこう歳をくってそうだった。


「シル、大丈夫か?」


 俺は男から目を離さずにシルに呼びかけた。


「はい。私は大丈夫なんですけど……」


 酔いがすっかり醒めた感じのシルの声は何だか硬かった。

 そして黒服の歳をくった男は、俺に怒りの目を向けながらゆっくりと立ち上がった。

 そしてやっと俺は気が付いた。

 この目の前にいる男の正体に。


「あんたは……」

「下等な人間の分際で……」


 暗い街灯の下、男の目が真紅に光った。

 忘れようもない。あの白と黒の不思議な場所で会った、あの黒い方のじいさんだった。

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