第二話:素直になれない香椎羽奈
(む、い、いない……?)
歌い終わって辺りを見回すと、先ほど私にもう一曲、と言ってきた背の低い女性の姿は見当たらなかった。無理矢理、次の人にも待ってもらう形で歌ったのにいきなりいなくなるとは失礼だな。
「大慌てで帰ってったよ」
私の後ろから先ほどの糸目で笑い顔の彼が声をかけてきた。あ、いけない、早く片付けないと。
「あ、す、すみません、すぐ片付けます」
「あ、いいよ、慌てないで」
そう彼は言って、マイクスタンドの高さを調整するねじを緩め、自分の使いやすい位置に上げた。私は彼が何をし出したのかと目で追いながら歩いてしまったので、足元脇に置いてある小さなアンプに躓いてしまった。
「あっ!」
今度はぐい、と腕を掴まれた。病院の先生だって男の先生は気を遣うけれどこの人は無遠慮だ。いや、助けてもらっておいてそんな言い草は勿論できないけれど、私は異性に触られることに慣れていないので、ちょっと、どう反応して良いか判らなくなってしまう。
「ほら、僕も一緒にやるから慌てないでやろ」
「あ、ありがとう、ございます」
でも、基本的に良い人なのかもしれない。笑い顔も嫌な、厭らしい笑みではないし、どちらかと言えば整った顔立ち、いや、笑い顔だし、優しくて可愛らしい顔立ちをしていると思う。
(イケメン、ではないわね)
そう心の中で彼に悪態をつくと、少し楽しくなってしまった。
「ギター、ですか?」
無言なのも何だか居心地が悪いので話しかけてみた。弾き語りと言えば大体は私のようにシンセサイザーかキーボード、または電子ピアノ。それからギターが多い。プロ奏者ともなると男性の方が多いけれど、私たちのようなアマチュアのアーティストでは男の人の鍵盤楽器奏者はギター人口と比べれば少ない。
「あぁ、うん。普段はバンドなんだけどね」
なるほど。バンドのギタリストかギターボーカルか。バンドではどちらかをやっているのだろう。
「そうなんですね、楽しみです」
彼が持っていたのはセミアコースティックギターだった。クラシックギターの様に中が空洞になっているけれど、ソリッドギターの様にピックアップが搭載されているものだ。エレキアコースティックギター、フルアコースティックギターとはピックアップの種類が異なる。……程度の知識しか私にはない。セミアコースティックギター、略してセミアコはバンドでもエレキギターとして用いられるので、もしかしたら、この弾き語り用のギターという訳ではないのかもしれない。
「え、聞いてってくれるの?」
「も、勿論ですよ」
何と言うか、ちょっとどんなもんか聞いてってやろうじゃないの、という気持ちに近い。助けてもらっておいて、時間まで譲ってもらっておいてなんだけれど、無遠慮に体を触られたこととか、頼んでもいないのに助けられたこと。つまりは彼の親切に素直になれていない自分を、ちゃんと自覚しているけれど、いや、まぁ、要するに素直になれないだけなんだけど……。
「それはありがたいな。よろしくね」
「あ、はい……」
結局彼の準備が整うまであとは無言になってしまった。
ステージ脇に他の演奏者の楽器が置かれているスペースがある。私も一旦そこにシンセサイザーを置かせてもらうと、人垣に混ざる。
「
「
晶子さんと晶子さんの娘さん、美夏さんも見に来てくれていた。本当にありがたい。美夏さんも母親である晶子さんの血を引いているだけあって若い。私よりも何歳も年上の社会人だけれど、見た感じはまだ女子高生でも通りそうなほどだ。
「おつかれー、羽奈ちゃん。今日も良かったねぇ」
「ありがとうございます」
晶子さんも美夏さんも名目上は私のファンということになっているけれど、きっと心配してくれているんだろうな、という気遣いはいつも伝わってくる。言うと怒られるし、本当に私の演奏を楽しんでくれているのも判るから言わないけれど。でも律儀なことには変わりない。いつも頭が下がる思いだ。
「それじゃ、私たちはこれで」
「またお店、行きますね」
今日のBLTも勿論おいしかったし、他のサンドウィッチ、パスタだってめちゃめちゃおいしい。楽器のメンテナンスや必要機材、クリーニング用具などの必要経費以外のお小遣いは結構
「うん、いつでも。じゃあね羽奈ちゃん」
去って行く二人に会釈をして振り返る。
「羽奈、お疲れ!」
「
今度は仄達に挨拶をする。仄の他にも友達が二人。態々連れて来てくれるということは少なくとも音楽好きだということだ。私たちのようなアマチュアのミュージシャンには固定ファンはいない。せいぜいが仄のように、持ちつ持たれつの付き合いでお互いのライブに顔を出し合うくらいが関の山。勿論私は仄のバンドが好きだし、仄も私の演奏を楽しみにしてくれている。そこは当然譲れない前提があるとしても。だから、付き合いで来てくれる人たちは音楽に興味が無ければすぐに飽きてしまう。
