第十五話:ツン

 十三橋じゅうさんばし市 十三橋市立公園


 十三橋市立公園は十三橋市の中では随一の大きさを誇る公園だ。その公園のほぼ中心にある中央広場をぐるりと回る環状歩道のところどころに設えられたベンチの一つに私たちは腰かける。途中でリンジくんが買ってくれたアイスカフェオレのプルタブを引き、いただきます、と言ってから一口飲むと、小さく嘆息した。

「……ふぅ」

 晶子しょうこさんや涼子りょうこ先生のカフェオレとは天と地ほどの差があるけれど、缶の物は缶の物で独特な甘みが気に入っている。

「リンジくんの話を聞く前に、一ついい?」

 一つ、気になることを思い出した。

「あ、うん」

「レイジさんっていうのは?」

 羽原はばら君が二回ほど、リンジくんの事をそう呼んでいた。そしてリンジくんはそれを知られたくないように誤魔化していた。何故私たちの前ではリンジと名乗っているのか。バンド者のように、バンド内、バンド者として活動する時には名前を変えるという理由でもあるのなら別に気にするほどのことでもないと思うのだけれど。

「あ、やっぱり聞こえちゃってたか」

「誤魔化し方が古典すぎて面白かったけどね」

 苦笑するリンジくんに苦笑を返す。必死だっただけに滑稽で、今思い返すとちょっと面白い。

「ホントはね、本名は永谷鈴司ながたにれいじ、っていうんだ。すずつかさでレイジ、だから読みを変えてリンジ。鈴司ってさ、字面では地味だけど、音だけだとなんか恥ずかしいから普段からリンジって名乗ってるんだ」

 ナガタニレイジ。本名はそういう名前だったのか。私としては最初がリンジくんだったから今更レイジくんに変えるのもおかしいだろう。それに自分でレイジが恥ずかしくてリンジを名乗っているのなら、今まで通りで良いということだろうし。

「ふむ……。私の方からはとりあえず以上、かな」

 とりあえず聞きそびれていて気になっているのはそのことくらいかな。もう一口、カフェオレを飲む。

「そっか」

 少し、待つ。

 リンジくんとしても恐らくは話し難いことなのだろうことは判る。だけれど、話さなければ気が済まないという感じも凄く伝わってくる。ややあって、リンジくんは決意したように口を開いた。

「……さっきも話したけれど、僕は二年前まで昨日の彼らと一緒に馬鹿をやっていたんだ。これこそ名前なんかよりよっぽど恥ずかしい話だけれどね。でも人に迷惑をかけてしまって、とある人に目を覚ませって叱られて、それを辞めたんだ」

「二年前……」

 私が中学三年生の頃だ。中学三年生、と言えば少し前のような気もするけれど、まだ最近、と言っても良いくらいの時間しか経っていない。

「うん。バイクでこけて、人に怪我をさせてしまったんだ」

「事故?」

 あんな無謀な運転をしていればそうなってもおかしくはない。きっとリンジくんだけではなく、何人も事故は起こしているんだろうことは想像に難くない。

「うん……。事故自体は単独で、勝手に僕がこけたんだけど、歩道に人がいて、その人を巻き込んじゃったんだ」

(……)

 洒落にならない話だ。普通に運転をしていて起こしてしまった事故であったとしても、運転ミスで歩行者を巻き込んでしまってはどんな言い訳も立たない。それが暴走行為をしていた末のことならば尚のことだ。

「巻き込んでしまった彼は、今ではきちんと全快してくれて後遺症もないみたい」

「それを良かった、って言って良いのかはちょっと判らないけれど……」

 確かに怪我をさせて、その怪我が完治して、後遺症もないのであれば、そこだけに焦点を当てるのであれば、良かったと言えるのかもしれない。だけれど、リンジくんの暴走行為が無ければ、その事故に巻き込まれることも、怪我をすることもなかったのだ。だから、良かったね、なんて言えない。

「そうだね。怪我が軽かったから良かった、後遺症がなかったから良かった、なんて僕の勝手な都合なんだ」

「……」

 当然、リンジくんもそれは判っているのだろう。怪我が長引かなくて良かったじゃん、で済むなら、きっとリンジくんは今も馬鹿をやっていた頃のままだろうし。

「何か一つ間違えれば、僕は人一人の一生を台無しどころか、死なせてしまうかもしれなかった。それを教えてくれた人がいて、自分でも真剣に考えた時に、本当に恐ろしくなって、もうこんな馬鹿は辞めようって思ったんだ」

