第十二話:車の修理屋さん
私と
「おーリンジ、それ、テスト行ってこいや」
そしてその工場に差し掛かった時に、最近少し聞き慣れた名前が私の耳に飛び込んできた。通りに近いすぐ脇のガレージからだ。
「え、いいんですか?」
おまけに聞き慣れた声まで飛び込んでくる。
「ぶつけたら天引きすっけどな」
「は、はいっ!」
その声はちょっと憎たらしいくらい落ち着いた感じのいつもの声とは違い、多少緊張したような声だった。
「んん?」
私は、思わず、本当に思わず工場の敷地に入ってガレージを覗き込んでしまっていた。
「ちょ、は、
工場の敷地内に入った私に、慌てた様子で美雪が声をかけてくる。
「え、リンジくん?」
そしてそこにはやっぱりリンジくんがいた。上下ツナギの作業服。かなり汚れていてくたびれている。
「あ!」
そして私のすぐ後ろでリンジくんの姿を見つけた美雪も短く声を上げた。
「あ……。は、ハナちゃん、美雪ちゃん」
ばつの悪い顔のお手本だ。リンジくんは私と美雪の姿を認め、若干諦めの表情。つまりこれは、見られたくなかったということなのかしら。
「え、な、何してるの……?」
「え、えと、仕事……」
いや私も動揺しているのか、自分で言っておいてとんでもない愚問だと気付いた。
「も、もしかしてこれ、み、見ちゃダメなやつ?」
美雪もリンジくんの表情から悟ったのか、そんなことを言う。
「あぁ、いや!そんなことないよ」
つまりは疚しいことは何もないということだろう。だけれど。
「でも、なんかばつが悪そうだけど……?」
アルバイトをしていたから今日も来られなかったということなのだろうか。私たちの誘いに来られなかったとしても、働いていたのだから後ろめたいことなんて何もないはずなのに。
「え、えと、後でもいい?」
あ、そうか、今は仕事中だ。とは言ってももう九時近い。これがいわゆるブラック企業というやつか。
「お?何だよリンジィ、彼女け?」
先ほどリンジくんに声をかけた、恐らくは上司であろう人が顔を出した。あ、やばい、怒られないかな。え、いや、今なんて?
「こ、コショさん!ち、違いますよ!」
慌てふためいた様相でリンジくんは言った。確かに違う。私は大して困らないけれども、リンジくんも美雪も迷惑だろう。いや、わたしも色々とからかわれるネタにされるのはとても激しく迷惑だ。最近の美雪ときたらリンジくんのことで私をからかうようになってきているのよ。それはとても良い傾向だけれど、私ばかりがからかわれるのはどうにも悔しい。
「うっわどっちも可愛いなぁ。どっちがリンジの彼女?」
「どっちでもないです」
コショさんと呼ばれた四〇歳ほどの男性に軽く会釈した後、私はぴしゃりと強めの口調で言ってしまった。いや、何となく話が判りそうな人だと勝手に思ってしまったので、ついツッコミのノリで。
「なぁんだよリンジ、モテねぇなぁ!その子らのっけてドライブでもしてこいや!」
あははぁ、と陽気に笑ってコショさんは言う。私の印象通り、随分と気さくな人だ。太っている訳ではないのだろうけれど、お腹の出っ張りが凄い。まるで妊婦さんみたいだ。陽気さと気さくさとその体系が相まってか、随分と良い人、という印象を受ける。
「い、いや、コショさん!」
慌てふためくリンジくんを他所に、コショさんは奥の方へと歩を進める。
「終わったら今日は上がりだ。あんま遅くまでぶらぶらすんなよ、ただでさえ今日は残業だったんだからな!」
「ちょぉー!」
奥に消えて行くコショさんの背中にリンジくんの悲鳴にも似た声は届いていないようだった。
「……何なの?」
私と美雪は当然状況が判らない。ドライブ、とコショさんは言っていた。つまりこの時点でリンジくんは私たちより年上だということが確定だ。別に探っていた訳ではないけれど、少なくとも車を運転できる免許証は持っているということだろう。そうでなければ整備工場の、しかも上司であろうコショさんが許可を出す訳がないだろうから。
「え、えと、少し付き合ってくれるなら車の中で話す、けど……」
つまりリンジ君はこの状況を話そうというのだろう。それならば是非とも聞きたい。時間は結構遅いけれどどうせ週末になるとうちの親は零時を過ぎるまで帰ってこない不良中年だ。大いに結構。