「いやいや、噂の羽奈、聞けて良かったよー」
「だね、凄い綺麗な声だった」
「あ、ありがと……」
やはり仄の友達二人は、音楽が好きなのだろう。それでも、ただ音楽が好きというだけでは飽きられてしまう。その人に合った音楽でなければ。
「仄のバンドより羽奈の方が良いかも」
「なんだと」
そういうことか。恐らくこの二人はロックバンドよりも私がやるような静かな音楽の方が好みなのだろう。そして仄もそれを判って連れてきてくれたのだろう。
「だって仄のバンド、激しいんだもん」
「ロックの判らない女どもめ」
そうは言うものの、仄たちのバンドはそれほど激しいロックではない。どちらかと言えば明るいポップロックだし、もっと激しい音楽をやるバンドはほかにも沢山ある。
「そうは言うけど仄だってお姉さんの受け売りでしょ」
「きっかけはね!今は私なりのロックを追求してんのよ!」
作曲の悩みは尽きない。それはきっと私のようなアマチュアでもプロのミュージシャンでも同じだ。赴くままに創っているとあれ、またこんな感じになっちゃった、ということは良くある。そこから脱却しつつ、自分らしさを追求して行く作業は楽しくもあるけれど、本当に悩ましい。仄も姉という近すぎる存在がバンドをしているということもあってか私には判らない重圧を感じていることもあるみたいだ。
「私は好きよ、仄のバンド」
「流石羽奈!ロックの判る女ね」
私は基本的には自分がやっているような弾き語りベースの音楽が好きだけれど、ロックバンドも大好きだ。仄のバンドも仄のお姉さん、
「そんな詳しい訳じゃないけどね」
自分がバンドをやる訳ではないから、特に好きで聞く、以外のことはしていない。
「あ、始まるかな」
ステージには先ほどの彼がギターを抱えて立っていた。準備は終わったようだ。
「こんばんは。リンジって言います。少しの間だけ皆さんの耳を貸してください」
そう彼は名乗り、しゃらん、とコードをかき鳴らした。
「おぉ……」
彼、リンジくんの演奏は優しかった。ギターの音も空間系のエフェクター以外は使わないクリーントーンで、メジャーコード多めの明るくて優しい展開。歌声もそんなギターの音にマッチしていて、一言で言うなら聴きやすい、す、っと心に入ってくる曲だった。
(やるわね……)
ギターのことはあまり判らないけれど、難しいことはしていない。自分に酔っているというよりも、自分の曲を楽しく歌っているように見える。元々が笑い顔だからそう見えるのかもしれないけれど、ともかく無理がない。そんな気がした。
私はどうかな。こんな風に自然に、無理なく、私の曲をやれているかな。私は自分の曲を歌うのは勿論好き。まだまだ改良の余地だってたくさんあるけれど、自分なりに歌ってみて改善できるところはどんどん変えて行く。変えてみて、歌ってみて、前の方が良かったら戻したり、別の案を考えたりもする。
私自身の歌を私自身が楽しんで変えて行っている。
(聴いてくれる人にも、そういう風に伝わるかな……)
リンジくんの演奏は不思議と自分を顧みるような感覚を沸き起こす。
眼を閉じてその旋律に身を委ねる。心地良い低音域の声とメジャーコード。これが得意分野なのかな。奔放に、のびのびと歌っている。彼の笑い顔も見ている人を安心させる要素の一つになってるかもしれない。
私は基本的に不愛想だし仏頂面だ。多分楽しい歌を歌っている時も、楽しそうには歌えていないと思う。さっき私にリクエストしてくれた女性の前でも、作り笑顔ですら満足にできなかった。
(表現力、とでも言えばいいのかな……)
最初はどんなもんか聞いてやろうという気持ちだった。けれど、これは、悔しいけれど一本取られた。
「羽奈さ、さっきあの人と話してたでしょ」
「あ、う、うん」
リンジくんの曲が終わり、隣にいた仄がそう言ってきた。彼とは話した、というほどの内容ではなかったけれど。
「中々イイんじゃない?」
「何が?」
彼の演奏が良いという意味では確かに、悔しいけれど認めざるを得ない。
「ま、イケメンではないけど良さげな人じゃん、何か」
「まぁ、そうね」
恋愛脳のオハナシね。悪いけど興味はないし私には無縁だ。
「またそんなドライな反応を……」
「あ、ごめん」
私は自分に対するコンプレックスを払拭できている訳ではない。もちろん仄や晶子さんや美夏さん、
仄や晶子さん、美夏さん、涼子先生達の様にこうして時々会うくらいならば多少は甘えさせてもらうことも何とか自分の許容範囲内に収めることはできる。彼女たちも私の準備や後片付けに手を出すようなことはしない。そして私も迷惑をかけないよう、自分のことは最大限に自分でやっている。私の内罰的な性格を知っている彼女達もわざわざそこで手を出すようなことはしないのだ。