「なるほど……」

 それが普通、一般的に常識的な考えだろうことは私にも判る。オートバイや車を運転する人たちは、そのことを肝に銘じて運転してほしい。特に私などは咄嗟の出来事に反応しにくい。普通の人ならば避けられることでも避けられない可能性の方が高いんだから。

「ちなみにその家族からは断絶状態で、治療費も払わせてもらえないまま」

「そう、なんだ……」

 それは、そうなのかもしれない。そういうこともあるのだろう、くらいにしか判らないけれど。実際、辛いことなのだろう。許されないことをしてしまって、許されない、という現実はなかなか受け入れられるものではないと私は思う。怪我の度合いなどではない。一つ何かが違えば命を落としていたかもしれないほどのことをされれば、その相手家族の怒りは当然の物として存在することも、理解はできる。

「僕は実際恵まれていたよ。こんなに馬鹿をやってた僕を止めて、本気で叱ってくれる人がいて、事故を起こした時も、両親は僕を見捨てはしなかった。だからね、少しずつでも貯金して、改めて、きちんと治療費を払いに行きたいって思ってる」

「え、もしかして」

 私のあまり良くない思い付きは、すぐにリンジくんの言葉に依って肯定されてしまった。

「うん。高校は途中で辞めた。チームを抜けるのに落とし前も付けた。彼と彼の家族に治療費だけでも受け取ってもらいたくて、自分の力でお金を稼ごうと思って家も出た」

「……」

 はじめからその気持ちを持っていればこんなことにはならなかった、というのは結果論だ。その気持ちが当時はなかったからこそ、取り返しのつかないことをしでかして、やっと気付く当たり前がある。それは本当に恐ろしいことだ。相手が全快してくれたからまだ良かった、と思えるのは、本当にリンジくんの都合でしかないことは判るけれど、でもそれでも、その話を聞いて、私は、相手の怪我が大したことが無くて良かった、と思ってしまった。

「色々、全部落ち着いたら、やっと僕は普通以下から抜け出せるんじゃないか、って思ってる」

「……なんか、ごめんね」

 例えリンジくんが望んで話したいと思ったことでも、これは辛い現実だ。過去のリンジくんがどんな人だったのかは判らないし、あまり知りたいとは思わないけれど、今こうして、辛い現実にしっかりと前を見て立ち向かっているリンジくんは、凄いと思う。それが、彼の言う普通以下なのであったとしても。

「何でハナちゃんが謝るの?」

「辛い話を態々させちゃったから」

 悪びれもせずに言うので、やっぱりこういうところは憎たらしい。私に変に気を遣わせないためにわざと明るく振舞って。

「いいんだ。むしろ聞いてほしいと思ったのは僕の方だし。ハナちゃんだって気付いてたじゃない」

「うん、まぁ」

 それは、そうだけれど。それだって、リンジくんの気遣いなんでしょ、と言ってしまっては、彼の気遣いを無駄にしてしまう。釈然としない気持ちが出てしまって、中途半端な返事を返してしまった。

「ここ数日の僕はね、ハナちゃんと知り合えて、一緒にストリート出たり、お弁当までごちそうになったりして、本当に楽しくて幸せだった」

「う、うん」

 な、何急に。

「でも、僕はそんな幸せになって良いのかな、って。僕が怪我を負わせてしまった子は確かに全快したよ。後遺症もないみたいで、僕の都合なんか抜きにしたって本当に良かったと思ってる。でもね、ハナちゃん。僕は彼や彼の家族を危険に晒して、不安にさせてしまった責任をまだ果たしてないんだ。大袈裟だって思われるかもしれない。だけれど、僕が犯した過ちは消えないし、消しちゃいけない。だからって僕が不幸のどん底になれば良いとは思っていないけれど、こうして人並みに、暖かな人たちに囲まれて幸せを享受するのは、まだ、早い気がするんだ」

 そういうことか。判らなくはない。だけけどそれは、私の、香椎羽奈の立場として、判ってあげて、うんと言ってはいけない。

「治療費を受け取ってもらえないから?」

 だからあえて、判っていながらの愚問を返す。

「それもある。勿論彼らは僕を許しはしないだろうし、僕も許されないことをした。治療費なんて金銭で済ませようとも思っていないよ。彼らは昨日の羽原君や栄吉君、過去の僕みたいな人を見るたびに、嫌な思いをするよね。平穏に、家族で楽しく出かけたその場に彼らが現れたら、楽しい時間だってぶち壊しだ」