「じゃあお言葉に甘えて!美雪は?」
別にリンジくんのことを根掘り葉掘り聞き出すつもりはないけれど、ここまでの付き合いになった以上、友達としてはもう少し情報は欲しい。私は今のところリンジくんを信頼出来ているけれど、材料は私の個人的心象でしかなくて、信頼できるバックグラウンドは正直少ない。
「あ!じゃ、じゃあわたしも……」
と言いかけてふいに口籠る。時間の都合でもあるのだろうか。
「美雪?」
「あ、や、やっぱりわたし、か、か、帰るね!」
察し。だって美幸の顔が何だかにやけているもの。
「みぃゆぅきぃ~?」
あわよくば家まで送ってもらえるかもしれないし、正直遊び過ぎて私は結構足が疲れてしまっているのだ。それに美雪に態々ネタを提供してやる気だって私にはない。いや、一緒にいることでネタを提供してしまうことになりかねないことは、もしかしたらあるかもだけれど、そこに釘を刺すことは出来る。この間二人でドライブに行ったよね、なんてことは避けられる。
私にじろり、と睨まれた美雪は、一瞬の逡巡の後、頷いた。
「やっぱり行く……」
たいへんよろしい。
「……」
走る車の中、何だか妙に無言になってしまった。訊きたいことはあるのだけれど、どこから、何から話せば良いのかが判らない。そしてリンジくんが運転する車に乗ろうとは夢にも思っていなかった。私は助手席で、美雪は後部座席だ。何故か自然にこうなってしまった。
「で?」
もう判らなくなってしまったので何から話すかはリンジくんに任せようと思い、つい投げやりな言い方になってしまう。
「羽奈ちゃん……」
耳聡く私の声音に反応した美雪が諭すような声を上げる。
「う、ご、ごめんごめん。もうどこから何を訊いて良いのやら……」
「何でも良いよ」
いつもの調子を取り戻したのか、リンジくんがそう言った。もういいや、思付いたところから訊いてしまえ。
「さっきのコショさんっていう人は?」
ポッコリお腹と愛想の良い、話が判りそうなおじさん。そんなイメージだ。
「
「社長さんなの!」
あわわ、リンジくんが働く会社の社長さんに随分な口の利き方をしてしまった。話は判りそうな人だったけれど、後でリンジくんが怒られやしないだろうか。というよりも社長って呼ばなくて大丈夫なのかしら。
「うん。女の子がらみのことにやたら寛大で、休む時も女関係なら許す、て言うくらいの変わった人」
「ほ、本当に変わってるわね……」
普通なら逆ではないのだろうか。女絡みで仕事を休むなんて言語道断。といった感じに。
「まぁそうだね。ちなみに社員には社長って呼ぶなっていつも言ってる」
そういうことか。ステレオタイプの社長ではないということだろう。……多分。
「てことは、リンジくんってアルバイトじゃないってこと?」
「うん、社員」
それもそういうことか。車が運転できる時点で、アルバイトではないような気もしていたけれど、アルバイトをしている大学生という線もあった。でもアルバイト要員に恐らくは商品であろう車の運転まではさせないだろうし。
「ていうか車、運転できるんだ……」
「め、免許はちゃんと持ってるよ!」
疑いようもない事実だろうけれど、一応ちゃんと聴けて良かった。
「そりゃそうでしょうけど、リンジくんて何歳なの?まさか社会人だったなんて思わなかったんだけど……」
「えーとハナちゃんたちより二つ上だから十九歳」
「そうだったのか……」
初めて会った時にも言っていたことだけれど、確かに同年代だ。嘘は言ってない。
「隠してた訳ではないんだけどね」
申し訳なさそうにリンジくんは言った。でも、と思う。
「や、別に私、怒ってないけど。それにそもそも詮索は無しって言ったのはリンジくんじゃない」
「や、それはでも、僕自身の素性を隠したかったからって訳じゃないしね」
はいはい。判ってます。
「私に怪しまれるかも、と思って話しかけたり親切にしてくれたりはしたけど、それ以上のことはしませんよ、って意思表示でしょ」
「そうそれ」
ふふふん、私だってリンジくんの先手を取れることはあるのよ。いつも言い負かされている訳じゃあない。ちょっとだけ気分が良い。