昔はそんな気遣い一つ、親切心一つも煩わしいと思ってしまうこともあったけれど、それすらも甘えであることに気付くことはできた。
「あのねぇ、羽奈。色々高望みしてるからそんな態度になんのよ」
「高望み?」
私は望んでなんかいない。誰かを好きになることももう懲り懲りだ。腫物のように扱われて面倒だと切り離されるのが関の山だ。
だから恋愛はしない。人を好きにもならない。
もう恋愛はしないとは言わないよ必ず、とは誰の唄だったか。
仄たちの様に、私を理解してくれて、対等に付き合ってくれる友達がいるだけで充分に果報者だ。
「そ。羽奈じゃなくたって、付き合ったらその相手に迷惑なんて掛かって当たり前だよ」
「……」
それは判るけれど、そのかける迷惑の度合いが、私と普通の人では違う。
「素敵な人と素敵に付き合いたいってのは、多分男だって女だって変わらない理想の姿だけどさぁ」
ふぅ、と嘆息して仄は言った。
「結局生の部分って見せなきゃ上辺だけの付き合いだし長続きしないよ。そういうさ、生の感情ぶつけ合って喧嘩だってしてさ、それでも一緒にいたい、一緒にいて欲しいって、意地汚いくらいに思うから関係って出来上がって行くんじゃないのかなぁとか、さ」
「まぁそう、かもね」
でも、それだけでも私にとってはハードルが高い。身体的ハンデを抱えている私は普通の人とはスタート地点が同じではない。
「出た!仄先生の恋愛談義!」
「ま、受け売りだけどね!」
えっへん、と胸を張って仄は笑う。こういうところが仄の良いところだ。私にない部分、足りていない部分、甘えている部分をずけずけと言ってくる。確かに私は自分の境遇に甘えていることは自覚している。いつも素直に受け取ることは難しいけれど。
「まだ彼氏いない歴、年の数、だもんねぇ」
「うるさいわね、これからよ!」
仄は多分、男性から見ても相当可愛い気がする。よく男の言う可愛いと女の言う可愛いは違う、という言葉を聞くけれど、恐らく仄は相当に可愛いと思う。それでも彼氏ができないのは、仄こそ高望みしているのではないだろうか。
「お姉さんに彼氏いるから焦ってんのよ、仄」
「そうなんだ!」
仄のお姉さん、歩さんもとても可愛い人だ。仄よりも小さくて可愛らしいのだけれど、ステージに立つ姿は別人かと思うくらい格好良い。あんな素敵な人に恋人ができるというのは至極当然のような感じもするけれど、きっと当然でも何でもなく、そこに特別な気持ちや出来事はあったのだろうな、とは思う。まぁできるよね、というのは外野の意見であって当人たちにとってはすべてが特別だったはずだ。
「ふん、お姉ちゃんなんて幼馴染なんていう手の届くとこに手ぇ出しただけだもん!」
「妬かない妬かない」
完全に僻みだ。仄のこういうところも可愛くて私は気に入っている。素直で表情がころころ変わるのは仄の長所だ。
「歩さん、だっけ?」
「そ。すっごい可愛いんだよ」
「あ、ライブだけど見たことはあるよ。確かに可愛かったしカッコ良かったね」
春休みに見たからまだ最近だ。なんでもまだバンドを初めて二年なのだそうだから驚いた。僅か二年でもあそこまで輝けるステージを展開できる、という勇気をもらった。楽器歴は私の方が少し長いけれど、楽器の経験年数や音楽知識、技術の有る無しだけではミュージシャンは語れない。歩さんはそれを体現しているように思えた。
「お姉ちゃんのことはどうだって良いのよ!でもさ、羽奈、あんたって出会ったばっかの時もそうだったけどさ、自虐っぽくても結局周りに認めて欲しい欲強すぎなのよね。ま、判らなくもないけどさ」
「そんな欲、ないわよ」
あるかもしれない。でもそれが高望みだということは判っている。そしてそんな考えが甘えだということも。
「あるある、自分で判ってないだけ」
見抜かれている。それほど単純な性格をしているつもりはないのだけれど、結局仄にはお見通しという訳だ。
「仄のそいうとこ、ほんっとむっかつく!」
「どうぞ存分にムカついてくださいな。私はあんたのこと大好きだから!」
私も好きだけど、こんなに素直に言葉に出来ない。だから仄は私の大切な親友なんだろうなぁ。あぁ悔しい。
「ぐぅ……。と、ともかく演奏!」
完敗とはこのことだ。もっともこの手の話で仄に勝てたことなんてただの一度もないのだけれど。
「あ、そうだね、なかなかイケてるし」
仄はこういう人が好みなのかなぁ。違う気もするけど。
ともかく、リンジくんの演奏は私も興味がある。彼が歌い終わるまでは集中して聞いてみたかった。
第一話:素直になれない香椎羽奈 終り
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