 それは、良く判る。私や美雪だってしばらくはあのオートバイの音を聞いたら、嫌な予感が過るかもしれないし。それが現実の事故ともなれば尚のこと、その本人や家族には嫌な記憶として刷り込まれる。だけれど、だ。

「でもそれは、リンジくん一人が全部を回復させることなんて無理じゃない」

「そう思う」

 相手家族に誠意を持って、自分の力で稼いだ、せめてもの、リンジくんができる侘びとして、治療費を払いたいという気持ちや、学校を辞めてまで仕事を探して、一生懸命になっているリンジくんの行動は、私が聞けば瞠目に値するけれど、相手家族にとっては「知ったことかいな」くらいにしか思われないかもしれないのだ。

「だったら!」

 それでいて、普段の生活ですら、幸せを感じるのはいけないことと、思ってしまうほどに、今のリンジくんは猛省している。そのリンジくんの姿を嘲笑うような奴がいれば、わたしは胸ぐらを掴み上げてやりたい気持ちになってしまう。それがたとえ怪我を負わされた本人であったとしても、だ。

「だったら、僕は幸せ一杯になって良いのかな。あいつは一歩間違えれば、子供の命を奪うほどのことをしたくせに、あいつが幸せ一杯だなんて許せない、って思われないかな」

「……」

 なんだかだんだん腹が立ってきた。いやもうさっきからちょっとむかっ腹なのは確かなのだけれども。

「私みたいな障碍者に優しいのも、それがあるから?」

 これは、本当は、言ってはいけない言葉だ。

 でも、そんな狡い言葉を持ち出してでも、私は、リンジくんに伝えなくちゃいけないことがある。本当はそんなことなんかないって判っているけれど、でもそのリンジくんの内罰に、私はどうしても頷けない。

「や、違うよ。別にハナちゃんが障碍を負っているからじゃない。できるだけ、手を伸ばして、届く範囲の人だけでも、助けられるなら助けたいって、思ってる。それに、揚げ足取りみたいになっちゃってごめんだけど、ハナちゃんだって目の前で転びそうな人がいたら手は伸ばすでしょ?」

 どこぞの仮面ヒーローみたいなことを言う。でも、それは確かにそう。私が自分で言った障碍者云々の話で言えば、極論、美雪みゆきにだって当て嵌る。美雪に、私が一人だから友達になってくれようとしたの?と問われれば、それは絶対に違う、と答えるだろうし、私が美雪の立場だってそう答える。だけれど、そういう穿った見方をしようと思えば、物事なんていくらだって穿ったものの見方をすることができる。

「まぁ、あんま釈然としないけどそれは判った。要するにリンジくんは、自分に罰を与え続けないといつか自分が犯した罪のことを忘れてしまうんじゃないか、って思ってるのよね」

 リンジくんのそれも、別に怪我も治ってるし後遺症もないし、治療費もいらないって言うんだからいいじゃん、という穿った見方とは真逆の穿った見方になっている、と私は思うのだ。

「うん、そう、だね」

「……はぁ」

 生真面目にもほどがある。後天的に目覚めた生真面目とはこうも融通の利かないものか。今度は大きく、わざとらしく嘆息する。

「ハナちゃん?」

「うん判った。それはもう、好きなだけ、気の済むようにしなさいよ。別に私は止めない」

 自分に罰を与え続けるなんて、映画で見た極端に行き過ぎたオプスデイみたいだ。尤もあれはかなりフィクションとしての脚色がなされているそうだけれど、リンジくんのそれは映画のような絵空事ではない。

「……うん」

 あえて突き放した言い方をした私の言葉に、ほんの少しだけ見え隠れする不安そうな表情を認め、私は内心安心した。

「リンジくんがお腹の中で何を思ってても構わない。でも、私たちと一緒にいる時は、せめて今まで通りにしてよね」

「今まで、通り?」

 それはつまり、少なくともわたしはリンジくんと断絶状態になんてなってやらないということだ。そして、それをやっぱり素直に言えない私の言葉と言えばこうだ。

「そ。リンジくんの勝手なウツに付き合せないで、って言ってんの!」

「あ、う、うん、でも……これ以上ハナちゃんたちには」

 絶対に言うと思った。バカリンジくんめ。私はリンジくんの言葉を遮って声を高くした。

「私らは、リンジくんがその内罰的な考えを忘れそうなほどに、楽しいことに巻き込んでやるから。これからだってずっと!」

「お、怒りながら言うことだろうか……」

 苦笑が、少し和らいだ笑顔になった気がする。元々笑い顔で糸目だから判りにくいけれど。そんな気がした。

「十七年もハンデ背負ってきた人間をなめんじゃないわよ」

「……それはズルい」

 判ってる。でもそんな狡い言葉を言わせたのはリンジくんだ。それに言いはしたけど、そんなに大したハンデはない。私よりももっと深刻で、もっと大変な思いをしている人はたくさんいる。私などではその苦労を伺い知ることすらもできないほどの人だっている。だけれど、わたしも、リンジくんたちいわゆる健常者には判らない苦労や、傍から見れば要らないって思われる気苦労だって、散々してきた。