「私も、まさかリンジくんが社会人だったとは思わなくて驚いてるだけだから」
てっきり高校生だとばかり思っていたけれど、それは別に私の勝手な思い込みだったし、こうして事実を知った今でも別に腹は立たない。
「わたしも……。でもどうしてリンジくん、あんなにおどおどしてたの?」
「え、おどおどしてる?」
「さっきまではね。いつもふてぶてしいリンジくんらしくない」
まさか私たちに見られるなんて思いもしなかったのだろうから、動揺するのも判らなくはないけれど。
「ふ、ふてぶてしい、かな、僕……」
「ふてぶてしいって言うよりは、落ち着いてる?」
うんまぁどちらかというと美雪の言う通りかもしれない。憎たらしいほど落ち着いている。でもそうは私が卸さない。
「それは良く言い過ぎってもんでしょ」
「ひどいな」
もはやいつもの調子を完全に取り戻した様子でリンジくんは笑った。ま、この方がリンジくんらしいわ。
「で、この状況は何なの?」
あの整備工場から運転がスタートしたけれど、リンジくんは特にカーナビゲーションを立ち上げている訳でもないし、スマートフォンを立ち上げる様子もない。何となく気分に任せて走っているような気もする。
「これはうちでいろいろと整備を終えたから、最終テスト走行」
「問題がないか、試しに走ってるってこと?」
そうか。車やオートバイは走るための道具だ。不調があって、整備をして、本当に直ったかどうかを確認するには走るのが一番、ということなのだろう。
「そうだね。このまま何もなければお客さんに引渡し。初めて任せてもらえた仕事だからちょっと緊張してるんだ」
最初に私の耳に飛び込んできたコショさんとのやり取りにはそういう意味があったのか。だからリンジくんも少し様子がおかしかったのだろう。
「あぁなるほど。でもこんなおしゃべりしながら走ってて異常とか正常とか判る物なの?」
「普通に走れれば正常だよ。こうしておしゃべりしながら走れてるってことは正常。何か異音がしたり、挙動がおかしかったら異常だけど、今のところ何も問題はないね」
私たちを乗せているのだから、それこそ不調などあっては困るけれど、整備がしっかりしているから大丈夫、ということで良いのかしら。
「プロだぁ」
感心したように美雪が言う。私も思ったけれど、口には出さなかった。
「ま、まぁ仕事だから、さ」
珍しく照れ笑いなんかしてリンジくんは頭を掻いた。
「じゃあバンドも社会人バンド?」
恐らくは仕事仲間か、インターネットなどで知り合った仲間か。どちらにしても社会人であるリンジくんが学生とバンドを組むとは思えなかった。いや大学生ならまだリンジくんよりも年上の人はいるだろうし、それも考えられるか。
「うん。みんな仕事してるし、僕は休みが平日一日と日曜だから、中々思うようにライブはできないんだけどね」
やっぱり社会人バンドか。それで日曜の他は木曜日がお休みで、私の演奏の日とかち合った、ということかな。
「なるほどねぇ……。あ、そうだ、話変わるけどリンジくんは
社会人バンドでライブを行っているのならば知っている可能性はある。
「
「知ってるんかい!」
運転の邪魔になってはいけないので、手ぶりだけでエア突っ込み。
「あぁ、あの時のこと?」
リンジくんもすぐに思い当たったようだった。私とリンジくんが初めて出会った夜のことだ。
「そう!教えてくれてもいいのにさ、
ぶぅと語尾についてもおかしくない子供じみた言い方をしてしまった。いかんいかん。
「あの時が僕とハナちゃんの初対面じゃなくて、せめて今くらい話せる仲だったら、あの人莉徒さんって言ってね、って説明はできたかもしれないけど、ね」
「むーん、それも、まぁそうかぁ」
どいつもこいつも私を嵌めようとしてたという線は無さそうだ。確かに仄の言った通り、それは誰得なのだけれども。
「莉徒さんと会ったの?」
「いや、どうもその莉徒さんが、
だから、香椎羽奈がどんなもんか下見に来た、ということなのだろうけれど、仄や
「あ、そうなんだ。それ、僕たちも出る予定だよ」
僕たち。それはつまり。
「バンドで?」
「うん」
はっきりと頷いてリンジくんは笑った。
「ほほー、それはまた楽しみが一つ増えた!」
リンジくんのバンドなら私も見てみたい。リンジくんが歌わないのは残念だけれど、本気のギタリストのリンジくんが見られるのは、それはそれで楽しみだ。
「そっかぁ、ハナちゃんも出るんだ。僕も楽しみができたよ」
出るとはっきり言った訳ではなかったけれど、話の流れから当然そうなるだろう。それにしてもありがたい言葉だ。
できれば、その時には美雪を巻き込んで一緒に歌いたいと私は目論み始めたところだ。今日の今日だし、まだ美雪には伝えないけれども。そんなことを考えていると、背後から矢鱈とけたたましい音が近付いてきて私たちの乗る車の横を乱暴に通り過ぎた。
「きゃっ!」
美雪が短く悲鳴を上げる。
「うわ……」
少しは美雪を見習って女の子らしい悲鳴を上げてみたいものだけれど、私の反応と言えばこんなものだ。
「ああいう人たちってまだいるよね……」
いわゆる暴走族。中々絶滅しない社会のゴミクズ野郎ども。今前を蛇行運転しているオートバイは一台だけれど、二人乗っているように見えた。そして後ろに乗っている暴走族の手には竹刀のようなものが見える。
この車はリンジくんが人様から預かっている大切な商品だ。傷付けられでもしたら大変なことになってしまう。暴走族のオートバイが急に速度を落として運転席側に並び、並走する。リンジくんは脇目も振らずに前を見て運転しているけれど、別段焦った様子はないように見える。こんな時にでも落ち着いていられるなんて流石リンジくん、と言いたいところだけれど、このままでは状況が好転するようにも思えない。
「ひぃ」
「うわ、絡まれてるの?これ……」
後部シートに座っている男の竹刀がこんこん、と窓ガラスを叩く。暴力的な感じはしない叩き方だったけれど、ニヤニヤしながらこっちを見ているということは、つまりはそういうことなのだろう。となるとこれは、貞操の危機も有り得るということなのだろうか。誰かに連絡を入れた方が良いかもしれない。生憎うちの両親は出かけている。美雪の両親ならどうだろう。土曜日の夜だ。こんな時間ならお父さんもお母さんもお酒を楽しんでいる時間だろうし、弟くんは当然車など運転は出来ない。美雪にも打つ手はないかもしれない。
「無駄かもだけど、ちょっと捕まってて!」
そんなことを考えていると、リンジくんが少し声を高くした。
「ん、わっ!ちょっとリンジくん!」
ぐいん、と急ハンドルを切って、何というのだろう、車が横滑りするような感覚。レースゲームで見たことがある。ゲームではよく見る激しい曲がり方だったけれど、中はこんなにも横に力がかかる物なのか。タイヤが悲鳴を上げているかのような音を立てて、車は急に交差点で曲がった。余りの横揺れの強さにリンジくんの肩におでこをぶつけてしまう。
「……!」
車の横滑りが終わり、事故になることもなく交差点を曲がり切ると、ルームミラーを見てリンジくんが呟いた。
「あちゃあ、ダメか……」
それはつまり。
「ついてきてるってこと?」
「うん。ちょっと、車を傷付けられるのだけは、簡便だなぁ……。仕方ない」
言いながらリンジくんは左右両方とも点滅するウインカー(あとで聞いたのだけれど、ハザードランプというらしい)を着けると、車を道路の脇に寄せて減速させた。見る間に失速し、車は走行を停める。
「え、な、何で停めるの?」
恐怖に慄いた美雪が震える声で言う。暴走族のオートバイが私たちの車のすぐ目の前で止まり、後部シートに座っていた竹刀を持つ男が軽快にオートバイから飛び降りた。
「二人とも、絶ぇっ対に車から出ないように」
それを見てから、リンジくんは車のドアを開け、そう言って車から降り行ってしまう。
「え?え?」
戸惑っているのか言葉を失くした美雪がそれだけを言う。無理もない。暴走族に絡まれるなんて私だって初めてだ。
「ちょっとリンジくん!」
私の制止の言葉は、ドアを閉めた車の中に響くだけだった。
第十二話:車の修理屋さん 終り
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