「でしょ、私の勝手な理屈だからね。だから、友達なんかいらないし、私が友達になりたいなって思った人に私の足のことで迷惑かけたくないし、それが原因で険悪になるくらいなら最初から仲良くなんない方がましだって、ずっと思って生きて来たわ」

 実は美雪という友達ができた今だってそう思っていることはある。それが無くなった訳ではない。ほのかや美雪のように壁を乗り越えてきてくれる人だっている。

「あぁ、だから」

「黙りなさい」

 リンジくんが少し楽しそうな笑顔になったので、私はぴしゃりと言い放つ。まだオレのターンだ。

「……」

「うちの両親もね、きちんと生んであげられなくてごめんねって、お角違いなことでいつも泣いてた。でもそんなもん、私と羽奈の間に何の関係がある!ってぶっ壊したのが仄よ」

 そしてその仄は私の親友だ。つまり、仄の親友を舐めるなよ。

「だから、ハナちゃんにとっての仄ちゃんを、ハナちゃんが僕にしてくれるの?」

 い、いや、その、流れ的にはそういうことになるけれど、それは別に私一人がという訳ではなくて、皆でですね、とも言えず、顔面がかっと熱くなってしまったので、放熱代わりにさらに声を高くした。

「甘ったれんじゃないわよ!いつ誰がリンジくんのためだなんて言ったの?私のために決まってんでしょ!わ、た、し、の!リンジくんがへっこんでたらそれがわたしにも伝播するでしょ!なんで私までへっこまなきゃなんないのよ!って意味!」

 あぁ、私は何とへそ曲がりなのだ!別に恋の告白をする訳でもあるまいし、そんなことくらい素直にそうよ、と一言で、スマートに済ませることが出来たらどんなに格好良いだろうか!

「……ははっ。うん、判った」

 判ったのならよろしい、とろくにない胸を張って私はせいぜい偉そうに頷いてやる。

「でも……。ありがとね、話してくれて」

 もう謝らない。私が謝ればまたリンジくんに罰を与えてしまうことになる。私は、私達は、この人に罰を与える存在であってはならないんだから。

「ハナちゃんに、聞いて欲しいって、僕が思ったんだよ」

「うん。聞けて良かった。本当は思い出すのも辛い話だったでしょ……」

 私も両親が思い悩んでいた頃の話は実際したくない。大体子供が高校生になったくらいの親なんて、週末にふらふらと遊び歩いているくらいが丁度良いのよ。

「頽れたら、頼らせてもらうよ」

「頽れる前に頼りなさいっつってんの!あ、わ、私のためによ!」

 ストレスで倒れでもしたら元も子もない。せめて休みの日くらいは好きな音楽に身を浸したり、ゆっくり休んだりすれば良いのだ。自分が佇まいを正さなければ、と思うことはもちろん立派だとは思うけれど、態々自らが心を擦り減らすようなことをする必要なんてないし、それこそリンジくんが目指しているところに辿り着けなくなってしまう。

「そうだね。ありがと」

「じゃあさっさと送ってもらおうかしらね!」

 どうやらやっとすっきりしたみたいだ。そう、黙っていてモヤモヤするくらいなら、何もかもをぶちまけてスッキリしてしまった方が絶対に良いに決まっているのだ。学校では一人で塞いでた私が言うべきことでもないのだけれど。

「ハナちゃんならここでいいって言うと思った」

「不満な訳ぇ?」

 はい聞くだけのことは聞きました、ではさようなら。ではあまりにも人情に欠けるじゃないの。まだまだリンジくんも私の扱いを解っているようで解っていないわね。

「なんかハナちゃんキャラ変わってない?」

「何かリンジくん相手だと遠慮なくなるみたいな気がしてきた……」

 むむぅ、と顎に手を当てて考えてみる。確かに昨日から色々あり過ぎて、悪い意味ではないだろうけれど、リンジくんを見る目が変わったように思う。

「はは、そりゃあいいや。では行きましょう、お嬢様!」

 そうリンジくんは言うと、ベンチから立ち上がった。


 第十五話:ツン

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